アークエンジェルへ戻ると、通路では移送準備の案内が繰り返されていた。
格納庫を出た先には、荷物を抱えた民間人が並んでいる。
誘導の兵が名簿を読み上げ、別の兵が移送艇の待機区画を指していた。
小さな鞄を抱えた者。
子どもの手を引く者。
名前を呼ばれ、慌てて列の前へ出る者。
表示灯を見上げ、荷物を持ち直す者。
「これで降りられる」
誰かが小さく言った。
列の中で、いくつも顔が上がった。
助かった。
もう終わる。
この船から出られる。
後ろの者たちも表示灯を確認し、少しずつ列を詰めていく。
艦内放送は、移送準備の案内を繰り返していた。
『避難民は指定区画へ移動してください。手荷物は最小限にしてください』
続けて、移送艇の待機区画と立ち入り禁止区域が読み上げられる。
整備区画、弾薬庫、格納庫周辺。
兵が通路の角に立ち、近づこうとした民間人を手で止めていた。
名簿で人数を数え、手荷物を減らさせ、移送艇に乗せる。
アークエンジェルから降りても、すぐに戦場の外へ出られるわけではない。
避難民は、第八艦隊旗艦メネラオスへ移される。
メネラオスには、避難民を受け入れる準備が整えられていた。
水と食料、毛布。負傷者を診る医療班。
ヘリオポリスから逃げる途中で民間人を収容したアークエンジェルには、そこまでの余裕はなかった。
通路の先で、学生たちは移送待機の列に入らず、壁際に集まっていた。
カズイは荷物を抱え、誘導表示と移送の列を何度も見比べていた。
サイは案内端末を確認し、トールとミリアリアはその横で待っていた。
キラは少し後ろに立っていた。
クロトが近づくと、最初に顔を上げたのはカズイだった。
目が合うとカズイはすぐに視線を落とし、荷物の持ち手を握り直した。
その中で、フレイだけが何も持っていなかった。
通路の壁際に立ったまま、誘導表示にも、移送を待つ列にも目を向けていない。
兵が横を通っても、壁から背を離さなかった。
「フレイ」
サイが声をかけた。
「準備は?」
「必要ないわ」
フレイが短く返すと、サイの手が止まる。
「必要ないって、移送艇に乗るんだろ?」
フレイはサイを見ることも、答えることもしなかった。
サイはもう一度何かを言いかけたが、結局、口を閉じた。
クロトは、手ぶらのまま動かないフレイを見た。
そのまま横を通り過ぎようとしたところで、フレイが顔を上げた。
青い目が、クロトの横顔から動かなかった。
「あなたは、どうするの?」
「僕?」
「あなたも移送艇に乗るの?」
サイがフレイを見ると、キラも顔を上げた。
その紫の目はフレイではなく、クロトの方へ向いていた。
「僕は乗らないよ」
「どうして」
書類上、クロトは地球連合軍の少尉だった。
レイダーのパイロットとして、アークエンジェルとともにアラスカ基地へ降りることになっている。
サイたちのように、移送対象の民間人ではないのだ。
「そういう命令だから」
フレイは黙った。
クロトを見たまま、サイの方へ視線を戻さなかった。
サイが一歩近づいた。
「フレイ、君は移送艇に乗るんだろ」
フレイは、サイを見なかった。
「乗ってどうするの。パパはもういないのに」
船を降りた先に、彼女の父親はいない。
それどころか、彼女を待っている人間などいない。
サイは口を閉じた。
ミリアリアも、トールも、すぐには声を出さなかった。
クロトはフレイを見た。
何も持っていない手が、動かないまま垂れている。
泣いているわけではないし、怒鳴っているわけでもない。
だが、フレイの足は壁際から離れなかった。
「じゃあ、あなたは、まだこの船にいるのね?」
「アラスカまではね」
前の世界でも、フレイ・アルスターは戦場にいた。
ザフトの捕虜になって、メンデルで回収されて、そのままドミニオンに乗っていた。
