終紋の王   作:持麻呂

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第三話

翌朝。トタン屋根の隙間から差し込む、埃っぽく濁った光がリンの顔を照らした。

 

薄い毛布を跳ね除け、硬い木の板に等しいベッドから身を起こすと、全身の関節が微かな悲鳴を上げた。昨日の狩りで酷使した筋肉が鉛のように重く、疲労が骨の髄まで染み込んでいるのがわかる。十四歳の細い身体には、命懸けのサバイバルはあまりにも過酷だった。

 

リンは小さく息を吐き、傍らの木箱の上に置かれていた銀色のパッケージを手に取った。

昨夜、あの底知れない白髪の隣人――ネイトが置いていった、旧文明の完全栄養食(レトルトパウチ)だ。

 

「……食うか」

 

腹の虫が限界を訴えている。リンは意を決して、銀色のパッケージの封を切った。

途端に、化学的に合成された甘ったるい匂いが鼻腔を突いた。中には、薄い琥珀色をしたゼリー状のペーストが詰まっている。リンはそれを口に含み、一気に飲み込んだ。

 

「っ……!」

 

決して美味とは言えない。泥水のようなスラムのスープに慣れた舌には、味が濃すぎる上に人工的すぎた。

だが、次の瞬間、リンは自身の身体に起きる劇的な変化に目を見張った。

胃袋に落ちた冷たいペーストが、まるで熱を持ったマグマのように発熱し、瞬く間に全身の血管へと駆け巡り始めたのだ。失われていたビタミン、ミネラル、必須アミノ酸といった旧文明が計算し尽くした完璧な栄養素が、飢餓状態にあった細胞の隅々まで染み渡っていく。

ものの数分で、全身を苛んでいた筋肉痛が嘘のように引き、鉛のように重かった四肢にバネのような弾力が戻ってきた。

 

「すごい……これが、旧文明の食事……」

 

一晩寝ただけでは到底回復しないはずの疲労が、完全に消え去っている。それどころか、昨日よりも身体が軽く、力が漲ってくるような錯覚さえ覚えた。

空になったパウチをゴミ箱に捨てながら、リンは昨日背後に回ってきたネイトの、あの無機質なほど冷たく滑らかな指先の感触を思い出した。

なぜ、彼女はあんな高価なものを自分にくれるのか。彼女の正体は何なのか。

 

考えても答えは出ない。ただ一つ確かなのは、あのような超技術の恩恵を日常的に享受できる「強者」たちの世界が、手の届かない場所にあるという圧倒的な事実だけだった。

リンは小屋の隅に立てかけていた武器――『超振動合金』の破片を括り付けた手製の槍――を手に取った。

ずしりと、腕の骨が軋むような重さが伝わってくる。

 

この世界の遺構から発掘される旧文明の武器は、使用者の『紋数』を読み取って機能のロックを自動で解除する。例えばこの槍の穂先も、参紋の領主が握れば、分子の結合すら断ち切る不可視の刃を形成し、鉄鋼すらバターのように切り裂くだろう。

 

しかし、壱紋のリンが持っても、ただの「異常に重くて硬い鉄の塊」に過ぎない。

それでも、前世の記憶――テコの原理や重心の概念――を応用して構えれば、その重さを利用した強烈な物理攻撃を放つことができる。

 

「小型相手なら、これと罠の組み合わせでなんとか殺せる。……でも、それじゃあいつまで経っても『弐紋』には届かない」

 

リンは自身の右腕に浮かぶ、薄い壱紋の紋様を睨みつけた。

零紋から壱紋への昇紋には、神結晶が十五個で済む。だが、壱紋から弐紋に上がるには、数百、いや千近い神結晶が必要だと言われている。

 

小型機械を倒しても、神結晶を持っている確率は一割にも満たない。空振りの日々を繰り返していれば、弐紋になる前にいつか必ずミスをして命を落とす。

確実に神結晶を手に入れるには、必ずそれを宿している**『中型戦闘機械』**を狩るしかなかった。

しかし、中型機械は、訓練された重武装の成人男性が五人がかりでようやく倒せるか、あるいは弐紋以上の実力者が単独で相手にするレベルの化け物だ。壱紋の子供が一人で挑むなど、この街の連中からすれば自殺志願者以外の何者でもない。

 

「……やるしかない。ここで一生泥水啜って死ぬくらいなら、賭けに出る」

 

