週刊少年ジャンプの編集部には、冷たい風が吹き抜けていた。
それは季節のせいではない。一つの時代が幕を下ろそうとしていることへの、畏怖と焦燥が入り混じった空気だ。
物語に終焉のカウントダウンが流れ始める……。
『ビタミンマン』。
七篠権兵衛によるその作品は、この2068年のジャンプにおいて、佐々木哲平の『ホワイトナイト』が現れるまで不動の看板として君臨し続けてきた。
10年以上の長きにわたり、雑誌の「顔」として読者を牽引してきた巨星が、ついに最終回へのカウントダウンを開始したのだ。
本来であれば、その穴を埋めるのは『ホワイトナイト』であるはずだった。しかし、今の哲平にその余裕はない。
「看板」という名の重圧が、今にも崩れそうな彼の肩に重くのしかかる。
それに追い打ちをかけたのは、あの大和田ルーシーによるルポ漫画だった。
哲平が語った「個性を無くし、中身を空っぽの透明な状態にして描き続ける」という創作論。彼はそれを全人類に届けるための究極の理論だと信じて疑わなかった。
だが、活字として、漫画としてそれが世に出た時、読者の反応は哲平の予想を真逆の方向へと裏切った。
「透明って……要するに、ただの計算通りの作り物ってことだろ?」
「魂がない。面白さまで人工的に感じるようになった」
それだけじゃない……今になって載った、あのルポ漫画がちょっとしてからジャンプに掲載された、それが何を意味するのか? それはこれからだということ。
「ホワイトナイトの人気が落ち始めたのは、あのルポ漫画の影響ではないのか……?」
それどころか、哲平や景生が危惧していたものを考えるともっと落ちることになるだろう。
SNSやアンケートから溢れ出すのは、魔法が解けたあとのような冷ややかな視線だった。
アイノイツキが本来持っていた「熱」を、哲平が「理論」という名の殻に閉じ込めてしまった。その不和が、掲載順の下落という目に見える形となって現れ始めたのである。
これまでの事を考えながら原因を考える、ホワイトナイトをアイノイツキ版からなぞって、未来のジャンプから断片的に把握できる物に過ぎないが、分かる事は掲載されていくごとの人気の勢いや影響力はこれでも本来の物より少ない……しかしこれは考えてみたら、こういう方向性の見方も出来る。
落ちる時の勢いは、アイノイツキ版を上回ってしまう?
こうして落ちる勢いを止められなかったら藍野の事どころではなくなってしまう……彼女が作画して公開されたメビウスの星を見ていると、自分のネームの頃とは全く別の作品のように感じられる。
「……藍野さんは、やっぱり凄いな」
哲平は、藍野伊月が左手で描き上げた『メビウスの星』の原稿を見つめ、独りごちた。
不慮の事故で右手の自由を失いながらも、執念で左手を克服した彼女。そのペンタッチには、哲平が時を止めた空間で何千日修行しようとも届かない「生」の躍動が宿っている。
彼女こそが真の意味で『ホワイトナイト』を生み出すはずだった、本物の天才。
その彼女を作画に据え、完璧なスケジュールで進んでいるはずの『メビウスの星』さえも、編集部からは「説明が多くて地味だ」と、第2話にして修正を求められていたのだが、藍野の手が加えられた途端名作の雰囲気になった。
(直せるわけがない。これは全86話で一つの完成図なんだ……! 時間的にも内容的にもこれがベスト! ここを変えたらもうそれはメビウスの星じゃなくなってしまう!)
