アークエンジェルは生き残った。
それを生還と呼べるかどうかは知らない。
クロトはコクピットから降り、ヘルメットを抱えて格納庫を離れた。
背後では整備兵の声が飛び、応急修理の指示が艦内放送に重なっている。
救援に来たはずの先遣艦は、アークエンジェルを残して沈み、モントゴメリィに乗っていたジョージ・アルスターも死亡した。
フレイ・アルスターの父親であり、クロトとレイダーの回収に触れた男。
アークエンジェルが沈まずに済んだのは、ラクス・クラインの名前を使ったからだ。
プラント最高評議会議長、シーゲル・クラインの娘。
平和の歌姫。
その名前を外へ示しただけで、ザフトの攻撃は止まった。
間違った判断だとは思えない。だが、正しい判断だとも思えなかった。
通路を進むと、人の流れが途切れた壁際にキラがいた。
パイロットスーツ姿のまま立ち尽くし、疲労した顔で俯いている。
その向かいで、フレイが肩を震わせていた。髪は乱れ、泣き腫らした目は赤かった。
「どうして、パパを助けられなかったの」
細い声に、キラは何も返さなかった。
「アンタ、ストライクに乗ってたじゃない。なのに、どうしてパパは死んだの」
キラの口が少し開くと、フレイが詰め寄った。
「パパは私を迎えに来てくれたの。助けに来たの。なのに、なんでアンタが生きてて、パパが死ななくちゃいけないのよ!」
「……ごめん」
「アンタ、コーディネイターだからって本気でやってないんでしょう!」
その声で、周囲の足が止まった。誰も間に入れなかった。
父を失った娘の前で、正しい言葉を選べるほど余裕のある人間は、この艦には誰もいなかった。止めたところで怒りの矛先が剥くだけだった。
クロトは溜め息を吐いた。
「その辺にしとけ」
フレイが振り返った。キラもクロトを見る。
死んだやつは生き返らない。そう言いかけて、やめた。
そんなことを口にしたところで、怒りの矛先がこちらに変わるだけだ。
なら、最初から余計な言葉を足す必要もなかった。
「あなたなんかに何が分かるの」
「分かんないよ」
クロトは薄く笑った。
「パパは、あなたのことも言ってた!」
フレイの声が荒くなった。
「あの機体と一緒に、あなたを引き取るって。私だけじゃなくて、あなたのことも考えてたのに。なのにどうしてパパが死んだのに、あなたたちが生きてるのよ!」
クロトは鼻で笑った。
ブルーコスモスに近い男が、自分たちが造らせた機体と、その生体CPUを引き取りに来た。
それだけだ。
自分たちの所有物を、所有者である自分たちの手元へ戻す。
保護でも、ましてや善意でもない。言い換えれば、その程度の話だった。
それが何も知らない娘の口にかかると「あなたのことも考えていた」ことになるらしい。
笑わない方が難しかった。
「何が可笑しいのよ!」
フレイの目が濡れたまま吊り上がる。
「あなたにも、同じことが起こればいい。あなたの大事な人が目の前で死ねばいいわ!」
通路の空気が詰まる中、クロトはフレイを見返した。
それから、軽く笑った。
「残念だけど、僕にはそんな奴はいないんだよ」
フレイの表情が止まった。
「あなたにだって親くらい……」
キラが何か言いかけた。だが声にはならなかった。
クロトは首を傾げた。
「もう死んだのか、それとも消えたのか」
言いながら、指先で自分の前髪を払う。
顔も知らない両親が、どんな人間だったのかは分からない。
死んだのか、逃げたのか、最初から自分の存在など知らなかったのか。
それさえ分からない。
分かっているのは、自分の家族と呼べる人間はいないという事実だけだった。
「別に不幸自慢がしたいわけじゃない。ただ、僕にそれを言っても無駄ってだけ」
フレイの口が開いたまま止まった。
怒りが消えたわけではなかったが、振り上げた腕の置き場を失ったように、肩から力が抜けた。
家族。親。大事な人。
どれも言葉として知っているだけだ。
そんなものを失えと言われても、まともに受け取りようがなかった。
フレイの拳から力が抜ける。膝が折れかけたところを、近くにいた少女が慌てて支えた。
嗚咽が漏れ、通路の空気がさらに重くなる。
クロトはそれ以上見なかった。
背を向けると、キラの視線が背中に刺さった。責めているのか、驚いているのか、分からない。分かったところで、どうする気もなかった。
背後で、フレイの泣き声と足音が混ざって遠ざかっていく。
クロトは自室へ戻った。
自室の扉を閉めると、通路の声は壁越しの振動に変わった。
クロトはヘルメットを机に置き、ベッドへ倒れ込む。身体は疲れていた。
だが疲労や眠気とは違うものが、胸の奥に引っかかる。
ジョージ・アルスターは死んだ。
フレイを迎えに来た父親。クロトとレイダーの回収にも触れたブルーコスモスの男。
どうせ、アズラエルの指示だ。
あの癇癪持ちの命令で、レイダーとその生体CPUを回収しに来た。
そんなところだろう。
保護でも、ましてや善意でもない。
自分たちの所有物を、自分たちの手元へ戻す。ただそれだけだ。
