あれから少しの時が過ぎた。
哲平が描く『ホワイトナイト』の第25話が、週刊少年ジャンプの誌面を飾っていた頃。佐々木哲平の仕事場には、かつての活気と、それを上回るほどの静かな熱気が満ちていた。
「佐々木先生、ここのベタ、終わりました。次の背景、指示をお願いします」
ペンを走らせる心地よい摩擦音に混じり、凛とした声が響く。
声の主は、藍野伊月だった。
彼女の右手には、あの痛ましい落雷事故の少し残った傷跡と、まだ漫画を描くのは厳しい後遺症が残っている。哲平の出した資金によるリハビリが続いているが、1から10まで原稿のすべてを己の手で描き切ることは、今の彼女には不可能だった。
しかし彼女は諦めなかった。あの事故から這い上がるようにして、血の滲むような努力と執念で左腕を鍛え上げ、利き腕ではない左手でもアシスタント業務をこなせるレベルにまで復帰を果たしたのだ。
その横顔を見つめながら、哲平は微かに息を吐く。
(……とりあえず、連載自体の心配はなくなった、話の続きに関して言えば……)
未来のジャンプから送られてきた『アイノイツキ版ホワイトナイト』のストックは、すでに半分を切っている。だが、今の哲平に焦りはなかった。
あの未来人が与えた異次元のような「止まった世界」で何千日も費やし、ホワイトナイトの続きはすべて自分の頭とネームの束に落とし込んである。完結までの道筋は、すでに予定調和の段階に入っていた。
問題は、そこではない。
未来人である雪吹から告げられた、藍野が死ぬという未来。それを回避するための兆しは見え始めている気がするが、決定的な「問題の核」と「解決の糸口」は未だ深い霧の中だった。
ここから如何にして、彼女の命と才能を守り抜くのか。それが佐々木哲平に課せられた、最大にして最難関のミッションだった。
そんな中、日が経つごとに哲平の仕事場は慌ただしさを増していた。
というのも、彼が抱える仕事は『ホワイトナイト』だけではなくなっていたからだ。
「まさか、本当に新連載の枠が空くとはなぁ……」
少し前のこと。ホワイトナイトの圧倒的な人気と、決して原稿を落とさない哲平の異常なまでの速筆(それもそのはず、彼はアイノ版のトレース作業に加えてすでに数年分のネームのストックがあるのだから)が評価され、ジャンプの新しい後継雑誌にて、哲平にもう一本の連載オファーが舞い込んだのだ。
そこから哲平は、あの止まった時間の中で生み出した無数のオリジナル作品の中から、ひとつのネームを提出した。
タイトルは『メビウスの星』。
見事、企画は通り連載が決定したのだが、いくらネームが完成しているとはいえ、週刊連載を抱えながらもう一本の作画を並行するのは、物理的な限界を超える作業量になる。いよいよアシスタントを増員し、睡眠時間を削る覚悟を決めていたその時──。
『佐々木先生……今度の連載、私に絵を任せてくれませんか!?』
藍野が、真っ直ぐな瞳でそう提案してきたのだ。
彼女は自分自身の現状を誰よりも理解していた。左手での作画能力は上がっているとはいえ、完全なオリジナル作品の連載を立ち上げ、一人で描き切るにはまだ無理がある。だからこそ、ネームという骨組みがすでに完成している『メビウスの星』の作画担当として、実践の中で己の画力を限界まで引き上げる道を選んだのだろう。
漫画への渇望。絶対に筆を折らないという、彼女の凄まじい執念だった。
「……うん。あの提案は、お互いにとって最適解だった」
哲平は小さく呟き、手元の原稿にペンを入れる。
藍野の提案を受けた時、哲平が何よりメリットに感じたのは「彼女を常に監視下に置ける」ということだった。
原作と作画。共同作業者としてひとつの作品を創り上げていく形になれば、打ち合わせや原稿のやり取りで、嫌でも常に藍野の様子を確認できる。彼女の身に何か危険が迫った時、一番近くで盾になることができるのだ。
こうして、『ホワイトナイト』と並行し、紛れもなく佐々木哲平が1から考えついた純度100%のオリジナル作品『メビウスの星』が、世に出ようとしていた。
未来からの盗作という十字架を背負いながらも、ようやく「自分自身の作品」で、藍野伊月という天才と共に勝負できる。彼女を守るための完璧な布陣も敷けた。
この時の哲平は、胸の奥底で確かに希望の光を感じていた。
ここからすべてが好転していくのだと、信じて疑わなかった。
──この『メビウスの星』の連載こそが、佐々木哲平の“真の受難”の幕開けになるとは、この時の彼は知る由もなかったのである。
ある日のことだ、かなり久しぶりにマンガ専門学校の同期からまた電話がかかってきた……ホワイトナイトの読切の時に協力してもらった時以来だ、忙しくて顔も見れない状態だったがそれが急な連絡である。
