朝……哲平が目を覚ますとベッドに藍野の姿がなかったので急いで探そうとすると……デスクで電気をつけて、もうすっかり慣れた手つきで左手を使い……メビウスの星のペン入れをほぼ済ませていた。
まさか自分が寝ている間、朝から……下手すれば徹夜してまで? 藍野の漫画に対する情熱を甘く見ていたかもしれない、右手で描けなくなっても左手を覚える人が睡眠を犠牲にするなんて普通に思いつくことだろう。
しかしどう説明すべきか、ただ『寝ろ』と言うだけで聞く気もしないこともあるし、自分自身止まった世界では24時間ずっと書きっぱなしだっただけに作ってきたものは同じ比率だ。
悩んでいると藍野も哲平に気がついたのか振り向いて話す。
「えっ!? ……あれ、もうこんな時間ですか? 今何時くらいです?」
「えっと……一応5時だけど」
「5時ならまだ全然2時間は描けますね……第1話は後はトーン貼りなどを済ませるだけなので蓮君達に任せて、第2話の原稿を……」
「いやいいよまだそこまで! ジャンプUPは週刊誌じゃないんだからそんな急ぐこともないから!」
どこまでも漫画を描くことがやめられないのか、哲平が止めてなんとか藍野もペンを止めてベッドに戻して仮眠させる。
ここ最近は朝起きて間もないが既に疲れが溜まっている哲平、それを影生は売れっ子漫画家の貫禄が出てきたと笑うが彼としてはジョークとしても受け取れきれない。
ホワイトナイトのネームはともかく、これからアニメ化に向けての制作会社の打ち合わせやこれまで作ってきた漫画作品の整理……更にその他、漫画家とは思えないくらい仕事が回ってくる、あの時期のアイノイツキもそれくらい対応したのだろうか、1つ分かることはこんな生活しながら徹夜で漫画でも描いてたらそりゃ死んでもおかしくないこと。
哲平も藍野が離れないような形で仮眠しようとするが……見ているのが影生だけとはいえまずい体勢なので、さすがの藍野も右手でビンタする、左手は仕事用なので大事にする。
「さすがにそれは場合によってはバイバイジャンプですよ!?」
「藍野さんがちゃんと寝てくれないのが悪いんじゃないか!!」
「寝ますから! これいつか脅しに使われて炎上されますよ!」
なんとか説得させて何が何でも藍野を寝るように誘導させたのだが、どうにも哲平はおちおち休ませてもくれない様子だ、こんな朝早くだというのにチャットアプリに通知が来る……しかし、すぐに返信しろとは言われていないのでそのまま一緒に寝ようとして、藍野にはしばらく蹴られた。
──
「佐々木先生と私にルポ漫画の取材ですか!?」
「う、うん……正確には僕の仕事場に対してだけどね」
まだ専門学校で講演をしてから全然経っていないというのにこの仕事、佐々木哲平先生とそのアシスタントに対して新人漫画家が取材して、その時聞いた話や印象に残ったことを掲載して読者達に共有する……それがルポ漫画と呼ばれるものだ。
もちろん哲平にとってはこれが初めてのルポ、漫画家の元で修行の身ではあったが哲平から誰かにルポしに行ったことも無い。
しかし公演の時もそうだが何を話せばいいのか……ルポに関してはまだホワイトナイトを当てて間もないというのに、漫画である以上はもっと中身のある事を言うべきだろうか? だが……。
そう考えるうちに仕事の時間が来たので、哲平は藍野以外のアシスタントにもルポ漫画の事を話す。
「今日は僕達の仕事場に新人漫画家の『大和田ルーシー』先生が来て僕らの様子を見たり取材とかするけど、皆はいつも通り作業していくことを心掛けていこう」
「ふふ、なんかそういう取材みたいな話が来ると偉い人になったみたいだね……いや、僕らがアシスタントになった時点で偉いんだっけ?」
「しかしまあ、佐々木先生がいつも通りでいいっていうのでいつも通りいきましょう……それで俺たち、今度から2作同時に漫画制作に入るんですけど大丈夫なんですか?」
「ああ、メビウスの星は……実は藍野さんが殆ど描き上げて二人に後仕上げだけ任るぐらいだから」
「え!? もうそこまで!?」
……と、こんな調子なので相変わらずの調子で仕事は進んでいくだろう。
何も変わらない、藍野さんに関する死の源流以外はいつも通り。
ルポ漫画家が来てもいつものように全人類が喜ぶ漫画の話をしよう、そう思ってペンを手に取ったら……扉をノックする音が。
