謎の空間から抜け出し、いつものアパートの自室へと戻ってきた哲平を待っていたのは、完全なる静寂だった。
いや、ただ静かなだけではない。
窓の外を飛んでいた鳥は空中でピタリと静止し、時計の秒針は止まり、空気中の埃すらも重力を無視して空中に留まっている。
本当に、周囲の物全ての動きが止まっていた。
「これが……」
哲平は手近にあったマグカップに触れてみる。彼の手が触れている間だけ、マグカップは本来の物理法則を取り戻したかのように動いた。しかし、パッと手を離すと、それは机に落ちることもなく、空中でカチリと固定されたように不自然に固まった。
自分が触れたものは動いていた時のように反応し、手を離せばその場で固まる。どうやらそれが、この奇妙な空間のルールのようだった。
「時間は止まってるけど、俺自身の時間は進んでるってことか」
腕につけていた電池式の腕時計に目をやると、チクタクと規則正しく秒針が進んでいる。この時計を使えば、この停止した世界で自分がどれくらいの時を過ごしたのか、主観的な時間を計ることができるだろう。
未来人の台本によると、この時代で藍野が亡くなることになる世界線では、哲平をこの空間に送り込み、何十年、あるいは何百年という途方もない時間をかけさせて漫画を描かせる展開になる予定だったのだと。
藍野の才能を凌駕するほどの圧倒的な画力と構成力を、力技の修練で身につけさせるために……もしそうなっていたらどうなっていたのか、今の哲平には知る由もない。
ふと視線を移すと、見慣れたはずの机の上に、見慣れない紙束が置かれていることに気がついた。
一番上にあるメモ書きを手に取る。以前、未来から届いた電子レンジからのメッセージとは明らかに筆跡が違う。
あの空間で会った、飄々とした『代理人』の未来人が残したものだと直感的に断言できた。
『そっちの佐々木哲平はすぐに戻りたがるかもしれないので置き手紙を残しておいた』
『サンダーくんだったか……あの壊れかけのロボットの玩具があったじゃないか、アレに触ったら時の流れが動き出すが、もちろんこの力は一度きり』
『それまでは何千何万年過ごしても変わらない、飢えることもない、まあ……当然長居しすぎたら悪影響がないわけでもない』
『あと責任持って守っておきたいルールブックも書いておいたから、時間は無限にあるんだから過ごすなら目に焼き付けて読め、以上』
メモの下には、電話帳かと思うほどの分厚い束が鎮座していた。
「置き手紙よりよっぽど分厚い……」
哲平は思わずため息をつきながら、その「ルールブック」のページをめくった。
内容は驚くほど緻密で、事務的だった。
一、止まった時間の中で何を持ち出しても何を使っても構わないが、時間を戻す時は必ず事前に散らかしたものを元の位置、元の状態に戻すこと。
一、漫画のネタ集めや資料収集に使うこと以外で、停止した世界において大きな干渉や事件を起こさないこと。
一、絶対に、止まっている藍野伊月に何かしらのアプローチをかけないこと。
まるで、この手の時間停止や平行世界の管理を専門としている役人が書いたような、理路整然としたマニュアル。
哲平は苦笑しながらも、この分厚い束を机の隅、いつでも手の届く場所に丁寧に置いた。ルールは守らなければならない。これから途方もない時間をこの部屋で過ごすのだから。
哲平は椅子に深く腰掛け、大きく息を吐き出した。
彼は決めたのだ。この止まった無限の時間を使って、ただひたすらに漫画を描くためだけに生きると。
ずっと心の奥底で焦っていた。『ホワイトナイト』という未来の圧倒的なコンテンツ。今はそれをなぞっているだけだが、いずれストックは尽きる。46話以降の展開はどうするのか。今の自分の実力で、あの強烈な「ドパガキ」の勢いを維持しつつ、さらにその先の物語を紡げるのか。
だが、今は違う。
自分には、いくらでもネタを練り、画力を叩き上げ、構成を組み直すための「時間」が与えられたのだ。
何十年かかってもいい。何百年かかってもいい。
この果てしない静寂の中で己を研鑽し尽くせば……全人類を熱狂させ、そしてあの時命を落とすはずだった藍野をも救い出すような、本物の『ホワイトナイト』を描き上げる漫画家になれるかもしれない。
「やるしかない……!」
机に向かい、Gペンを強く握りしめる。
止まった世界。誰の目にも触れることのない、絶対的な孤独の空間。