「久しぶりだけどどうしたの急に?」
「調子はどうだと思ってな、最近忙しいんじゃないのか?」
「ああ……ホワイトナイトと別で連載も始まったし、ホワイトナイトの方はストーリーはともかく、単行本の作業がまだ沢山あるし、もうそろそろアニメ化企画も動き出して……あと、やりたいことも出来た」
「なんだ、売れっ子になると自慢話も達者になったのか?」
「聞いたのはそっちでしょ……」
「まあそれもそうだが……お前、またあの学校に来れる暇あるか? 実はな」
──
「なるほど、優秀な卒業生である佐々木先生に講演のオファーと……」
「いや……講演も何もホワイトナイト描いただけなんだけど……」
「でも行くんですね」
「学校から誘われたら断れるわけないじゃないか……それに藍野さんまでついてきて大丈夫なの?」
「それはもう! 私は佐々木先生の新しい漫画の作画担当ですよ! 一心同体みたいなものですから!」
……ということで、哲平は久しぶりに故郷の田舎に戻りかつて卒業したマンガ専門学校へと向かっていた、良かったことはどういうわけか藍野まで一緒になってついていきたいと、年齢的には自分よりそれなりに上の人達に何かしら講演をしようというのか?
しかし哲平としては悩みどころだ、これまでの人生で何を話せばいいのか、将来の後輩たちに説明できるようなネタなどない、ホワイトナイトをどうやって当てたかなんて口で説明するのも難しい……何せ、今の自分が影響力が半端ないことは理解しているつもりだ。
「ホワイトナイトの人気の秘訣は人を選ばないように無個性にした上でインパクトだけで読者を飽きさせないように情報叩き込んでドパガキにウケるようにしましょうなんて言い出したら俺は大目玉だよ……」
「……佐々木先生、ホワイトナイトのことをそんな風に思ってたんですか?」
「え!? い、いやそれはね! 影生くんがそうやって教えてくれて……」
「影生さん……例のルームメイトですか」
引き受けてしまった以上はやるしかない、哲平は数年ぶりに母校へと足を運び……後輩たちに夢を与える言葉を贈るため足を踏みしめる。
ここからだ、哲平にとって油断していたタイミングで罪の十字架は振りかかる。
下がるためには上がらなくてはならない、元々下であることを理解させるためには……上がらなくてはならないだろう?
──
「……結局何を話すか決めてない」
「漫画家なんですからこういう時はプロットを決めておきませんと!」
「どんなプロットを!?」
結局話が決まらないままグダグダな形で本番直前、こんな時に時間を止められたら何日もかけて言うことが決められたかもしれないが贅沢を言ってもあの力は一度きりだ。
しかしこんな時でも藍野は自分の為に応援してくれる、スマホからスタンプを押してくれる。
「何か困ることがあれば私が佐々木先生をフォローしますから! やりたいようにやってください!」
「はは……本当に助かるかも」
そうして哲平と藍野のコンビみたいな形(この間生まれたばかり)として、学校で自身の思いを伝えることにした。
ここでその時の様子を説明するまでもないだろう、佐々木哲平という男の自然体、全人類を喜ばせる漫画を作りたいという思い、それを叶えるため、ホワイトナイトを手に入れて作り上げてきたもの、その為の努力……それら全て、ここまで見ていればその言葉が全て伝わる、つまりはそれくらいいつも通りの透明な話だ。
哲平はこの言葉をありきたりと受け取られても構わないと思っている、全人類に喜ぶような漫画を他の人たちにも描いてもらいたい……その気持ちを一心に皆に伝えた。
哲平の思いは……一人でも届いてくれることを信じて、今回の話に意味があることを信じて、ここまでの流れを全部カットする予定だったが風向きが変わってくる。
それは哲平が突然大量の原稿を公開したこと、部屋で何やらゴミのようなものが窓から見えたので大家さんが開けたら、そこにはネームの山! 隠しきれなかったので、哲平はいっぱい作品を貯めていたことを明かし、ホワイトナイトのネタバレもあるので口を塞ぐように言ってある。
しかし当然質問された。
「どうやってあれだけの数のネームを作成したんですか?」と。
哲平は……どうせ真実を言ってもジョークと判断されるだろうと思い、正直に答えた。
「実は1回だけ時間を止めて、何万日もかけて漫画や資料を全部読んでネーム描いた結果です!」
何一つ嘘も言ってない、これによってネームを作ったのは本当だしこのおかげで哲平はホワイトナイト以外でも納得のいく作品を作れるようになった、今哲平は絶好調の真っ盛りだったが……?
