終紋の王   作:持麻呂

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第八話

ご指定のフォーマット(地の文の全角スペースでの字下げ、セリフの字下げなし、アスタリスクの削除)を適用して、文章を整えました。

### 第1章:辺境の少年と地下の遺産

#### 第3節:帰還の偽装と忍び寄る影

##### 第1話:帰還と白髪の観察者

 血のように赤い夕日が、荒廃した大地を長く、そして不気味な影で覆い尽くそうとしていた。

 大森林の鬱蒼とした境界を抜け、赤茶けた土漠を歩く一人の少年の姿があった。

 ボロボロに引き裂かれた貫頭衣の上に、旧文明の遺構から拾い集めたパラシュートの残骸のような汚い布をマントのように深く被り、足を引きずるようにして歩いている。

 一見すれば、魔獣や戦闘機械に遭遇し、命からがら逃げ延びてきた哀れな最底辺の《スクラッパー(廃材屋)》。

 この過酷な世界では、明日には路地裏で冷たくなっているであろう、ありふれた弱者の姿だ。

 だが、その布の下に隠された真実は、世界の理すらも覆すほどの特異点だった。

(……足を引きずるって、どうやるんだっけ)

 布の奥で、リンは一人、真顔でそんなことを考えていた。

 彼の肉体は今、大森林の地下深くで手に入れた『捌紋』の神結晶――いや、旧文明の基地を管理していたマスターコアという規格外の遺産――によって、完全に別次元の生命体へと作り変えられている。

 三日三晩の絶食、大型戦闘機械による追跡の疲労、内臓破裂に全身打撲。

 それら全てのダメージは、細胞レベルで完璧に修復されていた。

 それどころか、体内には無限とも思える活力が太陽フレアのように渦巻き、一歩踏み出すだけで数十メートルを跳躍してしまいそうなほどの莫大なエネルギーが充満している。

 だからこそ、「弱ったフリ」をするのが至難の業だった。

 疲労という概念が消失しているため、息を乱す演技をしても、少し油断するとすぐに呼吸が静まり返り、無音になってしまう。

 怪我をしているように足を引きずろうと右足に体重をかけても、強靭すぎる骨格と筋肉が完璧なバランスを保とうとするため、どうしても重心がブレない。

 気を抜くと、土漠の砂すらも踏みしめることなく、無重力のように滑るように歩いてしまうのだ。

「……ッ、痛てぇっ」

 リンはわざと自分の太ももを強くつねってみたが、超振動合金並みに硬化した筋肉のせいで、自分の指の骨が折れそうになっただけだった。

(ダメだ、これじゃ不自然すぎる。……もっと、昔の俺を思い出せ。空腹で、寒くて、今にも死にそうだった昨日の俺を)

 リンは意識を極限まで集中させ、体内を駆け巡るナノマシンの暴走を無理やり押さえ込んだ。

 背中を丸め、歩幅を意図的に狭くし、関節の可動域をわざと制限する。

 そして、右腕から肩、胸部にかけてびっしりと刻み込まれた、曼荼羅のように精緻で暴力的な黒い『紋様』を、皮膚の奥深くへと完全に隠蔽(オフ)した。

 やがて、地平線の向こうに《テラタス》の歪な防壁が見えてきた。

 旧文明のコンクリートと鉄板を継ぎ接ぎした、見慣れたスラムの入り口。

 門の前に立つ二人の門番は、粗末な槍を片手に退屈そうにあくびをしている。

 リンは彼らから百メートル以上離れていたが、門番たちが交わしている下世話な雑談や、彼らの心臓の鼓動の音、さらには革鎧の擦れる微かな音までが、まるで耳元で囁かれているかのように鮮明に聞こえてしまった。

(聴覚も、視覚も……全部が狂ってるくらい鋭敏だ。これが、高位の力……)

