鼻を突く消毒液の匂いと、規則的な電子音が意識の浮上を促した。
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、視界には見知らぬ白い天井が広がっていた。全身を鈍い疲労感が覆っているが、確かな感覚がある。
「先生……! 気がつきましたか!」
横から弾かれたような声が聞こえ、哲平はゆっくりと首を巡らせた。ベッドの傍らには、アシスタントの蓮がパイプ椅子から立ち上がり、安堵で顔をくしゃくしゃにしていた。
自分が病院のベッドの上にいることはすぐに理解できた。
熱い空気、焦げるような匂い、そして燃え盛る木々──森の中で炎に包まれていた記憶がフラッシュバックする。だが、この無機質な白い景色が見えるということは、どうやら自分は助かったらしい。
「蓮くん……俺は、どうなった?」
かすれた声で尋ねると、蓮は何度も頷きながら口を開いた。
「だ……大丈夫です。後少し発見が遅れていたら手遅れになるかと言われてましたが……気を失っていただけで、念の為安静にするように言われていますが、体に支障はないようです」
蓮の言葉に、哲平は小さく息を吐いた。
病室のサイドテーブルには、見出しに『山間部のコテージ周辺で謎の局地的な落雷と火災』と大々的に書かれた新聞が置かれていた。
新聞に載るほどの大事になっていたらしいが、見たところ死亡者が出たという記述はない。
だが、哲平の胸を占めているのは自分自身の安否ではなかった。同じ病室に、一緒にあの場に巻き込まれたはずの人たちの姿がないのだ。
「蓮くん……その、どうなった?」
哲平が問いかけると、蓮は少し視線を逸らし、気遣うような口調で言った。
「ホワイトナイトのことなら……雪吹さんも無事でしたし、何週間か休載をもらうよう編集部には掛け合ってくれています……」
「そ、そっちじゃないんだ」
哲平は上半身を起こそうとし、痛みに顔をしかめながらも言葉を続けた。
連載のことも重要だが、今はそれどころではない。
「俺より先に、火の中に藍野さんが巻き込まれて……彼女は、どこにいるんだ……?」
その名前を出した途端、蓮の表情がスッと暗く沈んだ。病室の空気が一段と重くなる。
蓮は言い淀みながら、震える声で真実を告げた。
「藍野さんは……高知のご実家に帰りました。ただ……」
哲平が意識を失っている間に、知らせを受けた藍野の家族が迎えに来て、故郷へ連れ帰ったのだという。
ここで命を落としたわけではない。その事実だけを見れば幸いだったと言えるのかもしれない。しかし、蓮の伏せられた目と重苦しい沈黙が、ただ事では済まなかったことを雄弁に物語っていた。
「藍野さんは、あの事故で……利き腕の神経を少し傷つけてしまって……」
「……え?」
「せ、生活には支障がないそうなんですが……その、長時間ペンを握り続けるとなると、かなり厳しいみたいで……」
その言葉は、哲平の脳天を鈍器で殴りつけたような衝撃をもたらした。
漫画家を志し、圧倒的な才能と執念を持っていた藍野伊月。彼女にとって「長時間ペンを握れない」ということが何を意味するのか。
漫画を描いて生きていく者として、それがどれほどの絶望であるか、哲平には痛いほどにわかった。
(これで……止まった、ということになるのだろうか?)
シーツを握りしめる哲平の手が震えた。
自分が身代わりになることで、彼女を死の運命から救う覚悟を決めていた。だが現実は、自分ではなく彼女から『漫画を描く力』を奪い取るという残酷な形で結末を提示した。
これは未来の藍野伊月を死の源流から救った結果なのか? いや、むしろ──描けない絶望こそが、新たな彼女の『死の原因』に繋がってしまうのではないか?
