イスラエルのテルアビブ、ベン・グリオン国際空港 到着ロビーでモサドの分析官は報告書を読みながら頭を抱えていた。 「対象、到着」 「確認」 「危険度は?」 「分かりません」 「まだ分からないのか」 「本当に観光しかしていません」 会議室に沈黙が落ちた。 エレニ・パレオロゴス、東ローマ帝国文化財団代表。危険人物なのか、平和活動家なのか、歴史オタクなのか。世界中の情報機関がまだ結論を出せていなかった。空港には例によって屈強な男たちが同行していた。 「護衛か?」 「本人は職員と言っています」 「職員か」 「誰も信じていません」 当然だった。その頃、当の本人は、「暑いですね」と普通に観光ガイドを読んでいた。007はサングラス姿で隣を歩いていた。 「中東だからな」 「歴史の匂いがします」 「匂いで分かるのか?」 「気分ですよ」 007は笑った。数日間、エルサレム旧市街、遺跡、博物館、歴史地区。エレニは本当に観光していた。学芸員と話した。歴史家と話した。発掘現場を見た。それだけだった。モサドは困惑した。 「何も起きない」 「何も起きません」 「本当に観光だ」 「本当に観光です」 報告書を書きながら分析官は悩んだ。
夕食の席でエレニが地図を見ていた。 「次はどこへ行く?」 007が聞いた。エレニは指を動かした。そして、「レバノンも気になりますね」 007は普通に頷いた。 「確かに歴史は深いな」 護衛たちが固まった。モサドの盗聴担当が固まった。 「待て」 「また始まった」 翌日、イスラエル政府で 「レバノン?」 「はい」 「なぜ?」 「観光らしいです」 「またそれか」 全員が頭を抱えた。そして数日後、ベイルートの空港にエレニ一行が降り立った。すると、異変が起きた。空港周辺、道路沿い、建物の屋上に人々が集まっていた。レバノンのキリスト教系住民たちだった。旗、横断幕、歓声。 「ようこそ!」 「皇女殿下!」 「神の祝福を!」 大騒ぎだった。007は驚いた。 「有名人だな」 「そうみたいですね」 エレニは平然としていた。護衛たちは涙ぐんでいた。いつものことだった。一方、イスラム系政治勢力、武装組織、各派閥では全員が警戒していた。 「何が目的だ」 「分からない」 「革命か」 「観光らしい」 「またか」 もはや世界共通の反応だった。ベイルート市内の歴史地区を歩くエレニ。教会跡、修道院、古代遺構。その度に人が集まった。本人は何もしていない。ただ歩いているだけであった。しかし、周囲が勝手に盛り上がった。
004は中東自由連邦で最新報告を読んでいた。 「どうなってるんだ」 009-7も報告書を見た。 「分からん」 「本人は?」 「遺跡の写真を撮っている」 「本当に観光じゃないか」 004は天井を見上げた。 「問題はそこじゃない」 「うん」 「観光しているだけなのに歴史が動いている」 009-7はしばらく考えた。 「それは確かに厄介だな」 一方、ベイルートのホテルでは、夜景を眺めながらエレニが静かに地図を広げていた。レバノン、 シリア、ヨルダン、エジプト。かつて東ローマ帝国が存在した地域。その地図を見ながら、小さく微笑んだ。 「本当に興味深い歴史ばかり」 そして隣では、007がアイスクリームを食べていた。 「次はどこへ行こうか」