終紋の王   作:持麻呂

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第六話

ポタリ…ポタリ…

 

冷たい水滴が石の床を打つ音が、無限に続くような暗闇の中に反響していた。

ひどく冷たい。そして、むせ返るようなカビと、淀んだ古い空気の匂いがする。

リンは、重く張り付いたまぶたをゆっくりと押し上げた。

 

視界は真っ暗だったが、やがて目が慣れてくると、空間の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。壁のあちこちに埋め込まれた旧文明の非常誘導灯が、九百年の時を経てもなお、幽鬼のように青白い光を明滅させているのだ。

 

「……あ、ぅ……」

 

声を出そうとして、肺からゴボリと血の塊が逆流した。

激痛という言葉すら生ぬるい。全身の神経が、狂ったように緊急信号を脳に送り続けている。

自分がどうなったのか、前世の記憶と今の状況が混濁する頭で必死に思い出す。

 

(そうだ……地面が崩れて……落ちたんだ……)

 

大森林の地下に隠されていた、旧文明の巨大な地下空間。おそらくは軍事基地か防空壕の遺構。

リンは、何十メートル、あるいは百メートル以上の高さを落下したのだ。途中で何度か斜面にぶつかり、瓦礫と共にこの広大な空間の底へと叩きつけられたらしい。

 

奇跡的に即死は免れた。だが、それは「まだ息がある」というだけの状態だ。

右足はあり得ない方向に折れ曲がり、感覚が完全に消失している。肋骨は数本折れて肺を突き刺し、浅い呼吸をするだけで口から血の泡が吹き出した。内臓も破裂しているだろう。このままでは、あと数分で確実に命を落とす。

 

リンは濁っていく意識の中で、首をわずかに動かした。

視線の先、非常誘導灯の青白い光に照らし出された暗がりの中に、巨大なシルエットが横たわっていた。

 

**大型戦闘機械**。

 

三日三晩、リンを執拗に追い立てた三十メートル級の絶望。

その巨体は今、見るも無惨な鉄屑と化していた。リンよりも遥かに重いその質量が仇となり、落下時の衝撃をまともに受けたのだ。分厚い超振動合金の装甲はひしゃげ、頭部の巨大なマルチアイ・センサーは完全にひび割れて光を失っている。

さらに、崩落に巻き込まれた旧文明の巨大なコンクリートの塊や鉄骨が、機械の胴体を串刺しにするように突き刺さっていた。

無敵を誇った殺戮兵器は、重力という物理法則と、旧文明の残骸の圧倒的な質量の前に沈黙していた。

 

「ハハ……ざまぁ、みろ……」

 

血まみれの唇の端を歪め、リンは皮肉な笑みを漏らした。

壱紋の少年では万に一つも勝てない相手。だが、結果的に勝った(生き残った)のはリンの方だ。

 

(……待てよ?)

 

薄れゆく意識の中で、リンの脳裏に電撃のような閃きが走った。

大型戦闘機械。

それは、世界でも稀にしか姿を現さない戦略級の遺物。

そして、この世界における絶対的な法則。

 

 

――大型戦闘機械は、必ず**『参紋』の神結晶**を宿している。

 

 

参紋。この《テラタス》の街の領主と同等の、一般人からすれば神にも等しい絶大な力を秘めたナノマシンの集合体。

《自分よりも紋数の高い神結晶を注射すると、元の持ち主の紋数か、それよりマイナス一の紋数になれる》

つまり、壱紋であるリンが参紋の神結晶を今すぐ体内に取り込めば、弐紋、運が良ければ一気に『参紋』へと成り上がれる。

 

昇紋の際、ナノマシンは宿主の肉体を最適化するため、すさまじい細胞分裂と治癒を引き起こす。それなら、この致命傷すらも治るかもしれない。

生きるための、唯一にして最大の賭け。

 

「あ、あああぁぁぁ……ッ!!」

 