そんな男が、娘の前では子煩悩な父親だったらしい。
笑える話だった。
笑えないのは、その娘が本当に泣いていたことくらいだ。
しばらくすると、呼び出し音が鳴った。
クロトはすぐには起きなかった。艦長がわざわざ来るとは思えない。
ナタルか、ムウか、あるいはもっと面倒な誰かか。
こんな状況で扉の向こうに立つ相手など、だいたいろくな用件を持っていない。
二度目の音で、ようやく身体を起こした。
扉を開けると、キラが立っていた。
なぜかパイロットスーツ姿のままだった。
顔色は悪いままだったが、さっき通路で謝っていたときのような頼りなさだけではなかった。
その隣に、ラクス・クラインがいる。
見慣れないパイロットスーツを着ていた。
どこから持ってきたものか、誰が用意したものかは知らない。
だが、人質を部屋から連れ出すための格好ではない。アークエンジェルの外へ出るための格好だった。
クロトは二人を見た。
「何?」
キラは一度、息を整えた。
「ラクスを返す」
クロトはラクスへ視線を移した。
彼女はキラに縋っているようにも、命じているようにも見えなかった。黙って立っているだけだった。だが、自分がこの格好でここにいる意味を、知らないふりはしていなかった。
「どうやって?」
「私が、ストライクで連れていく」
「なんで僕に言うの?」
キラはすぐには答えなかった。
「……どっちみち、クロトさんに止められたら失敗するから」
クロトはキラの顔を見た。
一理ある。
ストライクの脱走を止められる機体があるとすれば、レイダーだけだ。
たかがメビウス・ゼロ一機でどうにかなるなら、連合軍は今頃、もう少し
楽な戦争をしているだろう。
「ラクスを、このままにはできない」
「ま、ハルバートンがどう言おうと、その子はプラントのお姫様だからね。第八艦隊と合流すれば、さぞ大歓迎されるだろうね」
キラの表情が硬くなった。
「でもさぁ。ザフトが信じると思う?」
キラは答えなかった。
「あぁ、もしかして投降するの?」
「投降はしない」
「プラントのお姫様とストライクを手土産に逃げてきたら、そう簡単には撃てないと思うけど」
相手から見れば、キラは中立国の民間人でしかない。
彼女のクラスメートがアークエンジェルに残っていることも、彼女が抜ければこの艦の戦力が落ちることも、ザフトには関係ない。
キラさえ確保してしまえば、あとはいくらでも切り捨てられる。
「投降はしない。私に考えがある」
キラが同じ言葉を繰り返すと、クロトは舌打ちした。
「じゃあ条件」
「条件?」
「その子と二人で話させてよ」
クロトはラクスを見た。
「それが済んだら、今の話は聞かなかったことにしてやる」
キラの目が揺れた。
「……止めないの?」
「今ここで止められたら困るから、僕のところに来たんだろ」
クロトは薄く笑った。
「嫌なら、今すぐ格納庫に行くけど」
キラは唇を結ぶと、ラクスへ視線を向けた。
「ええ。わたくしも、最後にクロトさまとお話ししておきたいと思っておりましたから」
ラクスは静かに頷いた。
クロトはラクスだけを部屋へ入れ、キラを廊下に残して扉を閉めた。
狭い部屋に、あのラクス・クラインが立っている。
見慣れないパイロットスーツは、彼女には少し大きく見えた。
だが、そのせいで頼りなく見えるかといえば、そうでもない。
泣きも、怯えも怒りもしない。
ただ、こちらの言葉を待っている。
そんな思った通りの反応が、かえって目についた。
クロトは扉の前から動かなかった。
「……君は誰なの?」
ラクスはすぐには答えなかった。
「わたくしはラクスです。あなたには、何に見えるのですか?」
とぼけているのか、それとも本気でそう返しているのか、クロトには分からなかった。
万人に愛される平和の歌姫。
プラント議長の娘。今はアークエンジェルの人質。
それから、記憶の奥に引っかかる、ヤキン・ドゥーエに現れた女。
今ここに立っているラクスと、記憶の中にいるラクス。
そのどちらが本物のラクスなのか、クロトには判断できなかった。
「分からない。だから聞いてる」
ラクスは視線を落とし、少しだけ考える間を置いた。
「不思議なことをおっしゃいますね。今ここにいるわたくしが、わたくしではないと?」
「さぁね。今の君が、君の全部じゃないことくらいはわかるけど」
ラクスはすぐには否定しなかった。
そこが気に入らなかった。
何も知らない少女なら、もっと簡単に首を傾げればいい。
怖がっている人質なら、帰りたいと口にすればいい。だがラクスは、問いの意味を探るようにクロトを見ていた。
「クロトさま。あなたが戦う理由はなんですか」
クロトの表情が少し止まった。
ラクスがクロトの何を知っているわけでもない。
薬のことも、身体のことも、何も知らないはずだ。
彼女に見えているのは、レイダーに乗って戦うクロトだけ。
それなのに、それ以外の場所へ手を伸ばしてくる。
「あなたは、勲章にも、命令にも興味があるようには見えません。いったいあなたは何のために戦っているのですか?」
