そこは誰も注目していなかった土地だった。中東自由連邦と隣国の王国、内戦の続く共和国の国境が交わる地帯。乾いた丘陵地帯、古い街道跡、そして東ローマ帝国時代の城塞遺跡。観光客はほとんど来ない。地元民もあまり近寄らない。歴史学者だけが時々調査に訪れる。そんな場所だった。ある日、東ローマ帝国文化財団が動いた。 「遺跡保全事業です」 エレニは説明した。 「観光開発です」 誰も驚かなかった。最近の彼女はどこへ行っても観光開発を始めるのだ。ところが、数か月後、王国政府は正式に発表した。 『遺跡周辺地域を東ローマ帝国文化財団へ売却』 世界中が固まった。 「何を売った?」 「遺跡周辺です」 「何のために?」 「観光開発です」 またその言葉だった。009-7は報告書を見て頭を抱えた。 「嫌な予感しかしない」 004も頷いた。 「私もだ」 003は呆れた顔だった。 「でも合法なのよね」 「合法だ」 「完全に」 それが一番厄介だった。
工事は急速に進んだ。遺跡修復、博物館、宿泊施設、研究所、学校、病院、さらに教会。図書館、広場、小さな町が生まれた。そして、エレニ自身が移り住んだ。古い城塞を改修した邸宅だった。007も頻繁に訪れるようになった。 「空気がいいな」 「でしょう?」 本人たちは楽しそうだった。問題はその後だった。人が集まり始めた。歴史研究者、芸術家、職人、巡礼者、企業家。様々な人々が移住を希望した。最初は数十人、次は数百人、やがて数万人。町は都市へ成長していった。世界中のメディアが取材に訪れた。 『新たな文化都市』 『中東の学術拠点』 『歴史観光の奇跡』 完全に成功例だった。
情報機関の分析は違った。 CIA、MI6、モサド、FSB、他。全員が同じ結論に達し始めていた。 「これは何だ?」 国家ではない。企業でもない。宗教組織でもない。だが、行政機能がある。警備組織がある。学校がある。税金に近い会費制度がある。独自の住民登録制度まである。004は報告書を閉じた。 「もう国家じゃないか」 009-7も黙った。 「国家だな」 「本人は?」 「観光都市だと言っている」 「なるほど」 「誰も信じていない」
新都市の中央広場でエレニは住民たちと談笑していた。子供たちが走り回った。露店が並び、教会の鐘が鳴った。平和な光景だった。老人がエレニに言った。 「ここへ来て良かった」 「ありがとうございます」 「安心して暮らせる」 「それは嬉しいですね」 老人は微笑んだ。 「まるで新しい故郷だ」 エレニも微笑んだ。少し離れた場所では、巨大な旗が風になびいていた。文化財団の旗。だが、住民たちは別の呼び方をしていた。 「帝国の旗だ」 エレニはそれを否定しなかった。肯定もしなかった。ただ静かに眺めていた。
その夜、城塞のテラスで007がワインを飲んでいた。 「ずいぶん賑やかになったな」 「そうですね」 「良い町だ」 「ありがとうございます」 007は本心から喜んでいた。そして、まったく気付いていなかった。自分が座っている場所を世界中の新聞が、『東ローマ帝国の新宮殿』 と呼び始めていることに。一方、004は最新報告書の最後の一文を読んだ。 『住民の間で自治政府樹立を求める声が増加』 004は静かに机に額を打ち付けた。「とうとう始まったか……」 そして遠く離れた新都市では、エレニが夜空を見上げながら小さく呟いていた。 「私は何も命じていないのに」 その表情は困っているようにも、満足しているようにも見えた。歴史はまた少しだけ動き始めていた。