彼女がどういう経緯でザフトの捕虜になり、ドミニオンが沈むまで乗っていたのかは知らない。
フレイがアークエンジェルに残りたいのであれば、勝手に残ればいい。
わざわざクロトが止めることではない。
「そう。なら、安心だわ」
フレイはそれ以上、何も言わなかった。
クロトが足を進めようとすると、キラがこちらを見ていた。
何かを言いたそうに唇が動いたが、言葉にはならなかった。
「何だよ」
クロトが聞くと、キラは肩をわずかに震わせた。
目が合う。
責める顔でも、怒っている顔でもなかった。
「……いえ」
キラは首を横に振った。
「何でも、ありません」
クロトは眉をひそめた。
フレイが残るかどうかと、キラがこの船を降りるかどうかは別の話だった。
フレイは前の世界でも、ドミニオンにいた。
父親を殺したザフトと戦いたいのなら、勝手に残ればいい。
だが、キラは違う。
あいつは、戦いたくてストライクに乗っているわけではない。
自分のように、撃ちたくて撃っているわけでもない。
降りられるなら、降りればいい。
もう乗らなくて済むのなら、その方がいい。
クロトは、そう思うことにした。
その時、小さな足音が近づいてきた。
「お姉ちゃん」
キラが振り向いた。
エルが、両手に紙で作った花を持っていた。
折り目のずれた、小さな花だった。
エルはキラの前で止まり、その一つを差し出した。
「これ」
「……私に?」
「うん。守ってくれたから」
キラの手が止まった。
それから、両手で紙花を受け取る。
「……ありがとう」
エルは笑った。
残ったもう一つを、今度はクロトへ向けた。
「お兄ちゃんも」
「僕はいいよ」
「でも、お兄ちゃんも守ってくれた」
クロトは黙った。
近くにいた兵が、ちらりとクロトを見た。
民間人の一人が、子どもの肩に手を置く。
エルは紙花を引っ込めなかった。
クロトの前に立ったまま、折り目のずれた花を差し出している。
クロトは手を伸ばし、紙花を摘まんだ。
「……変な紙」
「お花」
「そう」
エルは満足したように頷いた。
紙花は軽かった。
指に少し力を入れれば、すぐに潰れる。
クロトは握らず、指先で持った。
キラは、自分の手の中の紙花を見ていた。
移送列では、誘導兵が名前を呼び続けている。
それでも、キラは動かなかった。
「君は、戦いたくて乗ってるわけじゃないんだろ?」
クロトが言うと、キラは顔を上げた。
「……え?」
「この船に残ったら、またストライクに乗れって言われるよ」
「でも……」
「でも、じゃない。残ったらどうなるか、分かってるだろ」
キラは答えなかった。
紙花を持ったまま、フレイの方を見た。
フレイは壁際に立っていた。
誘導兵が、次の名前を呼んだ。
キラの名前ではなかった。
クロトは紙花をポケットへ突っ込んだ。
キラは紙花を胸元へしまった。
移送列は前へ進んだ。
誘導兵が最後尾を待機区画へ入れ、扉の脇に立つ。
接続表示が変わり、移送艇のハッチが閉じた。
艦内の表示から、移送艇の番号が一つ消える。
『避難民移送、最終艇離艦』
兵士が名簿端末を畳み、誘導表示を消していく。
通路から、荷物を抱えた民間人の列はなくなっていた。
その時、艦内放送が切り替わった。
『第一戦闘配備。第一戦闘配備。左舷後方、熱源反応。ザフト艦隊と思われる影を確認』
さっきまで移送列があった通路を、兵士が走り始めた。
誘導兵が名簿端末を抱え、壁際へ退く。
待機区画へ続く扉は閉じたままだった。
『繰り返す。第一戦闘配備。各員、配置につけ』
『クルーゼ隊の反応を確認。モビルスーツ隊、発進準備。繰り返す。モビルスーツ隊、発進準備』
クロトは踵を返した。
「しつこいっての」
振り返らず、格納庫へ向かう。
格納庫では、レイダーの固定アームが外されていた。
