世界中が注目する中、ローマでの会見は実現した。名目は宗教対話、文化交流、平和協力。どれも間違いではなかった。だが誰もが知っていた。歴史的な瞬間になるかもしれない。会見を前にして、ローマ教皇は執務室で静かに資料を読んでいた。そこには一人の人物の記録があった。009-7、かつて男性研究者、今は絶世の美少女の姿を持つサイボーグ。 戦士、救済者、国家指導者。数え切れない戦場、数え切れない難民、数え切れない命を救い、武力を持ちながら武力を嫌い、権力を持ちながら権力に執着せず、人々の幸福だけを願ってきた。教皇は窓の外を見た。 「不思議な人だ」 側近たちは黙っていた。 「人間でありながら」 「国家元首でありながら」 「戦士でありながら」 「そのどれにも収まらない」 しばらく考えた後、教皇は小さく微笑んだ。 「まるで天使のようだ」 それは神学的な宣言ではなかった。ただ、一人の人間に向けた率直な感想だった。 「もし本当に彼女が人々を導いているのなら」 教皇は続けた。 「その道は善きものであってほしい」
会見の日が来た。大理石の廊下、歴史ある広間、無数の報道陣。エレニは静かに歩いていた。いつものように落ち着いていた。その後ろには、なぜか例の屈強な男たちもいた。 「観光法人職員です」 誰に聞かれてもそう答えた。誰も信じなかった。会談は数時間に及んだ。歴史、信仰、文化、平和。互いの違いも語られた。過去の争いも語られた。 しかし、驚くほど穏やかな空気だった。やがて、教皇が尋ねた。 「あなたは何を望むのですか」 エレニは少し考えた。 「人々が争わない未来です」 「帝国の再興ではなく?」 会場の空気が固まった。エレニは微笑んだ。 「もし帝国が必要なら、それは領土ではありません」 「ほう」 「人々が互いを尊重する共同体です」 教皇は静かに頷いた。 「それなら私も賛成です」 数百年に及ぶ対立、誤解、距離。それらが完全になくなったわけではないが、確かに一歩近づいた瞬間だった。歴史の歯車がほんの少しだけ動いた。会談後、教皇とエレニは並んで姿を現した。世界中のカメラが一斉にシャッターを切った。翌日、新聞、テレビ、ネットニュース。 『歴史的和解への一歩』 『宗教対話の新時代』 『ローマ会談成功』 世界中が沸いた。一方、中東自由連邦では009-7が朝食を食べながらニュースを見ていた。 「なんか大変なことになってないか?」 004はコーヒーを飲んだ。 「なっている」 003も頷いた。 「かなり」 007だけは嬉しそうだった。 「エレニ頑張ってるな」 三人は同時にため息をついた。その頃、ローマのホテルで、エレニは一人で夜景を眺めていた。会談は成功した。予想以上だった。だが、彼女の視線はもっと遠くを見ていた。 「歴史は面白い」 静かな独り言。 「誰も剣を抜いていない」 「誰も戦争をしていない」 「それなのに世界が動いている」 窓ガラスに映る自分へ微笑んだ。そして小さく呟いた。 「次はどこへ行こうかしら」 その言葉を聞いていた者は誰もいなかった。
ローマ会談の余波は凄まじかった。最も衝撃を受けていたのはイスラム世界だった。 「待て」 「東ローマ帝国は滅亡したはずでは?」 「なぜ支持者が増えている?」 「なぜ正教会がまとまり始めている?」 「なぜ観光法人なんだ?」 どの会議でも最後はそこに行き着いた。 「観光法人だからな……」 誰も反論できない。軍隊はない、武装組織もない、革命運動でもない、選挙政党ですらない。表向きは、本当に文化事業と観光事業しかやっていない。だから余計に厄介だった。ある国の外務大臣が言った。 「彼女は何を考えている?」 情報機関の長が答える。 「それが分かれば苦労しません」 「危険人物か?」 「たぶん」 「たぶん?」 「本人より支持者の方が危険です」 全員が頭を抱えた。
その頃、中東自由連邦の首都の高級カフェ。世界を騒がせている張本人であるエレニは、のんびりケーキを食べていた。 「おいしいです」 「そうだな」 向かいでは007が幸せそうな顔をしていた。周囲の護衛たちは複雑な顔だった。本人たちは呑気だった。 「ローマどうだった?」 「楽しかったです」 「そうか」 「次は別の場所に行きたいですね」 「どこだ?」 エレニは微笑んだ。 「エルサレム」 沈黙した。護衛が固まった。ウェイターが固まった。近くで偶然コーヒーを飲んでいた004がむせた。 「ぶふっ!」 数分後には緊急会議になった。 参加者は、009-7、003、004、006、007、そしてエレニ。全員真顔だった。 「もう一度言ってくれ」 009-7が言った。 「エルサレムへ行きたいです」 「観光で?」 「観光です」 004が頭を抱えた。 「絶対違う」 「観光です」 「その言葉の信用がゼロなんだ」 003もため息をついた。 「ローマの後でエルサレムはまずいわ」 「なぜです?」 「本当に分からないの?」 「観光ですよ?」 全員沈黙した。 007だけが頷いていた。 「確かに歴史的な場所だしな」 004が机を叩いた。 「お前は少し危機感を持て!」 007は驚いた。 「なぜだ?」 「世界中が注目しているんだぞ!」 「そうなのか?」 「今さらか!」 003は笑いを堪えていた。 「007って昔からこうよね」 「そうだな」 009-7も頷いた。 「大物なのか鈍感なのか分からん」 「両方だろう」 004が即答した。 一方、エレニは窓の外を眺めていた。夕暮れの首都、平和な街。 その表情は穏やかだった。 「私は本当に観光がしたいだけですよ」 誰も信じなかった。004は気付いていた。エレニの計画が何であれ、権力や領土そのものではなくもっと別のものを集めている。人々の共感、物語、象徴、希望。そしてそれは、時に軍隊より強い。004は小さく呟いた。 「厄介な相手だな」 世界中の外交機関では、『パレオロゴス家末裔、エルサレム訪問を検討』 という速報が流れた。