「……あれ?」
この発言をしてから、文字通り冷たい目線で空気が凍るのを感じた、藍野の方もフォローしてくれるはずなのだがキュッと口を抑えている。
(もしかして俺……なんかスベった……!?)
──
「だめじゃないですか佐々木先生最後のやつは!!」
「俺そんなにおかしなこと言ったかな!?」
そしてその日の夜、焼肉店で藍野といっしょに反省会をすることになった、藍野は今回の件でもしかしたらアンチ意見がちょっと増えるかもしれないが哲平の現在のブランド力として見れば些細なことに過ぎないというが、哲平が最後に言ったアレだけはちょっとまずいかもしれないと藍野は言うのだが、哲平からすれば何が悪かったのか分からない。
「いっぱい時間かけて貯めてきた作品……でいいんですよね! それはいいんですよアレだけの量、冗談か真実かともかくそうとも考えないと納得できませんし……ただ! 長い時間かけて漫画や本を読んできた!?」
「そ、それはさ……漫画について学ぶならどういう漫画があるのかって、名作を読んでどういうものが全人類に読まれるのかって考えたら漫喫に直行して」
「……あくまで仮定、仮定として聞きますけど!! 時が止まってる間、どれくらいいました!?」
「えっと時計で定期的に記録してたから……1500日……くらい?」
「およそ4年……で、その間はずっと漫画描いて漫画読んでたんですか?」
「まあうん……正確にはもっと続ける予定だったけど、アパートが原稿でパンパンになっちゃって仕方なく……」
「……はあ、まあ分かりました、そこまでの間毎日描きまくっていたらそうなりますね、倉庫とか買えばよかったのに……」
「時が止まることを見越して自分用の倉庫を買うってどんな未来予知!?」
藍野は未来製ジャンプのことをどこまで把握しているのだろうか? 少しずつ真相に近付こうとしていることは聞いているし、この話でも何か探ろうとしているのか。
しかし今回の件で言えば、哲平はただ時間のみを与えて藍野の作品の足かせにならないくらいにまで成長したことぐらいのことだ、何も問題はない、何回考えてもおかしくない。
確かにせっかくのチャンスがアレで終わるのはもったいないと思うかもしれない、しかし知識は充分得られたしもう二度と描けないわけでもない。
自分がちょっと成長しただけ、その程度のことだ……哲平にとっては、だからそんなに滑ることか? と思ってしまう。
「ああ……でも藍野さんも同じ体験ができるってなったら、どんな風に過ごす?」
「私は別にいらないので始まってすぐに時を動かしますね」
「即答!? 止まってる間に色んな物読んだりとか、そういうことしないの!?」
「だって、私以外が止まってしまったらゾウが絵を描く姿とか、身近な商品が作られるまでの工場の風景とか、そういう貴重な体験まで出来なくなるじゃないですか! 漫画以外にも知識を得られる手段はいくらでもありますし、漫画を読む時間なんていくらあっても多すぎるくらいです!」
「…………」
「もしかして俺、すごくもったいないことした?」
「いえ、佐々木先生にとって参考になったならそれで充分じゃないですか? 先生はそのおかげで連載を取れたんですから……ホワイトナイト以外で」
「う、うん……そうだね」
藍野は今でも漫画家になろうとすることを諦めてないだろう、それはつまり自分のように全人類を喜ばせる漫画を作る夢を断ち切れないことになる。
死を止めることが夢を壊すことになってしまうとしても……哲平は藍野伊月を救いたい、それが今の自分の存在意義だ。
「何はともあれ藍野さん……メビウスの星、これから一緒に頑張ろう!」
「はい!」
だが今はすぐ近くで藍野を守ろう、この時代の彼女と共に自分の名作を作って未来に届けていこう、より素晴らしい世界線になることを夢見て……。
そう思っていたのは哲平だけだ、藍野は……ここで一気に踏み込んでくる。
「あっ、そうだ佐々木先生……ホワイトナイトの方もほぼ作ってあるんですよね? あの勢いだと」