佐々木哲平は今日この瞬間から、悠久の時をかけた終わりのない修練へと身を投じた。超名作『ホワイトナイト』の真の作者という、重すぎる肩書きにふさわしい男になるための、孤独で壮絶な戦いが始まったのだ。
──
チク、タク、チク、タク。
腕の時計だけが進む完全な静寂の世界。
哲平はその規則正しい音を頼りに、自らの体感時間を強固に保ち続けていた。
見えるもの全てが動かないこの特異な空間で、自分がどれだけの時を過ごしたのかを正確に把握することは、狂気に呑まれず正気を保ちながら漫画を描き続けるための唯一の命綱だった。
インプットは欠かせない。哲平はネタとして使えそうな景色や体験を求め、静止した世界を巡った。
電車などの交通機関は動かないため、移動手段は己の足か自転車などの人力の乗り物に限られる。
はるか遠くまで赴くには途方もない時間がかかったが、どれだけペダルを漕いでも、どれだけ歩き続けても、肉体的な疲労は一切感じない……無限の時間が与えられている今の彼にとって、移動の手間など些細な問題でしかなかった。
空中で静止した鳥や、落ちる途中で固まった雨粒の脇をすり抜けながら、彼はただひたすらに世界を観察し、脳内に蓄積していった。
──漫画を描き続けて300日が経過した。
静寂に包まれたアパートの自室で、哲平は大きくペンを置いた。
全194話。ついに『ホワイトナイト』のネームを、完結まで描き上げたのだ。
藍野伊月という天才が紡いだ『ホワイトナイト』の魂を汚さないこと。
唐突なご都合主義に逃げず、これまで積み上げてきた伏線やキャラクターの目的から一切ブレることなく、全てを鮮やかに回収して綺麗にまとめること……それだけを考え、幾度となくリテイクを繰り返して辿り着いたひとつの最適解だった。
しかし、これで終わりだとは思っていない。
時が経てば、新たな視点から改善点や気になる点が見つかるはずだ……『ホワイトナイト』という絶対的な名作は、何度でも解体し、再構築することを前提として作ろうと思っている。
だからこそ、哲平は『ホワイトナイト』と並行して、完全オリジナルの連載作品の執筆にも手を出していた。
万が一、元の世界で何らかのイレギュラーが起きた時、即座に新しい作品を打ち出せるようにするための保険であり、何より己の漫画家としての限界を押し広げるための挑戦だった。
机の上には、『ホワイトナイト』のネームと共に、形容しがたい新たなジャンルを開拓した意欲作『ゴッド・マーカー』、そして、これまでの経験と知識を総動員して初めて「セカイ系」と呼ばれるジャンルに挑んだSF作品『ゾーン300』の原稿が並んでいる。
「まだ描ける……もっと新しいものも、普段なら手を出さないような題材も、今の俺なら……」
尽きることのない創作意欲が、哲平を突き動かしていた。
──およそ700日が経過。
机に積み上げられた『ホワイトナイト』のネームは、3度目の完結を迎えていた。
同時に、オリジナル作品のネームも通算5本目の完結まで至っている。
この頃になると、哲平の視野はさらに広がっていた。「万が一」を想定し、連載の場を『週刊少年ジャンプ』以外にも求める可能性を考慮し始めたのだ。
かつてはジャンプでの連載こそが第一希望であり、他のジャンルや雑誌に目を向ける余裕などなかった。しかし今は違う。
彼は図書館や書店から(もちろん後で戻すことを前提に)あらゆる雑誌をかき集めた。
月刊誌、少女誌、さらにはマニアックな専門誌に至るまで読み漁り、それぞれの読者層や傾向を徹底的に分析した。
狭かったアパートの床には、ターゲット層や掲載誌に合わせてタグ付けされた無数のネーム原稿が、文字通り山のように積まれていく。
子供向けのゆるいコメディを模索した『にんぽこ! 稲庭ちゃん』から、逆に対象年齢をぐっと引き上げ、緻密な世界観で構成した青年向けの海洋冒険譚『ギョーテン』まで、その作風は多岐にわたった。
それでも、哲平は『ホワイトナイト』の再設計から離れることができなかった。
完璧だ、これ以上ない出来栄えだ。そう確信してペンを置き、時間を動かすためのトリガーであるロボットの玩具へ手を伸ばそうとする。しかし、その直前で手が止まるのだ。
『本当にこのままでいいのか?』
『あの藍野伊月を、そして読者を、完全にねじ伏せることができるのか?』
重圧と執念が彼を引き留める。それに……まだ、まだ脳髄の奥底から新しいネタを絞り出せるかもしれない。自分に出来ることは、まだ沢山あるはずだ。