クロトは笑った。
「そりゃ僕が強いからでしょ。遺伝子を弄って手に入れた力で調子に乗ってるコーディネイターの連中の誰よりも」
わざと雑な言い方をした。
ラクスがどう反応するか見たかった。怒るのか、眉をひそめるのか、それとも歌姫らしい顔で受け流すのか。
だが、ラクスは声を荒げなかった。
「強いから戦うのと、強いから戦うよう求められるのは、同じではありません」
静かな声だった。
責めてもいない。決めつけてもいない。ただ、クロトが雑に投げた答えを、そのまま受け取る気はないらしい。
それが不快だった。
「変なこと聞くね」
軽く流したつもりだった。
だが、思ったほど声は軽くならなかった。ラクスはそこを聞き逃さなかったのか、表情を変えないまま、クロトを見ていた。
「答えたくないのですか?」
答えたくない。
そう返せば、それで済んだ。適当にはぐらかして、話を切ればいい。
だが、ラクスは急かさなかった。
ただ黙って、クロトの返事を待っていた。その思わぬ沈黙が、少しだけやりにくかった。
「他に生きる方法を知らないから、だよ」
言ってから、少し余計だったと思った。
だからクロトは笑った。
口の端だけを上げて、今の言葉をただの冗談の形に戻そうとした。
「満足?」
ラクスはすぐには答えなかった。
「ええ。少しだけ、あなたのことが分かったような気がいたします」
クロトは眉をひそめた。
「僕の何が分かったって?」
「分かった、とは申しません。ただ、そう感じただけですわ」
その言い方が、また気に入らなかった。
ラクスは、クロトの中身を暴こうとはしなかった。ただ、聞いた言葉を感じたまま、そこに置いている。
思った通り、ただ守られるだけの少女ではない。
それが分かれば十分だった。
クロトは扉へ手を伸ばした。
廊下には、キラが立っていた。
待たされている間に脱走を考え直した様子はなかった。
ラクスが部屋から出ると、キラは一度だけ彼女を見て、それからクロトを見る。
何を話したのか聞きたそうな顔だった。だが、口にはしなかった。
クロトも説明する気はなかった。
「僕は何も知らないし、聞いてない」
キラの表情がわずかに動く。
「だから失敗しても、僕の知ったことじゃない」
止めない、とは言わなかった。許可でもない。協力でもない。
ただ、聞かなかったことにする。
その程度の取引だった。
キラは小さく頷いた。ラクスも静かに頭を下げる。礼を言われる前に、クロトは扉に手をかけた。
キラとラクスは並んで通路を離れていく。クロトはその背を最後まで見なかった。
扉を閉めると、部屋には艦の振動だけが戻った。
止める理由なら、いくらでもある。
ストライクはこの艦の戦力だ。
敵に近づけば撃たれるかもしれない。
捕まるかもしれない。機体ごと奪われるかもしれない。
ラクスを返せば、もう同じ手は使えない。
だが、そんなことはどうでもよくなり始めていた。
壁の端末が赤く点滅した。
格納庫区画にて、ストライクが突如起動。
搭乗者、キラ・ヤマト。同乗者あり。
部屋を去ってから、ほとんど時間は経っていなかった。
最初から、脱走準備を整えていたのだろう。
通信が入る。
クロトは画面を見て、回線だけを開いた。
こちらの音声は切ったままにする。
『少尉、何をしている。直ちにレイダーを起動し、ストライクの発進を阻止せよ! 繰り返す、ストライクの発進を阻止せよ!』
ナタルの声に、クロトは通信を切らずに部屋を出た。
通路は騒がしくなっていた。
非常灯が床を赤く染め、整備兵や兵士が格納庫の方へ走っていく。
誰かが何かを叫んでいたが、言葉までは拾わなかった。
クロトは歩いた。
急げば何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
ただ、走る気にはならなかった。
隔壁の向こうから、艦体を揺らすような低い震動が来た。
ストライクが射出される音だった。
キラもラクスも、もうこの艦の中にはいない。
格納庫に入ると、カタパルトには何も残っていなかった。
白い機体の姿はない。外れたケーブルが床で揺れ、赤い警告灯だけがまだ回っている。
レイダーはその奥にいた。
灰色の機体は固定具に縛られたまま、赤い光を受けている。
クロトは機体の脚元まで歩き、装甲に手を置いた。
もっと早く来れば、止められたかもしれない。
だが、機体はここに残っている。
外で何が起きるのか、ここからでは何も分からない。
キラが何を考えているかも、ラクスがどこに行くのかも、ザフトがどうするのかも分からない。
クロトに分かるのは、命令を受けたはずの自分とレイダーが、まだここにいるということだけだった。
クロトはレイダーを見上げた。
灰色の機体は、ただ沈黙していた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第四章はこれで完結です。
次回から第八艦隊合流、大気圏降下戦へと進みます。