 リンは深くフードを被り直し、フラフラと覚束ない足取りで門へと近づいた。

 門番の一人がリンの姿に気づき、露骨に眉をひそめた。

「おい、お前……リンか? なんだそのボロボロの姿は。また大森林で無茶しやがったな」

 門番の声はそっけなく、荒々しかった。

 この街で職務を果たすには、貧民に対して甘い顔を見せるわけにはいかないからだ。

 だが、リンの異常なほど発達した聴覚は、その男の微かなため息と、同情が混ざった心音を正確に拾い上げていた。

 この門番は、リンが五歳の時に両親を失い、それ以来たった一人で泥水を啜りながら生き抜いてきたことを知っている数少ない大人だ。

 表面上は邪険に扱いながらも、リンがこうして生きて帰ってくるたびに、密かに安堵しているのをリンは知っていた。

「……はい……中型に、見つかって……三日間、隠れて……」

「中型だァ? 馬鹿野郎、壱紋のガキが中型から逃げ切れるわけねぇだろうが……。まぁいい、生きてるなら運が良かったってことだ」

 門番は舌打ちをし、手を差し出した。

「ほら、通行税の鉄くずだ。持ってなきゃ、規則通り通せねぇぞ」

 リンは震える手を装って、ポーチから小型機械のボルトを二本取り出し、門番の掌に乗せた。

 門番はそれをチラリと見て、本来の規定量より明らかに少ないにもかかわらず、無造作にポケットに突っ込んだ。

「……チッ、今日は俺の目が霞んでやがる。さっさと入れ。怪我の具合が悪化する前に泥水でも被って寝ちまえ」

「……ありがとう、おじさん」

 リンは内心で深く感謝しながら、重い足取りを演じて門をくぐった。

 もし門番がリンの身体に触れていれば、その異常な筋肉の密度と、体温の高さに一瞬で気づいていただろう。

 だが、彼の不器用な優しさが、結果的にリンの秘密を守ることになった。

 街中は、相変わらずの異臭と活気に満ちていた。

 泥水が溜まった舗装されていない道。

 バラック小屋の隙間から漏れる、獣脂のロウソクの煙。

 そして、街の中心部から空に向かって照射されている、旧文明の青白いホログラムの不気味な光。

 全てが、三日前と同じ《テラタス》の日常だった。

 だが、リンの目には、この街の全てが「ガラス細工」のように脆く、儚く見えた。

 すれ違う人々の命の火が、まるで小さな蝋燭のように頼りなく見える。

 今のリンが本気で地面を蹴れば、このスラムの家屋など一瞬で暴風に巻き込まれて吹き飛ぶだろう。

 圧倒的な力は、世界の見え方すらも変えてしまう。

 リンは自身の内に宿るバケモノのような力に恐怖すら覚えながら、足早に街の最外周――自身のねぐらである廃墟の小屋へと向かった。

「ただいま……っと」

 誰も待っていない暗い小屋の前に立ち、リンは周囲に誰もいないことを確認してから、深くため息を吐いた。

 緊張の糸が、少しだけ切れる。

 ポケットから手製の鍵を取り出し、南京錠の鍵穴に差し込もうとした。

 ――ガリッ。

「……え?」

 嫌な音がした。

 リンがほんの少し、本当に無意識に指先に力を込めて鍵を回そうとした瞬間。

 真鍮製の鍵が、まるで飴細工のようにぐにゃりと曲がり、そのままボキリと折れてしまったのだ。

「あ、ああ……!? 嘘だろ、これ手作りするのに三日もかかったのに!」

 リンは慌てて南京錠本体を掴み、折れた鍵を引き抜こうとした。

 だが、焦った彼が南京錠を「ギュッ」と握りしめた瞬間。

 メシャァッ……!

 という鈍い音と共に、頑丈な鉄でできていたはずの南京錠そのものが、リンの掌の中で粘土のようにひしゃげ、完全に潰れてしまった。

 鍵穴もフックも原型を留めておらず、ただの歪な鉄の塊と化したそれが、リンの指の間からポロリと地面に落ちた。

「…………」

 リンは自分の両手を見つめ、絶句した。

 力を入れたつもりは全くなかった。ただ、普通の人間が「物を掴む」程度の力加減だったはずだ。それが、鉄の塊を握り潰す結果になった。

「マジかよ……これじゃ、日常生活もままならないじゃないか」

 頭を抱えながら、リンは潰れた南京錠を蹴りのけ、小屋の扉に手をかけた。

 今度は絶対に力を入れない。羽毛に触れるような優しさで、そーっとドアノブを回す。

 カチャリ、と音がして扉が開いた。

 ホッとしたのも束の間、リンが扉を引いた瞬間だった。

 バキィィィンッ!!