そうして手は玩具から離れ、再び真っ白な原稿用紙へと向かう。動かない時の中での孤独なルーチンは、終わる気配を見せなかった。
──そして、1500日以上が経過した。
5回目の『ホワイトナイト』の完結。
18作にも及ぶ、オリジナル作品の完成。
哲平はついに、物理的かつ現実的な「限界」を悟った。
アパートの部屋を見渡すと、足の踏み場もないほどに原稿用紙の束がそびえ立っている。
彼が用意したルールブックには「時間を戻す時は事前に散らかしたものを元の状態に戻すこと」とあるが、自分が生み出したこの膨大なネーム原稿は、元の世界に持ち帰る自分の「成果物」だ。しかし、これだけ大量の原稿を全て仕事場に持ち込むことは不可能であり、この狭い部屋に保管しておくにも、すでにスペースの限界を迎えていた。これ以上新しい作品を描こうにも、物理的に原稿を置く場所がないのだ。
インプットも限界に達していた。停止した各地の漫画喫茶を巡り、一通りの作品には目を通した。
図書館にあるありとあらゆる分野の専門書や文学も、とうの昔に読み切ってしまった。
これ以上、この空間に留まって続ける意味はない。己の内に蓄積できるものは、全てやり尽くした。
「……よし」
乾いた声が、何千日ぶりかに部屋の静寂を破った。
哲平はゆっくりと立ち上がり、机の隅に置かれていた、壊れかけのロボットの玩具──「サンダーくん」を見つめた、未来人が言うにはずっとここから自分を見守っていたようだが……。
ルールに従い、外から持ち込んでいた資料や本が全て元の場所に戻されていることを確認する。部屋に残されているのは、彼自身の血と汗と、狂気にも似た途方もない時間によって生み出された原稿の山だけだ。
深く、長く息を吸い込む。
そして、佐々木哲平は、自らの意思で再び「時」を動かすべく、その手をサンダーくんへと伸ばした──!
「うおっ!?」
手を伸ばしてからすぐに響いたのは数年ぶりに聞いた人の声、まるで突然世界がアップデートされたかのように変化したのだから驚くのも無理はないが……部屋のほとんどが原稿で埋め尽くされる。
その声の主というのが……意外にも、あの藍野伊月の担当編集である、あの戦場雪吹であった。
これだけ沢山の漫画を見たら、普段のんきしている彼でも度肝を抜くだろう、手が震えて……止まらなくなっている。
「ば……ば……」
「あっ、雪吹さん! これはその……」
哲平は突然何千何百という漫画のエピソードが生えてきたことに関して弁解しようとするが、その前に雪吹の怒号が飛ぶ……しかし、その内容は予想外のものだった。
「時止めて漫画作るにしても、限度ってあるもんだろうがバカタレ──ー!!!」
「う、うわああああ!! そ、その言い回し、まさか貴方……俺に時間とめる方法を教えてくれて、代理で色々語ってくれた未来人の方!?」
「そーだよ!! ちょっと話せば長くなるんだけどあの落雷のショックで記憶を取り戻したんだよ!!」
──
……記憶を取り戻した、そう語る雪吹に一旦ファーストフード店で話をすることに、鬱憤を晴らすかのように5人前ほどのポテトを食べて哲平に状況説明を行う、あのコテージの落雷事故に巻き込まれた際、藍野を庇ったことで直撃して……記憶を取り戻した。
そもそも言ってなかったが雪吹は記憶喪失だった際の人格らしい。
「……ていうかあのコテージって能登とダザクいたんだよな、気付いてたらどうしよう、あいづれぇ〜……」
「あの二人と知り合いだったんですか?」
「あの空間で話したろ、『主人公』は同じでも宿敵や物語は変わり続けたって、それが過去のあいつらってことだ……そして俺は名前を変え形を変え、アプローチし続けてたってわけ、この前には人間ですらなかったけどな」
「まさかその為に藍野さんの編集に?」
「いやいや、定期的に名前や形を変える際に記憶を失うから偶然巡り会える立場を維持するのも大変だ……俺のことなんてどうでもよくてな、気になっていることはあるか?」
「まさにさっき貴方が言ったあの話……コテージでの落雷のことですよ、完全に想定外だったという線で見てますけど」
「うん、そりゃフューチャーサンダーから見ればそうだろうな……ああ、それが一応未来人というか協力者の名前な? ……んで、記憶は戻ったが状況把握がしきれてない、答え合わせいいか?」