リンは折れた足を引きずり、両腕の力だけで地面を這い始めた。

瓦礫の破片が腹を切り裂き、動くたびに内臓がこぼれ落ちそうになる激痛に襲われる。肺が悲鳴を上げ、視界が何度もブラックアウトしそうになる。

それでも、リンは腕を前に出し続けた。

 

這った跡には、べっとりと黒ずんだ血の道が残る。

十メートルほどの距離が、果てしない砂漠の横断のように感じられた。

やがて、リンの血まみれの手が、冷たい超振動合金の装甲に触れた。

大型機械の胸部。落石によって装甲が大きく割れ、内部のメインユニットが剥き出しになっている。

青白い火花が散る配線の奥深く。

そこに、泥と血にまみれた地下空間には到底似つかわしくない、神々しいまでの光を放つ物質が鎮座していた。

 

**『神結晶』**。

 

大人の拳ほどもある巨大な結晶体。それは淡い翠緑色の光を放ち、内部では無数の光の粒子――極小のナノマシン――が銀河のように渦巻いていた。小型や中型のそれとは比べ物にならない、圧倒的な純度とエネルギーの塊。

 

「あった……」

 

リンは震える手を伸ばし、配線の山を掻き分けて、その巨大な神結晶を掴み出した。

ずしりとした重みと、不思議な温かさが掌から伝わってくる。

リンは首から下げていた革紐を引きちぎり、銀色の筒――**『シリンジ』**を取り出した。

ターミナルから排出される、この世界で最もありふれていて、最も高度なオーパーツ。

リンは神結晶を、シリンジの上部にあるカプセル状の投入口へと押し込んだ。

 

カチリ

 

機械的なロック音が響いた瞬間。

固形だったはずの巨大な神結晶が、シリンジの内部で一瞬にして『銀色の液体』へと融解した。

超高密度のナノマシン溶液。これが、強者の血だ。

リンの呼吸は、もはや虫の息だった。

視界は完全に暗転し、死の淵に片足を突っ込んでいる。

 

「……頼む。俺を、生かしてくれ……ッ!!」

 

リンはシリンジの先端を、自身の左胸――心臓の真上へと強く押し当て、上部のトリガーを力任せに押し込んだ。

 

プシュゥゥゥゥッ!!

 

圧縮された空気が弾けるような音と共に、銀色のナノマシン溶液が一滴残らず、リンの皮膚を透過して心臓へと撃ち込まれた。

次の瞬間だった。

 

「……ッ!? あ、ガァァァァァァァァッ!!?」

 

絶叫が、地下空間に木霊した。

それは、先ほどまでの怪我の痛みとは次元が違う、肉体の内側から細胞の一つ一つを焼き尽くされるような壮絶な激痛だった。

注射された数兆のナノマシンが血流に乗って全身を駆け巡り、リンの遺伝子情報と肉体の構造を強引に「書き換え」始めたのだ。

 

バキバキバキッ! と、不気味な音が体内で連続して鳴り響く。

あり得ない方向に曲がっていた右足の骨が、見えない力に引っ張られるようにして正しい位置へと強制的に戻っていく。粉砕されていた骨組織がナノマシンによって瞬時に接合され、破裂していた内臓が泡立つようにして細胞分裂を繰り返し、再生していく。

血肉が再構築される猛烈な熱で、リンの全身から白い蒸気が噴き出した。

 

「あァァッ、ハァッ、ガァァァァッ!!」

 

のたうち回りながら、リンは自身の右腕をかきむしった。

右腕の皮膚の下で、まるで光るミミズが這い回っているかのように、青白い光の線が走り始めたのだ。

『壱紋』の証であった、ごく単純な幾何学模様。

それが、ナノマシンの莫大なエネルギーを注ぎ込まれることで、急速に複雑化し、肥大化していく。

直線は絡み合い、円を描き、精緻な曼荼羅のような美しい**『紋様』**となって、手首から肘、そして肩のすぐ下までをびっしりと覆い尽くした。

光が収まり、激痛が波のように引いていく。

地下空間に、再び静寂が戻った。

 

