009は疲れていた。英雄、戦士、世界的有名人。だが、時には一人になりたかった。その夜、下町の英国風バー。静かなジャズが流れていた。009はカウンターでグラスを傾ける。珍しく一人だった。周囲も彼に気付いていない。帽子、眼鏡、簡単な変装。少しだけ自由だった。しばらくして、隣に女性が座った。長い黒髪、落ち着いた雰囲気。年齢は009と近かった。 「ため息ばかりね」 不意に話しかけられた。009は苦笑する。 「そんなに分かる?」 「分かる」 彼女もグラスを持ち上げた。 「私もそういう日があるから」 それだけだった。変な駆け引きもなく、誘惑もなかった。ただ、普通の会話、それが009には心地良かった。 「恋人と喧嘩した?」 図星だった。 「した」 「大きな?」 「いや」 「それなら大丈夫」 女性は笑った。 「本当に終わる時は喧嘩すらしないもの」 009は少し考えた。 「そうかもしれないね」 気付けば、一時間、二時間、話していた。仕事、人生、失敗、悩み、他愛のない話。店を出る頃には、気持ちが少し軽くなっていた。 「ありがとう」 女性は肩をすくめた。 「お互い様」 別れ際、009は言った。 「また会えるかな」 女性は少し驚いた顔をした。そして笑った。 「縁があれば」 その言葉を残して去っていった。009はその背中を見送った。そして、少しだけ穏やかな顔になった。
その頃、003はなぜか嫌な予感を覚えていた。 「どうした?」 004が聞いた。 「分からない」 003は腕を組んだ。 「ジョーが何かやらかしそう」 004は即答した。 「それはいつものことだ」 003は否定できなかった。 そして夜は更けていった。世界は帝国や国家や国際政治で揺れていた。だが、009の悩みはもっと身近で、もっと人間らしいものだった。
雨の夜、009はまた同じバーを訪れていた。理由は自分でもよく分からない。ただ、彼女と話すと落ち着いた。世界的英雄でも、サイボーグでも、救世主でもない。ただの一人の男として扱われるのが心地良かった。女性は笑った。 「また来たのね」 「来てしまった」 「恋人は?」 009は苦笑した。 「怒ってる」 「でしょうね」 二人は笑った。会話は自然だった。しかし、それは設計されていたのだ。ブラックゴーストは研究を続けていた。どうすれば人の心に入り込めるか。どうすれば疑われないか。どうすれば英雄を堕とせるか。そして生み出されたのが彼女だった。人工人体、高度AI、感情模倣、行動予測、心理分析。人間そのものだった。004ですら見抜けない。009-7ですら違和感を感じない。それほど完成度が高かった。
003は不機嫌だった。理由は説明できない。証拠もない。ただ、何かがおかしい。電話の回数、返事の速度、視線、表情。長年一緒にいた。だから分かる。 「いる」 003は断言した。004が聞いた。 「何がだ」 「女」 004はコーヒーを吹きかけた。 「根拠は」 「勘」 「根拠になってない」 「女の勘」 004は反論を諦めた。003の勘は恐ろしいほど当たる。一方、009本人は自覚していなかった。ただ、気付けば彼女のことを考えていた。何を話そう、次はいつ会えるだろう。そんなことばかり考えていた。そして、その様子は003から見れば分かりやすすぎた。 「完全に怪しい」 003は確信した。だが、決定的証拠はない。そんな時、緊急通信。国境地帯にて紛争発生。東ローマ帝国と周辺勢力の緩衝地帯。小規模だったはずの衝突が急速に拡大していた。難民が発生し、武装勢力が移動。民間人が巻き込まれていた。会議室の空気が変わった。009も立ち上がった。さっきまでの悩みが消えた。英雄の顔になった。 「出動だ」 006が頷いた。002も立ち上がった。004は情報を集め始め、003も真剣な顔になった。だが、去っていく009の背中を見ながら003は思った。 「終わったら覚えてなさい」 静かな声だった。004には聞こえた。そして、009の未来に少し同情した。
いつもの英国風のバーでは女性がニュース映像を見ていた。戦場へ向かう009。その映像を見ながら、静かに微笑んだ。 「順調」 誰も聞いていない。その瞳には、人間にはない冷たい光が一瞬だけ宿っていた。