「うわっ!?」

 扉を支えていた蝶番が、旧文明のコンクリートの壁からボルトごとブチブチと引き千切られ、扉そのものがリンの手元に丸ごと外れてしまったのだ。

 リンが「引く」動作に込めたわずかな運動エネルギーが、すでに壁の耐久限界を軽く突破していた。

「あー……もう、最悪だ……」

 リンは外れてしまった重い扉を、まるで段ボールを扱うかのような軽さでヒョイと持ち上げ、強引に壁に立てかけて入り口を塞いだ。

 真っ暗な室内。

 緊張と連続する失敗で、ひどく喉が渇いたような気がした。

 (実際には捌紋の肉体は全く水分を欲していなかったが、精神的な錯覚だった)

 リンは暗闇の中、テーブルの上に置いてある木製のコップに手を伸ばした。

 水差しから水を注ごうと、コップを握る。

 今度こそ、今度こそ力を入れない。全神経を指先に集中させる。

 ――パキッ……ミシッ。

 指先から、不吉な音が伝わってくる。

「あ、待って、やば……」

 リンが指の力を抜こうとした瞬間。

 バンッ! という破裂音と共に、木製のコップがリンの握力に耐えきれず、完全に粉砕された。

 木片が弾け飛び、中に残っていたわずかな水がリンの顔にバシャリと跳ねる。

「…………泣きたい」

 暗闇の中で、十四歳の少年は一人、顔についた水と木屑を拭いながら途方に暮れた。

 壱紋の頃は、生きるために必死で、自分の持ち物一つ一つが命の次に大事だった。

 それを、自分の力で次々と破壊していくこの理不尽な喜劇。

 強くなるというのは、こういうことなのか。

 それとも、自分の力の上昇幅があまりにも異常すぎたのか。

「……とりあえず、服を着替えよう。こんな血だらけのボロ布じゃ、落ち着かない」

 リンはため息をつきながら、マント代わりにしていたパラシュートの布を脱ぎ捨て、貫頭衣の裾に手をかけた。

 そして、それを頭から脱ごうと上に引っ張った。

 ビリリリリリリリッ!!!!

「あああああ! 俺の唯一の替えの服があああッ!!」

 力加減を間違え、衣服を前後に真っ二つに引き裂いてしまったリンは、ついに床に崩れ落ちた。

 上半身裸のまま、精緻な黒い紋様が浮かび上がりそうになるのを必死に抑え込みながら、薄暗い部屋の真ん中で頭を抱える。

「……おやおや。随分と激しい一人遊びをしているじゃないか、リン」

 突然。

 本当に、一切の予兆も、気配も、足音もなく。

 リンの背後――立てかけただけの扉の隙間から、鈴を転がすような、どこか楽しげで甘い声が響いた。

「っ!?」

 リンはバネのように飛び起き、振り向いた。

 捌紋となった今の彼の知覚能力は、半径数百メートルのネズミの足音すら聞き逃さないはずだ。

 だが、彼女がそこに立つまで、リンは一切の気配を感じ取ることができなかった。

 隙間風に乗って、錆びた鉄と甘い花が混ざったような、旧文明の不思議な芳香が漂ってくる。

 そこには、月明かりを背に受けて立つ、白髪の美女――隣人のネイトが、妖艶な笑みを浮かべて寄りかかっていた。

「ネ、ネイト……! いつからそこに……」

「今さっきだよ。君が、その可哀想な服を真っ二つに引き裂いて、床で頭を抱えていた辺りからね」

 クスクスと笑いながら、ネイトは立てかけられた扉を細い指でそっと押し退け、無断で部屋の中へと入ってきた。

 相変わらず、彼女の纏う空気はこの埃っぽいスラムには全く似つかわしくない。

 黒を基調とした旧文明の滑らかなライダースーツが、彼女の完璧なプロポーションを月明かりの下で際立たせている。

「君、三日も顔を見せないから、てっきり大森林の魔獣の胃袋にでも収まったのかと思っていたけれど……無事だったようで何よりだ。で? その扉と、割れたコップと、引き裂かれた服は、一体何の儀式だい?」

 からかうような口調。

 だが、その深い紫色の瞳の奥は、月明かりを吸い込んで底知れない光を湛えている。

「あ、いや、これは……! 立て付けが悪くて、直そうと思ったら壊れちゃって……」

「ふぅん?」

 ネイトは音もなくリンに近づき、その周囲をぐるりと円を描くように歩き始めた。

 リンは冷や汗が背中を伝うのを感じた。

 今のリンは捌紋だ。身体能力だけで言えば、この街の領主など指一本で弾き飛ばせる。

 だが、なぜかこのネイトという女性が近づいてくるだけで、リンの生存本能が「絶対に逆らうな」と警鐘を鳴らしてやまないのだ。

 捌紋の知覚能力を持ってしても、彼女の歩く足音は全く聞こえない。

 呼吸音すらない。心臓の鼓動すら、微かすぎて読み取れない。

 まるで、彼女という存在そのものが、この空間から「浮いている」かのような異物感。

「三日間、どこで何をしていたんだい?」

「……大森林で、狩りをしてたら……中型機械に遭遇して。罠も効かなくて、必死で逃げ回ってたんだ。洞窟の中に隠れて、三日三晩、飲まず食わずで……今日、ようやく中型が諦めて去っていったから、逃げて帰ってきたんだよ」