「……ハァッ……ハァッ……」

 

リンは仰向けに倒れたまま、大きく、力強い深呼吸を繰り返した。

息ができる。血の味はしない。

ゆっくりと体を起こす。

折れていたはずの足に力を入れると、何事もなかったかのように立ち上がることができた。腹の傷も、完全に塞がっている。服は血と泥でボロボロだが、その下にある肉体は、十四歳の少年とは思えないほど引き締まり、内側から底知れない活力が満ち溢れていた。

 

リンは、自身の右腕を見つめた。

肩口まで広がった、複雑で精緻な黒い紋様。

意識を集中すると、その紋様はスッと皮膚の下に溶け込むように消え、再び意識すると、オンオフを切り替えるように鮮明に浮かび上がった。

 

「これが……『参紋』……!」

 

リンは拳を強く握りしめた。

空気が軋むような音がした。桁違いの筋力、知覚能力。これまでの壱紋の身体が「錆びついた歯車」だとしたら、今の身体は「精密な超合金のモーター」だ。

中型機械すら単独で破壊できる圧倒的な暴力。

テラタスの街の領主と、同じ階級。

あの絶望的な追跡の果てに、リンはついに、渇望していた強さを手に入れたのだ。

 

「生きてる。俺は……這い上がったんだ」

 

リンは歓喜に震える手で顔を覆い、低く笑い声を漏らした。

弐紋を通り越し、一気に参紋への昇紋。これで、自分の街を作るという夢が、決して手の届かない妄想ではなくなった。

もしあの白髪の隣人――ネイトがこの場にいれば、得意げな顔で右腕を見せつけてやっただろう。

ひとしきり感情を爆発させた後、リンは冷静さを取り戻し、改めて周囲を見渡した。

 

「……それにしても、ここは……」

 

青白い非常誘導灯に照らし出されたその空間は、リンの想像を絶するほど広大だった。

はるか頭上には、リンたちが落ちてきた大穴がぽっかりと空いており、そこから大森林のわずかな光が差し込んでいる。だが、その穴のサイズすらちっぽけに思えるほど、この地下空間は果てしなく続いていた。

整然と並ぶ、鋼鉄とガラスでできた巨大なカプセル群。

複雑に張り巡らされた、血管のような太いパイプライン。

そして、空間の最奥に鎮座する、ピラミッドのような形状をした超巨大なメインフレームの遺構。

 

「旧文明の、中枢施設……? テラタスの街全体よりも、ずっとでかいぞ……」

 

壁面に刻まれた文字は、ホログラム広告などでよく見る旧文明の言語だった。

リンの前世の記憶が、その文字の並びを無意識に翻訳し、脳内に意味を浮かび上がらせる。

 

 

『第7統合防衛基地・中枢メインユニット』

 

 

その文字を読み取った瞬間。

空間の奥深く、ピラミッド型のメインユニットの最深部で、ズゥン……と重い駆動音が響いた。

九百年の間、誰も足を踏み入れることのなかった地下基地。その防衛システムが、参紋へと昇華し、強大なナノマシン反応を放ち始めたリンという『侵入者』を感知した音だった。

 

「……ッ!」

 

リンは身構え、瓦礫の中から『超振動合金の槍』を拾い上げた。

今まで重くてまともに振れなかったその槍が、今はまるで木の枝のように軽く感じられる。そして、参紋のリンが握った瞬間、槍のセキュリティ・ロックが解除され、穂先を覆うように不可視の超振動の刃(ブレード)が起動した。空気がキィィィンと甲高い音を立てて鳴動する。

リンは、青白い非常灯が続く地下基地の奥へと鋭い視線を向けた。

生き延びた歓喜は終わりだ。ここはまだ、死と隣り合わせの遺構の底。

参紋という新たな力を手に入れた少年は、さらなる深淵――自身の運命を決定づける『規格外の遺産』が眠る場所へと、警戒を解かずに歩みを進めていった。

 

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