「あっ、噂をすればじゃない?」
ガチャリ……重い扉を開き、自分たちと編集者以外では基本来ることのないお客さん……黒い髪が綺麗な女性だったが、問題はその衣装。
海賊のようなコートを羽織っているが、その下……上半身はビキニ1枚? 、下はズボンを着ているが……まるでそのまま漫画のキャラクターが現れたような風貌をしていた。
「はじめまして……私、ルーシア……いえ、ペンネーム変えて今は『大和田ルーシー』……」
それはこのルポ取材がただではすまなさそうな波乱の幕開けのように感じられた。
「今回は……メビウスの星を手掛ける、原作の『佐々木哲平』先生と作画の『藍野伊月』先生に話を聞くべく……」
「佐々木先生、ルポ漫画って身バレ防止的にデフォルメした絵柄とかで表現されることはありますけどなんで現実の時点で現実離れしてるんですか……?」
「う、うん……世の中にはあんな個性的な人もいるんだな……」
二人は普通に取材を受けるが、それよりもルーシーがあまりにも個性的すぎて気になって仕方ない、ツッコミ厳禁なのだろうかルーシーはボソボソと語りながら話を続ける、とても衣装のことを聞けるような雰囲気ではない。
……だがルーシーは遠慮なく哲平に話を浴びせてくる。
「なんか佐々木先生……ホワイトナイトの単行本で見た時とそんなに変わらない……」
「俺はほら、あまりキャラクター像になった自分がイメージできなくて……」
「そういう作者さんもいるのね……それでまずは、藍野先生から先に話を聞いても……?」
「はい! 私こういう体験初めてなので遠慮なく聞いてください!」
哲平はルーシーを怪しみながら藍野が何を話すのか慎重に聞く、もしかしたらここでホワイトナイトの話をすることだってありえるし……一体どんな事を語るのか参考にしたいところもある。
藍野はまず語ったのは右手で漫画が描けなくなったので、左手で漫画で描けるように努力したこと、メビウスの星も左手で描くこと……哲平もそれに合わせて後悔している失敗談として、コテージで慰安旅行に行ったら落雷事故に巻き込まれたことも話し、少し掲載するなら藍野編はこの時の話ぐらいで済むだろう。
そして遂に訪れた哲平編に対する質問。
「ホワイトナイトを作る上で……意識していることとは……?」
作者として当然触れることだろう、アイノイツキの思想やこれを作るまでの感覚、意識……昔ながら理解出来ずてんやわんやになって当たり障りのないことを言っていたかもしれない。
しかし哲平はこれまで4回もホワイトナイトのクライマックスまで独自に作ってきた、半分くらい自分の作品のように身体が反応している哲平はアイノイツキの魂を宿したように答えられる。
「ホワイトナイトを全人類の人たちに読んでもらい、喜んでもらうことです、その為に意識したのは、個性を無くすことで誰でも頭に入るように、嫌がる物が何も無いようにして、誰でも離すことなく中身を空っぽの透明の状態にして描き続けることが僕の現在に繋がりました」
「はあ……透明な作品、時に魅力になる部分を削いで……それを『面白さ』として諸刃の剣を磨いていると……それ、言ってよかったんですか……? これ漫画にするけど」
「もちろん、俺はもう既にメビウスの星も含めて最後までネームを描ききって、後はそれをペンで色付けるだけなので!」
「……はあ、そうですか、佐々木先生……そうですか、ありがとうございます」
遂に哲平はアイノイツキから始まった『透明な漫画理論』を世間に言い放った、彼女は未来で自分自身の振る舞いを語ったりしたのだろうか? しかし彼女も……それをこの時代で完璧に通している自分も、このやり方でホワイトナイトを大ヒットさせて数々のファンを作り出した。
こうして、哲平が来るまで不安視していたルポ漫画体験は無事に終わり、専門学校の時のようにスベらずに済んだ。
ルーシーは「貴重な体験をありがとうございます」とだけ言った後に、原稿のネームやメモを手に取って頭を下げて帰っていった、見た目にインパクトがあっただけで案外普通だっただけにちょっと拍子抜けだったが、トラブルもなく終わってよかったと思って……その日は普通に作業を終えた。
……そしてここからだった、哲平の雲行きが怪しくなってきたのは。