リンは背負子に、厳選した罠の材料を詰め込み始めた。

廃墟のエレベーター跡から回収した極太の鋼鉄製ワイヤー。旧文明の大型車両の足回りから取り外した巨大なサスペンション・スプリング。そして、化学工場跡地の地下深くから命懸けで持ち帰った、強い衝撃を与えると発火・爆発する特殊な粉末。

 

この世界の人々は、科学を魔法として捉え、紋数の力でしか戦わない。だからこそ、リンの脳内に眠る前世の知識――物理法則、運動エネルギーの変換、化学反応――というロジックは、神の力にも匹敵する唯一の武器だった。

頭の中には、すでに中型機械を殺すための致死のトラップが組み上がっていた。

 

《テラタス》の街を出て、リンは再び大森林へと足を踏み入れた。

だが、今日の目的地は昨日までの狩場――森の浅い部分ではない。さらに数時間歩いた先、鬱蒼とした木々が日の光を完全に遮り、巨大な旧文明の遺構がそのまま地形の一部となって大自然と融合している**『深部』**だ。

道中、街の換金所で交わされていた《スクラッパー》たちの会話が脳裏をよぎる。

 

『最近、深部はやべぇぞ。中型の群れがうろついてるって噂だ』

 

『あそこは旧文明の軍事施設の跡地だからな。遺構の防衛システムがいまだに生きてるらしい。それに、豚族の略奪部隊もあの辺りで目撃されてる。命が惜しけりゃ近づかないことだな』

 

歩みを進めるにつれ、周囲の景色が異様なものへと変わっていく。

足元には、ひび割れた黒いアスファルトの残骸が広がり、そこから赤黒い蔦が網の目のように這い回っている。頭上には、崩落しかけた巨大なコンクリートの高架橋が、苔と巨大なシダ植物に覆われながらも、幾層にも重なってその威容を保っていた。かつて『立体交差』と呼ばれていた巨大な交通インフラの成れの果てだ。

 

空気が重く、息苦しい。森の浅い場所とは違い、ここは九百年前の終末戦争の爪痕がいまだに濃く残る、死の領域だった。

 

リンは高架橋の真下、コンクリートの地盤が崩落してすり鉢状に窪んでいる場所を狩場に選んだ。

背負子を下ろし、すぐさま罠の設営に取り掛かる。額から汗が滝のように流れ落ちるが、拭う暇もない。

 

(中型の重量は、およそ五百キロから八百キロ。突進のスピードと質量をワイヤーで受け止めて、スプリングの反発力で火薬の起爆スイッチを入れる……!)

 

まずは、すり鉢の底を通る獣道に極太の鋼鉄ワイヤーを張り巡らせる。それを両脇の巨木ではなく、地中に埋まったままの旧文明の強固な鉄骨に巻き付け、巨大なサスペンション・スプリングと連結する。

さらにその中心点、機械の頭部が来るであろう高さに、爆発性の粉末を限界まで圧縮して詰めた鉄パイプを設置し、ワイヤーが極限まで張られた瞬間に撃鉄が落ちるよう、廃材の歯車で起爆装置を組み上げた。

ただの落とし穴や質量攻撃ではない。相手の圧倒的な運動エネルギーそのものを逆利用し、指向性の爆発へと変換して脳天を打ち抜く、前世の物理演算の結晶だ。

一時間ほどの死闘のような作業を終え、リンがようやく息をついたその時だった。

 

――ズズンッ

 

大地が、微かに揺れた。

リンの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。

風が止んだ。周囲を飛んでいた森の虫たちの羽音がピタリと消え、小鳥たちのさえずりも途絶える。不気味なほどの静寂に包まれた空間に、這いずるような重低音が響き始めた。

 

ギュィィィン……ガシャン…ギュィィィン……ガシャン

 

それは、昨日狩った小型機械の駆動音とは比べ物にならない。圧倒的な質量を伴う金属の軋みと、周囲の空気を焼き焦がすような排熱の音だった。

 

「来た……」

 

リンは息を殺し、高架橋の柱の陰、巨大なシダ植物の裏へと身を滑らせた。

双眼鏡を構える手が、わずかに震えている。

鬱蒼とした木々を、まるで小枝のようにへし折りながら『それ』は姿を現した。

 

 

**中型戦闘機械**

 

 

全長は三メートルを優に超え、まるで巨大な六本足の蜘蛛と、重装甲の戦車をグロテスクに融合させたような悪夢の姿だった。全身を覆う鈍色の超振動合金装甲は、何百年もの風雨に晒されながらも傷一つなく、森の薄暗がりの中でも不気味な光沢を放っている。