整備員が機体の足元からケーブルを抜き、別の整備員がカタパルト側へ腕を振っている。
クロトはヘルメットを掴み、レイダーの昇降ワイヤへ向かった。
「少尉、出撃準備完了まであと二分です」
「もうちょっと早くしてよ」
整備員は顔を上げなかった。
手元の端末を叩き、次のロック解除へ移っている。
クロトは鼻で笑い、ワイヤに足をかけた。
ハッチが開く。
コクピットの奥に、シートが見えた。
身体を滑り込ませる。
背中が硬いシートに当たった。
ベルトを締め、ヘルメットを固定する。
外の怒声が遠くなり、機体の低い振動が身体へ戻ってきた。
正面のモニターが順に点灯する。
『カタパルト接続。発進シークエンスへ移行します』
レイダーが前へ送られる。
カタパルトの誘導灯が、モニターの中で一直線に伸びた。
その時、左の補助モニターにストライクの脚部が映った。
足元の昇降ワイヤが上がっている。
整備員ではない。
兵士でもない。
パイロットスーツを着た人影が、ストライクのコクピットへ上がろうとしていた。
「……は?」
クロトは補助モニターを睨んだ。
人影は小さい。
だが、見間違えるはずがなかった。
キラだった。
さっき移送艇に乗ったはずのキラが、ストライクへ上がっている。
「何してんの、あいつ」
クロトは通信パネルへ指を伸ばした。
『レイダー、射出準備完了。進路クリア』
「ちょっと待って」
返事を待たず、クロトはストライク側へ回線を繋いだ。
「キラ」
返事はなかった。
通信欄には、ストライクの機体番号だけが表示されている。
レイダーが前へ送られる。
カタパルトの固定具が噛み合い、機体全体に低い衝撃が走った。
正面モニターの発進表示が一つ進む。
『少尉、発進シークエンスへ移行します』
「うるさい」
クロトは補助モニターから目を離さなかった。
ストライクの胸部ハッチが閉じていく。
昇降ワイヤが下がった。
白い機体の表示が、待機から起動準備へ変わる。
『ストライク、コクピットハッチ閉鎖確認』
『パイロット認証、進行中』
『登録パイロット確認。システム起動』
回線に短いノイズが走った。
浅い息が入る。
『……はい』
キラの声だった。
「何やってんだよ。今すぐ降りろ」
ストライクのツインアイに光が入った。
内部電源が上がり、各部のチェック表示が走る。
『……できません』
『フレイも、サイたちも。アークエンジェルも、まだ戦うんですよね』
「だから?」
返事はなかった。
ストライクのチェック表示だけが埋まっていく。
ハッチは閉じたまま開かない。
『なのに、ここで降りたら、私、ずっと逃げちゃうと思うんです』
通信の向こうで、キラが息を吸った。
『だから、出ます』
クロトは舌打ちした。
ハッチは閉じたまま開かない。
『レイダー、射出タイミング合わせ。三、二、一』
正面モニターの数字が落ちる。
補助モニターの中で、ストライクの起動表示が完了に変わった。
『レイダー、発進』
身体がシートに押しつけられた。
カタパルトの光が後ろへ流れる。
アークエンジェルの船体が、モニターの端へ下がっていった。
正面モニターに、第八艦隊の艦影が映る。
その向こうで、熱源表示が増えていく。
ザフトの艦。
モビルスーツの反応。
通信が重なった。
『ストライク、発進準備完了』
『進路クリア。ストライク、発進』
クロトは補助モニターを見た。
白い機体が、アークエンジェルの甲板から射出される。
「……馬鹿」
通信には乗せなかった。
レイダーの照準表示が、前方の敵影を拾う。
クロトは操縦桿を握り直した。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第5章中編でした。
降りられるはずだった船で、それぞれが残る理由を抱える回になりました。
次回、後編。
大気圏降下戦です。