大和田ルーシー先生のルポ漫画で哲平の漫画への見方をジャンプを通して……ホワイトナイトを読んだことで『全人類』に対して伝わってから……。
──
こうして『メビウスの星』の第1話が無事に後継雑誌『ジャンプUP』に掲載され、読者の反響も上々だった。
時が止まった空間で積み上げた圧倒的な作業量、そして右手を使えなくとも左手でペンを握る藍野の執念。それらが実を結び、順調な滑り出しを見せたことに、哲平はホッと胸を撫で下ろしていた。
このまましばらくは大丈夫だろう……そう高を括っていた。
しかし、事態は彼の想像を絶する方向へと転がり始める。
それは、『メビウスの星』第2話のネームを、いつもの感覚で担当編集に提出した時のことだった。
「うーん……? これは、どう、だろ……?」
「えっ?」
担当編集が、パラパラとネームをめくりながら渋い顔を見せた。
「いや、つまらないわけじゃないんだけど……1話目のインパクトに比べると、少し説明が多すぎるというか。展開も地味だし、もう少しキャラクターの感情を立たせた方が読者がついてこれるんじゃないかな? チェックはしたのかな? 確かに2話はページ多めで行くけど……この調子がずっと続くと追いかけるのが面倒に感じる人も多いと思うんだ」
まさか。哲平の背筋に冷たい汗が伝う。
時が止まった空間の中で何作もオリジナル作品を描き上げ、自分の中で傑作と確信した『メビウスの星』。それが、連載開始早々のこの段階で躓くなど、微塵も思っていなかった。
いや、問題はそこではない。
哲平が止まった時間の中で作り上げた作品は、すべて最終回までネームを描き終えているのだ。
『メビウスの星』も例外ではなく、全86話という壮大なスケールで、すべての伏線が緻密に計算され、一つの巨大な物語として完成している。
特に第2話は、その壮大な物語の土台となり、様々な設定の開始点となる最も重要なピースだ。ここで展開を変えてしまえば、ドミノ倒しのように第3話も、第10話も、そして最終回に至るまでのすべてが辻褄の合わない破綻した物語になってしまう。
(直せない……! 直せるわけがない……!)
動き出した時間の中で、これほどの長編を一から練り直すことなど絶対に不可能だ。
「……い、いや! ここはこれでいいんです! この伏線が、この地味に見える描写が、後々絶対に生きてくるんです! 僕を信じてください!」
冷や汗を流しながら、必死の形相で食い下がる哲平。そのただならぬ気迫に気圧されたのか、編集は「……佐々木先生がそこまで言うなら」と、なんとか第2話をそのまま通すことに同意してくれた。
しかし、哲平の心には重い暗雲が立ち込めていた。持ち込みの時点で話の流れに謎の不和が生じ始めたのは、なんと『ホワイトナイト』も同様だったのだ。
「最近の展開、少し淡々としすぎている気がするんだよね。もっと熱い展開が欲しいというか……」
編集からのそんな指摘に、哲平は内心で首を激しく横に振っていた。
おかしい。絶対にあり得ない。
何故なら、今哲平が描いているのは、アイノイツキ版と全く同じエピソード。未来のジャンプで『名作』として語り継がれていた部分から、一字一句、一コマたりとも変えていないはずなのだ。未来の読者が熱狂したはずの完璧な物語が、なぜ今の編集に響かないのか。
『メビウスの星』の修正は不可能であり、『ホワイトナイト』の方も、今後のエピソードをこれまで通りに拾ってもらえるのかという強烈な不安が哲平を襲う。
そして、何の準備もしていない哲平に、全く想定外の大きな試練が容赦なく襲いかかった。
ずっと少年ジャンプを牽引してきた絶対的看板作品、『ホワイトナイト』の急激な人気低迷である。
読者アンケートの順位はみるみるうちに下落し、掲載順も後ろへと追いやられていく。
原因は明白だった。大和田ルーシーのルポ漫画だ。
あの時、哲平は不用意に語ってしまったのだ。
『個性を無くすことで誰でも頭に入るように、嫌がる物が何も無いようにして、誰でも離すことなく中身を空っぽの透明の状態にして描き続ける』
それは、哲平がアイノイツキから受け継ぎ、自らの体に染み込ませた『全人類に読ませるための究極の理論』だった。
しかし、読者は違った。