関節部からは青白いエネルギーの光が漏れ、六本の脚が地面を突き刺すたびに、地盤が悲鳴を上げて陥没した。

頭部にあたる部分には、人間の子供ほどの大きさがある巨大な単眼のメインセンサーが備わっており、ギラギラと血のような赤い光を放ちながら、周囲の熱源と音敵を冷酷に走査していた。

 

(でかい……。それに、あの装甲の厚さ……小型とは文字通り桁違いだ)

 

リンの額から、じっとりと冷や汗が滑り落ちる。

近くで見ると、その絶望的なまでの性能差が肌で理解できた。あんな装甲、壱紋の力で槍を突き立てたところで、火花一つ散らさずに弾き返されるに決まっている。

罠が完璧に作動し、急所に直撃しなければ、勝ち目は万に一つもない。

中型機械は、すり鉢状の窪みへとゆっくりと足を踏み入れた。

赤いセンサーが左右に振れ、リンが仕掛けた囮――狩ってきたばかりの獣の死体――を捉える。

歩みが早まった。

 

あと十歩。

 

五歩。

 

(よし、そこだ。そのワイヤーに足を引っ掛ければ……!)

 

リンが拳を握りしめた、まさにその瞬間だった。

*ピタリ*と、中型機械の巨体が罠の数メートル手前で停止した。

 

「……え?」

 

赤い単眼センサーが、地面スレスレに張られていた鋼鉄ワイヤーの反射光、あるいはその微細な張力による空気の歪みを捉えていた。

高度なAIを持たないとはいえ、中型の戦闘プログラムは小型の比ではない。空間の不自然な構造物を即座に「トラップ」として認識し、脅威判定を下したのだ。

 

ギ、ギギギ……カシャン!

 

中型機械の背中の分厚い装甲がスライドし、内部から巨大な砲身がせり出してきた。

それは、六つの銃身を束ねた旧文明の重火器――**『ガトリング砲』**だった。

 

(嘘だろ……。遠距離兵装持ちの個体……!?)

 

リンの顔から血の気が引く。

中型機械は、罠のワイヤーへ向けて、何の躊躇いもなくその銃身を回転させた。

 

ギュイィィィィィン――ガガガガガガガガガガガッ!!!!!

 

大気を引き裂く凄まじい轟音。

毎分数千発という気の狂うような速度で放たれた徹甲弾の雨が、すり鉢の底を文字通り「耕して」いく。

太さ数センチの強靭な鋼鉄ワイヤーが紙くずのように千切れ飛び、罠の要であったサスペンションは蜂の巣にされ、仕掛けていた起爆パイプは空中で無惨に誘爆し、虚しく火柱を上げた。

ドーム状の衝撃波が森を揺らし、木々の葉が吹雪のように舞い散る。

リンが数時間をかけて構築し、物理法則の全てを注ぎ込んだ必殺の罠は、発動する前に、ただの圧倒的な『暴力』によって跡形もなく粉砕されてしまった。

 

「あ……」

 

土煙が舞い上がる中、絶望に凍りつくリン。

そして、煙が晴れた直後。

中型機械の巨大な赤い単眼センサーが、ゆっくりと、しかし正確無比な動作で。

柱の陰に隠れている、リンの方向へと向けられた。

 

*ピピピピッ――【 Target Locked 】*

 

機械の内部から、合成された無機質な音声が漏れ聞こえる。

見つかった。

相手は重武装の中型。距離はわずか二十メートル。隠れ場所である柱ごと、あのガトリング砲で粉砕されるのは火を見るより明らかだった。壱紋の脚力で逃げ切れる距離ではない。

死の恐怖が、リンの全身の毛穴を全開にさせる。

 

「くそっ……来るな……ッ!」

 

リンは超振動合金の槍を構え、覚悟を決めて飛び出した。

だが、中型機械の反応速度は少年の決死の覚悟を嘲笑うかのように速かった。

地響きを鳴らし、六本の脚で爆発的な跳躍を見せる。数トンの質量の塊が、太陽の光を遮り、リンの頭上から圧倒的な死の影を落とした。

辺境の少年の、強者への無謀な挑戦。

その結末を告げるかのように、大森林の深淵に、重機関砲のけたたましい駆動音が再び鳴り響いた。

 

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