始まりは一通の文書だった。中東の山岳地帯で、長年、周囲の武装勢力に囲まれながら生き延びてきた小さなキリスト教徒共同体。彼らは実効支配地域を維持していたが、先行きは暗かった。ある日、エレニの都市へ使者が到着した。宛名『皇帝陛下へ』 004はその文書を読んで頭を抱えた。 「またか」 内容は簡潔だった。 『我々を保護してほしい』 『我々はあなた方を承認する』 『代わりに庇護を求める』 部屋は静まり返った。009-7も珍しく真顔だった。 「これはまずいな」 「非常にまずい」 004が頷いた。今までは観光、文化、歴史だった。しかし今回は違う。政治そのものだった。数日後、エレニは代表団と面会した。疲れ切った人々だった。戦争、迫害、難民化。長年それらに苦しんできた。彼らは言った。 「我々には行き場がありません」 エレニは黙って聞いていた。長い沈黙の後、「保護します」 代表者が顔を上げる。 「本当ですか」 「困っている人を見捨てる理由はありません」 その言葉は世界へ伝わった。
世界は騒然となった。ニュース番組、SNS、外交機関。誰もが同じ話題を語った。 「東ローマ帝国が領土を持った?」 「いや違う」 「いや実質そうだろう」 「いや観光法人だ」 「観光法人が保護領を持つな」 議論は終わらなかった。 一方、エレニ本人は困惑していた。 「私は保護を認めただけです」 誰も信じなかった。やがて、国連から正式な招待状が届いた。総会で説明してほしい。世界が注目していた。ニューヨークの国連本部。総会場は満席だった。外交官、記者、研究者。全員がエレニを見ていた。そして、演壇に立ったエレニは静かに話し始めた。 「私は戦争を望みません」 場内は静まり返った。 「征服も望みません」 「領土拡張も望みません」 「ただ、人々が安全に生きられる場所を守りたいだけです」 各国代表が耳を傾けた。 「宗教を理由に迫害される人」 「民族を理由に迫害される人」 「どの共同体であっても」 「助けを求めるなら話を聞きます」 会場はざわついた。その発言は大きかった。エレニは続けた。 「私が求めるのは平和です」 「もし同じような人々が現れたなら」 「私はまず対話を選びます」 「そして可能なら保護します」 演説は短かったが世界中へ配信された。
様々な反応が起きた。迫害や紛争を経験した少数派共同体は希望を見出した。宗教指導者たちは評価と懸念の両方を表明した。各国政府は対応を協議した。そして、当然ながら反発も起きた。エレニを危険視する者たち、理想主義者と見る者たち、政治的野心家と見る者たち。評価は真っ二つに割れた。一方、中東自由連邦では009-7は演説を見終えてため息をついていた。 「また大事になったな」 004はコーヒーを飲んだ。 「今回は本当に大事だ」 「そうか?」 「宗教と政治が絡み始めた」 009-7も珍しく笑わなかった。その意味は理解していた。窓の外では、エレニの都市の灯が輝いていた。平和な市場、賑わう広場、行き交う観光客。その光景は変わらない。だが、世界はもう、この都市を単なる観光都市とは見なくなっていた。そしてエレニは夜空を見上げながら、小さく呟いた。 「平和は難しいわね」