雪吹が知りたいという形で哲平にこれまでのことを聞こうとするのだが、それよりも哲平としても肝心なことがわかっていない、あくまで雪吹は代理に過ぎないのだが彼自身の経歴のことも……そこを聞いたら……指を鳴らしてあの二人だけの空間に再度戻った。
「俺は『宿敵』って言っただろ? その人にとっての宿敵、だからどんなに次元を超えてでもそいつの邪魔をするために現れる、あいつは目立ちたがり屋だからな」
「つまり……今回のシナリオでは俺や藍野さんが、その主人公と深く関係しているからそれを邪魔するために未来のジャンプを送った、それでいいんですか?」
「まあ認識的にはそれで合ってるか、そしたらまぁ俺でもびっくりしたのがあの止まった世界での佐々木哲平のトリックスターっぷりなんだけどな……あ、一応ツッコミたいところもあるが褒めてはいるんだぞ?」
「それで、その……いい経験にはなったんですけど結局藍野さんの死は進展あるとは言ってましたが……それって、俺や藍野さんとは別の主人公がなんとかしてくれるわけで……ん?」
主人公が藍野の死をなんとかするかもしれなくて、しかし雪吹やそのフューチャーサンダーとやらはそれを邪魔するのにこうして哲平に声をかけてまで心身になっていて……? 経験を積んだ哲平はすぐに気付いた。
「もしかしてその人、アイノイツキの死に特に関心がない……!?」
「うーん……ちょっと惜しい、あいつは自分にとって面白くなるもの以外に関心がないといったところか……なあそろそろ現代で何が起きたか説明してよ、俺記憶が戻って高知に帰ってから1回も藍野ちゃんに会えてないんだよね」
「えっ、うん……話せば結構長くなるけど、まず……」
しかし哲平が説明を始めようとして5分ちょい、まるでどこぞのヤバいクレーマーのような雪吹の全力の「コラ〜〜〜〜〜」が誰もいない空間のなかでこだまする。
「なんで!! 盗作の真実を!! ちゃんと!! アイノイツキに!! 伝えんのじゃ!!」
「つ、伝えると言っても電子レンジがタイムマシンになって、10年後のジャンプが送られてきたなんて信じてもらえないって!」
「見せろよ!! 何冊もある未来製ジャンプを送るところ! 何冊もあればAIかどうか疑わんし、作れるとしてもどんなスパコンかって思うわ!! 俺急ぎめだったとはいえ送る周期は一定だったよな!? なんで藍野伊月を呼んでおかないんだよ!!」
「ま、漫画描いてる時間を思うとそんな暇なかったし、そもそも藍野さん高知出身で、アシスタントにならなければ会う機会もそうそう……」
「ぐぬぬぬ……そ、そうだとして……なあ、一応聞いとくけどなんでホワイトナイトの連載、お前が描いてるの? いや描くのは成り行きとしてもだよ? なんでジャンプで金貰って描いてるの? 連載あたりで断れたよな……?」
「確かに断る機会はあったし俺も考えたけど……この世からホワイトナイトを消すわけにはいかなかったから……」
「……あー、あ────、もうこの際俺には止められんわ、1年先にしなかっただけでも、お前の結論がそれなら元から俺にはどうにもできんのだがよくわかった」
「それになんか……藍野さんにはバレ始めてるって」
「バレ始めてるとかじゃなくてもうこの際ちゃんと話せ!」
「それはそうなんだけど……その前に藍野さんがまた漫画を描けるようにしないと、お金があるから治療費を出して……」
「あの事故はそうだな……漫画の心的には大丈夫だ、ルートを見てみたが右手が折れても左手で描く、監禁してでも諦めない……そんなものだよ、夢への執念なんて……で? まさかとは思うがその金ってホワイトナイトの?」
「あっいえ、ホワイトナイトの印税は定期的に高知の実家の玄関に置いて、もうしばらくすれば持ち主が見つからず藍野さんの物になるから……」
「怖くて使いたくねえよ道端に置かれた謎の大金!! ……んで? それじゃないなら藍野伊月の治療費どこから出るの?」
「え? どこからって、別の未来人がメッセージを送って、正確には俺が手に入れたわけじゃないけどそれで宝くじを……」
「……なるほど、そういうことか、藍野の事は頼んだ、自分でも分かるんだ、ここ最近は俺も無事では済まないなって」
指を鳴らして、元の店に戻った二人……雪吹は自分が食べた分のお代だけ払って去っていく。
「貴方達未来人に出来る事は、ここまでということですか?」
「まあそういうこった、じゃあな!」
こうして雪吹と別れになり……哲平にとっても、これが最後の会話となった。