 リンはあらかじめ考えていた嘘を、極力震えない声で口にした。

 大型機械に遭遇したこと、地下基地に落ちたこと、そして規格外の神結晶を手に入れたことは絶対に隠し通さなければならない。

 ネイトはリンの目の前で立ち止まり、その紫の瞳でリンの顔をじっと見つめた。

 十秒。二十秒。

 沈黙が、重くのしかかる。

 リンの額から、ツーッと冷や汗が流れ落ちた。

「……三日三晩、飲まず食わずで、逃げ回っていた。なるほど」

 ネイトは不敵な笑みを浮かべ、スッと右手を伸ばした。

 その無機質なほど冷たく、滑らかな指先が、上半身裸のリンの胸元をツーッと撫で下ろす。

 彼女は「筋肉がどうこう」といった具体的な指摘は一切しなかった。

 ただ、その指先が触れた瞬間、リンは自身の内側に押し込めていた莫大なナノマシンの気配が、彼女の瞳の奥で完全に可視化されているかのような、圧倒的な「お見通し」のプレッシャーを感じた。

「ひゃっ……!」

「へぇ……そうかい。ふぅん」

 ネイトは意味ありげに目を細め、リンの顔にふっと色気のある吐息を吹きかけた。

「大森林で迷子ねぇ。……おやおや、随分と『逞しく』なって帰ってきたじゃないか、リン」

 彼女は多くを語らなかった。

 ただ、そのたった一言と、全てを包み込むような余裕のある微笑みだけで、リンの背筋を凍りつかせるには十分だった。

 バレている。

 具体的な紋数までは分からないにしても、自分が「何か途方もない力」を隠し持っていることを、この隣人は完全に看破している。

 ここで彼女が追及してくれば、どう誤魔化せばいいのか。

 リンが硬直していると、ネイトはふわりと彼から離れた。

 そして、どこからともなく取り出した銀色のパッケージ――旧文明の完全栄養食のパウチを、無造作にベッドの上に放り投げた。

「……まぁ、いいさ。少年が秘密を抱えて、泥の中で急激に大人になっていく過程を見るのは、嫌いじゃない。むしろ、大好物だ」

 ネイトは楽しそうにくすくすと笑いながら、立てかけられた扉の隙間へと向かった。

「せいぜい、その『逞しくなった力』で、コップや家を壊さないように気をつけることだね。……じゃあね、可愛い隣人さん」

 ひらりと手を振り、ネイトは月明かりの夜闇の中へと、現れた時と同じように音もなく消えていった。

 残されたリンは、張り詰めていた糸が切れたようにその場にへたり込み、深く、深い深呼吸を繰り返した。

「……なんだあの人。底知れなすぎるだろ……」

 自分が捌紋という王にも等しい力を手に入れたにも関わらず、ネイトの前に立つと、まるで巨大な肉食獣の前に引きずり出された小動物のような錯覚を覚えた。

 彼女は一体何者なのか。なぜ、あんなにも何もかも分かっているような態度を取れるのか。

(……だが、核心までは突かれなかった。俺が具体的に『何の力』を手に入れたかまでは)

 リンはベッドの上の完全栄養食を手に取り、ギュッと握りしめた。

 明日からは、この規格外の力を完全にコントロールする訓練をしなければならない。

 歩き方、物の掴み方、呼吸の仕方。全てを「壱紋の非力な少年」に再チューニングするのだ。

 自分のターミナルを見つけ、自分の街を作るその日まで、絶対にこの力は誰にも知られてはならない。

 リンは決意を新たに、壊れた扉を再び壁に立てかけ、月明かりの差し込む冷たい床の上で静かに目を閉じた。

 だが、彼が平穏な日常(偽装)を取り戻す猶予は、世界によってすでに奪われようとしていた。

 大森林の奥深くで彼が引き起こした「大型戦闘機械の死」と「地下遺構の防衛システムの作動」というイレギュラーが、周囲の生態系と機械の群れに致命的な連鎖反応をもたらし、この《テラタス》の街へと巨大な脅威を押し出そうとしていることを、リンはまだ知る由もなかった。

 

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