「佐々木先生……」
青ざめる哲平を見かねて、蓮が悲痛な声で慰める。
「あれは突然の天災による事故で……誰にも予測できるわけがなくて。だから、藍野さんのご家族も、慰安旅行を企画した先生を責めたりはしませんでした。先生のせいじゃありません……!」
蓮の言葉は優しかったが、哲平の心には届かなかった。
あの雷は、ただの自然現象などではない。あの異様な気配、そして不自然なまでに自分たちの足元へと落ちてきた巨大な落雷。
未来からの干渉を疑わずにはいられなかった。
──佐々木哲平はまだ知らない。
あの落雷はただの事故ではなく、文字通りの『変革の引き金』であったことを。
未来から来た漫画の盗作という、知らずのうちに背負ってしまった罪の十字架。それは藍野伊月の未来を歪めただけにとどまらず、これから先、彼女以外の人間たちの運命にも深く、後戻りできない影響を残し続けることになる。
そして、藍野伊月を救いたいと願い、過去へと干渉を試みる未来人たちの陣営にも、一枚岩ではない複雑な確執と謎が渦巻いていることを、この時の哲平は知る由もなかった。
──
「なるほど、アイノイツキは死の源流が複雑な位置に絡んだが、しばらく哲平くんは首の皮一枚繋がっていたと」
「ああ……藍野さんについて知ろうと思ったらむしろ遠ざかってしまった、最悪だよ」
「しかも、フューチャーサンダーが今度は藍野に牙を剥いてきた……最悪だね」
「フューチャーサンダー?」
「俺がそう名付けた、未来から雷と共に情報送ってくるし」
入院している間、哲平は漫画を描くことすら出来ずベッドで立ち往生というか座り往生、こんな時に頼ることが出来るのは……こんなときでも呑気しているの影生くらいだ。
未来のことで相談できるのは影生くらいしかいない、今の謎となるのは何故藍野を救おうとしているはずの未来人があんな行動を取ったのかだが。
「じゃあそうだね……哲平くんの電子レンジのタイムマシンって、送り先が哲平くんの所だけって線は?」
「俺だけ……どういうことだ?」
「俺たちの時代でも携帯電話はあるよね? 番号さえ一致していればどんなものからでも掛けられる通信端末……あれと同じで、哲平くんのタイムマシンにもそういう未来の番号があったとしたら……」
「……もしかして藍野さんを救ってと言っているこれまでの人と、今回起きた事例は別の人がやったってこと?」
「もしかしたらってこともあるけど……まあ、その方が自然かな? って形だ」
未来から助けに来た人と別……なんらかの悪意のある存在が藍野を妨害するために直接手を出してきた? しかしコテージでは哲平の部屋と違いタイムマシンとされるものは存在しないのにどうやって干渉してくるのか?
だが、こんなことできるは未来人しかいない……まだ謎が多いが、こんなところに壊れかけの電子レンジを持ってくるわけにもいかないし藍野のことも気になる。
……つまりは、自分に出来ない今、出来ることといったら、影生に頼るしかない?
「お願いがあるんだ影生くん! 俺の代わりに高知に行って……藍野さんの様子を見にいってくれ!!」
「りょうかーい、俺は哲平くんと違ってずっと暇だしね、今のうちに状況整理するっていうのもありなんじゃない?」
影生は言うだけ言って満足したあとベッドから消えるように去る、この間にも哲平は状況整理のためにも影生が言っている事を思い返す、あの落雷で電子レンジが携帯の番号……名称を変えるなら未来人達の信号と一致することになったか、そうなるように仕組んだのだろう。
……だが、レンジを通す必要がわからない、未来に向けて何かするならそれ専用の道具でも送りそうなものだ、藍野ではなく何故自分というのは、影生が『ホワイトナイトの内容によって藍野が何者かに殺されるのではないか?』と言っていたことを振り返ると……誰か身代わりが欲しかったのだ、死んでも歴史に支障が出ないような凡人。
つまり、ホワイトナイトが来る前の自分のことだ。
自分の命と引き換えに藍野を救う……そういうことだ、きっとそうに違いない。
……全部がそうか?
「あ!?」
間違い電話、現代でさえあるんだから信号が一致すればあるのではないか? 誰かしらの未来の間違い電話をタイムマシンから受信してしまうこともあるだろう、誰かの悪意のせい、アイノイツキのメッセージの人は関係ない、偶然の事故……そう言い聞かせた。
意図的だった場合、哲平のタイムマシンの受信先は……既に筒抜け? しかし……携帯と違って危機となっても番号は変えられないのが難点だ。
「せめて、藍野さんの腕がなんとかなれば……」
夢を諦めて欲しいとは考えたこともあったが、漫画家の道が閉ざされるのはあまりにも酷すぎる道だ……自分も何もしないわけにはいかないと携帯を調べる。
──腕の治療費は、どれくらい値段がかかる?
