最初は一通だった。エレニの執務室に秘書が首を傾げながら封筒を持ってきた。 「また届きました」 「何ですか?」 「正教会からです」 エレニは封を切った。 そして固まった。 『皇帝陛下へ』 沈黙。 「……誰のこと?」 「たぶんあなたです」 「違います」 「たぶんあなたです」 数日後。二通、三通、十通。ギリシャ、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、ジョージア。世界中の正教会関係者から手紙が届いた。 『皇帝陛下』 『帝室殿下』 『ローマ皇帝陛下』 エレニは困った顔をした。表向きは、「やめてください」 と返事を書いていた。しかし、秘書は気付いていた。返信を書く時だけ妙に機嫌が良い。本人は否定した。 「気のせいです」 絶対気のせいではなかった。一方、都市の住民たちはもっと単純だった。 「皇帝陛下」 「皇帝陛下万歳」 「陛下のお通りだ」 誰も命令していない。勝手にそう呼び始めた。エレニは否定した。 「私は皇帝ではありません」 住民たちは頷いた。 「なんと謙虚なお方だ」 話が通じなかった。004は報告書を閉じた。 「終わったな」 「何が?」 009-7が聞いた。 「もう誰も止められない」 「そこまでか?」 「そこまでだ」 004は珍しく断言した。 「建国宣言すらしていないのに国家になりつつある」 「そんなことある?」 「あるから困っている」 003は苦笑した。 「歴史って時々そういうものよ」
問題はさらに大きくなった。ある日、警備隊が慌てて連絡してきた。 「集団が接近中!」 「武装か?」 「はい!」 都市は緊張した。だが、やって来た男たちは都市へ入るなり膝をついた。 「陛下!」 全員が固まった。中東各地から集まったキリスト教徒の元民兵たちだった。彼らは敬礼した。 「我々は志願兵です!」 「何の?」 「帝国防衛のためです!」 エレニは頭を抱えた。 「帝国はありません」 「あります!我々の心に!」 話にならなかった。数週間後、さらに増えた。レバノン、シリア、イラク、その他各地。様々な勢力の出身者が集まった。彼らは共通していた。皆、東ローマ帝国の復活を信じていた。そして、勝手に組織を作った。 「ローマ帝国軍」 004はその報告書を見て頭痛薬を飲んだ。 「最悪だ」 「武装組織か?」 009-7が聞く。 「いや」 「違うのか?」 「今のところ災害救助と警備活動しかしていない」 「良い連中じゃないか」 「そうなんだよ」 だから余計に困った。彼らは規律正しかった。犯罪を取り締まり、巡礼者を保護した。災害救助をした。評判が良かった。住民からも支持された。誰も排除を望まなかった。国際社会も非難しづらい。極めて厄介だった。
その夜、城塞の最上階でエレニは一人で夜景を見ていた。眼下には光り輝く都市。遠くではローマ帝国軍の巡回隊が歩いていた。教会の鐘が鳴り、市場は賑わった。人々は平和そうだった。彼女は静かにワインを口にした。そして、誰にも聞こえない声で呟いた。 「建国宣言はしていない」 小さく笑った。 「即位宣言もしていない」 さらに笑った。 「全部、みんなが勝手にやっているだけ」 窓の外を見た。都市、住民、旗、義勇兵。そして、世界中から届く手紙。 『皇帝陛下へ』 エレニはその一通を指でなぞった。青い瞳が楽しそうに輝いた。 「計画より少し早いけれど」 静かな独り言。 「悪くないわね」 その頃、隣の部屋では007がソファで寝ていた。完全に平和ボケした顔だった。エレニは思わず笑った。「この人だけは最後まで気付かなさそうね」 そして歴史はまた一歩、誰も止められない方向へ進み始めていた。