「ああ、ここから何巻でも続けられるくらい……とは言っても終わりどころは決まってるけどね」
「私、そこまでの話見てみたいです! 佐々木先生がどんな風にホワイトナイトを終わらせるのか!」
「え!? まあ、いいか……別に」
元々ホワイトナイトを作り出したのは藍野だ、そしてこの時代ではどんな風に終わるかなど想像だにしない……描いてる途中で無念の死を遂げたことも。
だからこそ哲平なりのクライマックスを見たいのか? と、原稿は哲平のアパートにしかないのでそこまで戻り、藍野を待たせてアパートに入るが……ネームは山ほどあるうえにホワイトナイトは何回も作り直した為、どれが最後のホワイトナイトか若干わからなくなってきたが……一番新しい質感のホワイトナイトを見つけ出して、100何話にも及ぶ続きを見せた。
「……凄い半端な所から、ですね、まだここより前も掲載してないのに」
「その……ほら、時間だけはいっぱいあったからさ」
「ふーん」
藍野は怪しむ顔をしながらもパラパラと読んでいく……この動きに覚えがある、あまりにも速いスピードで読み応えていく、これではまるで菊瀬さんが自分のネーム読切をすぐに読んでボツにしたときと同じではないか?
いや、ホワイトナイトをよく知っているからこそ詰まらないところで一気に読んでいるのかもしれない。
しかし……100話はあるネームが次々と藍野の視界に入っていき……高速で見える物のなかで何かを確認しようとしているかのような動きだった。
そして……しばらく目を離したうちに、藍野は最終回まで読み切った。
「……なるほど、佐々木先生のホワイトナイトはこんな風になって、そうやって終わる……そう考えたんですね」
「ああ、何回も何回も試行錯誤しちゃってさ……最終的にはその形になって、俺はこれでいこうということ」
「……なるほど、ありがとうございました、急に変なこと聞いてすみません、今夜はありがとうございました、私は失礼します」
「えっ……待って!? まさか1人で帰るの!?」
もう既に夜中にも近い時間帯、藍野はここ最近は寮を用意して寝泊まりしているとはいえ空が漆黒となり光を遮るのも早い季節を感じて哲平は敏感になっていた、些細なことでも何か大惨事に繋がるかもしれない、それを思えば迂闊に彼女を一人にしてはいけないと哲平だからこそ過敏になってしまう。
「待って藍野さん!! こ、この時間は危険だから……だから、今日は俺のアパートで泊まっていかないか……?」
だからこそ突発的に出てきた選択……これには藍野もかなり驚いて後退りする。
「さ……佐々木先生自分が何言ってるのか分かってます? 一応私って未成年なこと忘れているんですか?」
「あ……いや! それはもちろん分かってるけど、俺凄く心配だから! ここから送っていくにしてもそろそろ終電も過ぎるし……」
「……私をそれで泊めたとして、ルームメイトいるんですよね? その人はどう思います?」
「俺は別にいいけど」
「影生くんは問題ないって!」
「え、ええー!? 本当に大丈夫ですか!?」
しかしあまり時間をかけすぎても誤解されそうということで、この日の晩は哲平の近くで過ごすことに。
ここまでの自分の様子を見て何も問題がない……と判断してくれているといいが、哲平も何も勘違いがないように普段使っているベッドに藍野を寝かせて自分は床で横になる。
少なくともここにいる限りは、見えている範囲にいる間は藍野伊月も何も起こらない。
(藍野さんが死ぬ……それだけは止めたい、俺にどこまで出来るかわからないけど……漫画を託された俺は、その責任を持って彼女を救わなくてはならないんだ……)
しかし哲平は知る由もない、何か間違いが起きないか不安になっ止めようとしていた藍野の方が……むしろ、この機会をずっと待っていたこと、ようやくそのチャンスが来た。
哲平は自分の使命感や行っていることの割に……寝首をかかれることのリスクを分かっていない。
(やっと佐々木先生の部屋にちゃんとした形で入れた……後は作戦通りに……)