────
一方、藍野伊月は高知の実家にいなかった。
母親に宛てた短い置き手紙をテーブルに残し、彼女は早々に実家を後にしていた。
自暴自棄になったわけではない。むしろその逆だった。
利き腕の神経を傷つけられ、長時間ペンを握れなくなる──それは、漫画を描くために生きてきた藍野にとって、人生が完全に失われる寸前であることを意味していた。
だからこそ、自分の運命を狂わせたかもしれない『未来越しの盗作の真実』に、本格的に向き合う覚悟を決めたのだ。
包帯の巻かれた右手を見るたび、あの事故の瞬間が鮮明にフラッシュバックする。
燃え盛る炎の熱、肌を刺すような焦げ臭さ。そして、あの炎の中で自分を助けようとやってきた佐々木哲平の姿。
彼が何かを隠していることはわかっていた。未来のジャンプ、タイムマシンらしきものの存在。
だが、彼一個人に意図的に天変地異を起こし、雷を落とすような超常的な力があるとは到底思えなかった。
今の藍野は、哲平に悪意がないことを信じている。ならば、あの不可解な現象と未来の技術の出所はどこなのか。
独自に集めてきた情報の断片が、ある1つの場所を指し示していた。
タイムマシンや、それに近いオーバーテクノロジーを持っている可能性がある特異点。
──『
数年前に独立を宣言し、誕生した日本の48番目の地域。
余裕があれば取材で行く予定はあったが、そこは日本でありながら『新国家保安部隊』なる組織によって独裁政権のようなものが敷かれているというきな臭い噂が絶えない場所だった。当然、中に入る手段も極端に限られている。
(日本に、そんな漫画みたいな場所が実際に存在するなんて思わなかったな……)
指定された停留所にやってきた、たった一本の白いバス。それが白革県へと向かう数少ない交通手段だった。
意を決して乗り込むと、車内はかなりまばらで薄暗かった。だが、藍野の視線はすぐに最後列の座席で立ち止まった。
そこに見慣れた先客が座っていたのだ。
しかし、その姿はあのコテージでの事故の時とは打って変わり、酷くやつれ果てていた。
「……ダザクさん?」
声をかけると、虚ろに窓の外を眺めていたダザクがゆっくりと首を向けた。
「……ちょっとしか経ってないのに、凄く痩せましたね」
藍野が驚きを隠せずに言うと、ダザクは自嘲気味に力なく笑った。
「僕にしては妙に気分じゃなくてね……二日間、液状の物で済ませただけでこの調子さ……それでいてちゃんと生きてるんだから、凄いよね、エレボス人」
エレボス人……コテージで話していた、ダザクを表す新しい存在、その単語が言葉からこぼれ落ちた。人間とは異なる存在であることを匂わせるその響きに、藍野は息を呑んだ。
ここまで彼女が集めてきた現実離れした情報の数々。未来からの漫画、謎の落雷、そして目の前にいる特異な体質の新人類。
何かが繋がろうとしている。ここに、自分が求める真実への手がかりがあるのかもしれない。
「……もしかしてダザクさん、あそこから来たんですか?」
探るように尋ねると、ダザクは首を傾げて答えた。
「ああ。正確には、あの場所が『白革県』という形になる前にだけど……僕はそこで生まれたことになる。五年くらい行ってないけどね」
この人物もまた、あの異常な場所の出身だった。
藍野は緊張で乾きそうになる唇を舐めた。これから向かう場所がどれほど危険なのか、そして自分がどれほどの深淵に足を踏み入れようとしているのか。身の安全のためにも、一つだけはっきりさせておきたいことがあった。
「ダザクさん……あそこには、国の総理大臣にも匹敵する権力と力を持つ、国家保安部隊の『大総統』という人がいるそうなんですが……さすがにそれは……」
ネットの都市伝説や陰謀論の類ではないのか。そう否定してほしくて向けた言葉だったが、ダザクの反応は藍野の期待をあっさりと裏切るものだった。
「大総統……? ああ、多分それくらい出世していてもおかしくないね」
彼はさも当然のことのように、少しも驚く様子を見せずにそう言った。
その淡々とした口調が、かえって事の異常さを際立たせていた。誇張でも噂でもなく、白革県には本当にそのような絶対的な力を持つ存在が君臨しているのだ。
背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、藍野は悟った。
(……多分私、ここでダザクさんに会ってなかったら、生きて帰れなかったかもしれない)
白いバスは、外界の常識が通用しない未知の領域へと、静かに走り続けていた。
……バスに乗っている間、ダザクから白革県に関する大事な話をあれこれ聞いていた。
『大総統』……ダザクが去る前に聞いたのが、総司令官シエル・ローレンス……改名してフローレスにもなったらしいが、藍野が以前情報を聞いた『桃の園事件』に深く関与する……というか、白革県が生まれたのはそういう事件の影響もあるが……。
だが問題の根底を聞いて藍野も血相を変える。
「ゴクレンジャーのことを知ってるならちょっとだけ語るけど……実はあの戦隊も、活躍ビデオの大半がコンテンツショック前に消えたはずの戦隊の内容をパクって放映されたものなんだ」