作者が意図して「個性を消している」「中身を空っぽにしている」という制作の裏側を知ってしまった読者たちは、これまで熱狂していた『ホワイトナイト』を、途端に「無難で人工的な、魂のない作り物」として見るようになってしまったのだ。どんなに完璧なストーリーであっても、その奥にある『透明な計算』が透けて見えた瞬間、読者の熱は急速に冷めていく。
結果的に魔法が解けた。
それはつまり、これまで『ホワイトナイト』を支え、様々な層に受け入れられていた者たちの、「ジャンプ離れ」をも意味していた……。
──
「なるほど、佐々木哲平大先生のピンチ到来ね……そりゃ大変なことだ」
「影生くん……あまり呑気なこと言ってられないよ、ここからどうやって巻き返せば……メビウスの星もホワイトナイトも両方なんて想定してるわけないのに……」
「未来でアイノイツキがルポ漫画に出ていたかどうかなんて分かるわけないもんなぁ、だって少なくとも未来のジャンプにはアイノイツキのインタビューが1つもないし」
哲平は唐突に描いていた作品2つの持ち直しという課題が振りかかる、ルポ漫画で言ったことはた出しかったのか? 漫画を作る上で気にかけてることや情熱を発信することは普通のことではないのか? 哲平はこれが初めての経験とはいえ、何かと読む側としても確認しているし……。
「哲平くんさ、『誰で読める作品』なんて言われたら……どう思う?」
「え? それは、取っつきやすくて分かりやすくて……本当におすすめなんだなぁってなると思うけど」
「実際そういう人もいるんじゃない? 個性豊かだし……けどその一方でこう思う人もいるわけ『お前はこんな頭空っぽの作品を面白いと言えるバカ』って」
「そ……それはあまりにもひねくれすぎた意見では」
「うん、実際ひねくれてると思うから極端な答えを出したしね……でもまあ、そうかもしれないってこと、メビウスの星は……まあ、選出間違えたんじゃない? 俺も知らないところでこんなに漫画かけたこと自体は凄いし」
「でもどうしたら……ただちょっと予定を直すだけで済まないぞ……? いや! メビウスの星はまだ時間があるとして、来週のホワイトナイトどうすれば……」
46話以降の哲平が考えた話ならまだいい、試行錯誤がまだ行き届いてなかったのだから想定の範囲内だ、たまからこそ5回も作り直した。
しかしまだそこに入るまで10話以上も猶予がある……何故だ? 何故ジャンプの象徴となっていたアイノイツキ版がここまで落ちるようなことがある? 焦る哲平を尻目に、影生は重く問いかける。
「もしかして何か勘違いしてるんじゃない? 迷走してたのは最期の45話からじゃなくて、下手したらずっと前からってこともあるかもよ?」
「そ……そんなわけ、それにしたってまだ30話ちょい……しかも俺の中では盛り上がり始めたところだぞ!?」
「いつ? いつホワイトナイトが盛り上がったの? 凄い設定はずっと見てきたけど結局は伏線作りと回収を繰り返しては新しいことにも挑戦せず同じことの繰り返し、それを表現力と才能で芸術にしたマジのバケモノがアイノイツキだよ」
「でもね、それは『最初に思いついた藍野伊月が特別凄いだけ』でホワイトナイトの面白さが無いんだよね」
哲平は影生の心ない言葉に押されそうになる、昔だったらここでへこたれていたかもしれない……だが今は違う、自分には力がある……あの止まった世界で描いてきた漫画が、無数の大作とホワイトナイトを何度もやり直してきた前例が!
「俺は……そうか、これから藍野さんだけじゃない、彼女の残したブランドも維持していかなくちゃいけないのか、印税の仕送りも止めるわけにはいかない……俺が、俺が……」
ここまで続けてきた責任感、伸びてきたスキル、無関係ではなくなってきた自分の藍野伊月との繋がり……哲平はもはや止まることはないだろう。
ネームをそのまま通しながら細かいところの修正に入る姿を影生は後ろから眺めるのみ。
「うーん……まあいいか、哲平くんがそれでいいのなら、俺は一応応援はしておくよ、でも敢えてこう言っておくよ」
「引き際はちゃんと考えておいた方がいいんじゃない? 哲平くんはさ、別に特別な人間ってわけじゃないんだから」
佐々木哲平は諦めない、しかし少年ジャンプにとって向かい風な出来事は止まらない。
現在のジャンプの古参、七篠権兵衛先生による『ビタミンマン』が、翌週に最終回までのカウントダウンを始めたのだった。