「……それって!」
「そう、君がホワイトナイトを盗作されたっていうのと出来事が似通っているんだ、だから僕もあの件とは無関係じゃないと思っているしそれが事実なら……どうしようもなく憎たらしい」
ダザクのこんな顔を始めてみた……と話をしている間にバスが止まり、目的地に辿り着いたようだ。
バスを降り立ち、白革県へと足を踏み入れた藍野は、目の前に広がる光景に拍子抜けしてしまった。
(案外、普通の都会と変わらない……)
整然と並ぶビル群、行き交う自動車、そして舗道を歩く人々の姿。
もっとスモッグに覆われていたり、武装した兵士が街角に立っていたりするような、いかにもなディストピア的風景を想像していたのだが、拍子抜けするほどそこは「日本の都市」の顔をしていた。
しかし、視線を少し上げれば、その平和な錯覚は一瞬にして打ち砕かれる。
街の奥……周囲のビル群を見下ろすようにそびえ立つ、現実離れした異様な要塞のような巨大施設。灰色の重厚な壁面と、無機質で威圧的なフォルムは、この街がただの都会ではないことを無言で主張している。
あれこそがこの地を支配する国家保安部隊の本拠地。そして県名の由来にもなった『ホワイト・レボルシオン』だ。
隣を歩くダザクも、あそこで生まれたのだという。
街を行き交う人々は一見すると普通に過ごしているように見える。だが、藍野の肌にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。
どこを見回しても監視カメラらしきものは見当たらないのに、ビルの窓から、信号機の陰から、あるいはすれ違う人々の視線の端から──街の至る所から常に監視されているような、息苦しいほどの不安な気持ちになるのだ。
「それで、君の目的は例の大総統だろう? となると行くしかないよね、あそこ」
ダザクが事も無げに要塞を指さして言う。
「旅行の名所感覚で行っていいものじゃないですよねアレ! 高知に指だけ残して帰還するわけにはいかないんですよ!」
痛みを庇うように右腕を抱えながら、藍野は声を荒らげた。命懸けで来たとはいえ、あっさりと敵の本丸に乗り込もうとするダザクのペースには冷や汗が出る。
「心配ないよ僕がついてるし。何よりシエルは、人様の家族に危害を加えるような人間じゃない……指どころか、クローン人間を用意してしっかり家族に返すだろうね」
「テセウスのアイノイツキじゃないですか!」
藍野のキレのいいツッコミが虚空に響く。
やはりこの地域だけ、根本から常識や倫理観が現実離れしている。だが、自分一人ではあそこに近づくことすらできないだろう。ダザクがそばにいるからこそ道が開けるのだと腹を括り、藍野は彼と共に国家保安部隊本部へと歩みを進めた。
要塞の入口には、当然ながら強固なゲートと重武装した警備兵、そして最新鋭のセキュリティシステムが立ち塞がっていた。
ところが、ダザクがそのゲートに近づいた途端、警備兵たちは一言も発することなく道を空け、分厚い鋼鉄の扉がシステム音と共に全て自動で開かれていくではないか。顔パスどころの騒ぎではない。
促されるままに中へ入ると、そこは何も見えない真っ暗な空間だった。
視覚を奪われる恐怖に足がすくむ。藍野は咄嗟にダザクの手をギュッと握りしめた。彼は何も言わず、その手を引いてひたすら暗闇の中を真っ直ぐに進んでいく。
どれくらい歩いただろうか。不意に、パッと視界が開けた。
そこは、まるでファンタジー漫画にでも出てきそうな、過剰なまでに豪奢で冷酷な玉座の間だった。
そして、一段高い場所に鎮座する玉座には、一人の女性が足を組んで座っていた。
銀のフレームのメガネを掛けた、白銀の髪の女性。絶対的な権力者と聞いて、どれほど恐ろしい風貌をしているのかと身構えていたが、意外にもその見た目は若かった。佐々木哲平と同年代くらいにしか見えない。
しかし、纏っている空気が違った。静かだが、圧倒的な圧力。
藍野は本能で理解した。この人物こそが、裏で日本を牛耳る事さえ可能で、タイムマシンのようなオーバーテクノロジーを持っていてもおかしくない絶対者。
ホワイト・レボルシオン大総統、シエル・フローレス。
改めて、目の前に広がる光景が日本で現在進行形で起きている現実だとは思えなかった。思考がフリーズしそうになる藍野の横で、ダザクがひらひらと手を振った。
「やあシエル、飛ぶ鳥を落とすどころか殲滅したぐらいの勢いで出世したんだね」
「軽っ!? この人、一応現実世界のラスボスみたいな人ですよね!?」
思わず素でツッコんでしまった藍野をよそに、玉座の上のシエルは冷ややかな、絶対零度の視線をダザクへと向けた。
「……ダザク、よくも今更のこのこと姿を現したな」
地を這うような低く冷たい声。その場にいるだけで空気が凍りつきそうになるほどの殺気が、玉座から放たれていた。
だが、ダザクは怯むことなく、かつての知り合いに向かって淡々と告げた。
「事情が変わったんだ。君が耳に挟むべき情報を拾ってきた……この子と一緒にね」