本来なら第45話までは「アイノイツキ版」の貯金があるはずだった。だが、ルポ漫画というイレギュラーによって、未来の改変は哲平の想定を遥かに超えるスピードで進んでいた……おそらく、哲平にとっては悪い方向で。
「テコ入れ」──。
週刊連載において、順位が落ちれば求められる不可避の儀式。
しかし、未来の完成図をカンニングしている哲平にとって、安易な改変は物語全体の崩壊を意味する。
「……やるしかない」
哲平は、部屋に積まれた膨大な量のネームをまとめ上げた。
止まった時間の中で、血を吐くような思いで描き切った、全86話。
週刊連載の常識ではありえない、物語の最初から最後までを確定させた「設計図」のすべてだ。
哲平は重い足取りで、しかし眼光に決死の覚悟を宿して編集部へと向かった。
持ち込んだのは、一話分の修正ではない。
『メビウスの星』全86話分のネーム、そのすべてである。
「僕の言っていることが正しいかどうか……これを見て、判断してください」
机の上に叩きつけられた圧倒的な質量。
それは、偽物と呼ばれた男が、本物の天才・藍野伊月と共に、運命に抗うために積み上げた「罪と執念」の記録だった。
しかし、そんな哲平の前に帰ってきた試練のように待っていたのは……ホワイトナイトを載せるまで、長らくボツを束ねていた最初の担当編集、菊瀬であった。
「え……菊瀬さん? あれ、宗岡編集は……?」
「ああ、宗岡くんならそのまま藍野ちゃんの担当編集になったよ、その後釜として藍野ちゃんからの推薦でまた僕が君の相手することになっちゃったわけ」
「なっちゃったわけって……雪吹さんはどうなったんですか!?」
「ああもしかして知らない? 彼辞めたよジャンプ編集部、本当に忽然と……しかしまあそれはともかくだ、君はネームを持っていた、今回は連載が始まってると来た……ジャンプに載せるものだからホワイトナイトが売れてるからってまた遠慮なしに言っていくから……」
「……ってつもりで来たのになぁ!! 連載作品をバカにするようなことしてるんじゃないぞ!!」
読んですぐに読み切りホワイトナイトを連載会議寸前に持ち込んで激怒したとき以来の菊瀬の叫びが走り、あまりにも山積みのネームが飛び交う、しかしちゃんと漫画を見たうえでのコレなのでまだ冷静さは感じられる勢いだ。
「あ……あの頃よりはスキルも磨けたし、全人類が喜べる漫画……その一環としてメビウスの星を作ってきたんですけど」
「まあそれはいいよ、僕自身個性求めて君にも色々言ってきたし思想まで文句言う権利はない……ホワイトナイトがそれでピンチなのはまた別の問題として語るけど、今はメビウスの星……君自身の考えがあって全部持ってきたんだろ? この冗談みたいな量……これは本当に佐々木くんが描いたんだよね」
「え? はい……メビウスの星の問題点としては説明が多すぎると宗岡さんに言われて……しかし最初は受け入れがたいかもしれませんが、こうして宇宙全土まで規模が広がればピースが埋まっていくように」
「設定の広げ方はホワイトナイトの影響か上手くなってるんだけどね……僕の言いたいことはそんなんじゃない……君さ、何を勝手な都合で『86話』でピッタリ止まるようにしているの?」
「え……?」
菊瀬にとって問題なのはこの哲平の送り出した傑作メビウスの星が、ジャンプUPに86話も載せてもらうことを前提として設計したように持ち出していたことが身の程を知れとばかりに感じたという、連載の権利を作者が独占するように。
「君、ちゃんと他の作者のジャンプ漫画読んでるの? 無念にもアンケート取れなくて打ち切られた漫画がどれくらいで終わるのか知ってる?」
「さあ……えっと、20……くらいですか?」
「多くて18話の3巻想定、一度だけたった8話で終わった漫画もあるらしいけどアレは作者がギブアップした異例中の異例だからね……その場合君のメビウスの星が載ってる間4本くらい打ち切られる漫画がある、連鎖的に終わることもあるから実際はもっと多いだろうね……で、そんな中で面白くなる保証もないのに居座ろうなんて言ってるんだよ君は、ジャンプは慈善事業で君に漫画を描かせているわけではない」
こうして色々言われる姿を考えるとホワイトナイトが載る前を思い出す、何を描いても出すに値しない面白くもないありふれた者、魅力も何一つないと一蹴されていたが連載になるとそのハードルはさらに上がり続ける、それを毎週続けるという考えてみれば当然のことではあるが……。
菊瀬はSNSを開きながら、哲平の専門学校に行った時の記事を見せる……炎上しているわけではない、しかし冷笑系の格好の的にされているようだ。
「時間を止めて無限にある時間で目一杯描きましたねぇ……まさかとは思うけど、そんなつもり、つもりとしてメビウスの星を作ったの?」
「ええ……その、新しい連載を持ちかけてきたのでちょうどオリジナル連載も多数抱えて……」
「じゃあそれはメビウスの星を持ってきた君にも問題があるね、つまり誰にも軌道修正されないまま1人で突っ走ったのわけか、自己満足でも自己完結するなら趣味の範疇で許される、でも君の話を含めて読むためには何百円という金が動くことを忘れてない?」
「あまり調子に乗るなよ佐々木くん、君はホワイトナイトを爆発的に当てた、でもそれでわがままが許されるなんてことあるわけない……でもまあ、一応このネームは一度全部預かるよ、3話は返す」
「え!? 預かるって……」
「いやだって86話も僕は面倒見きれないから、コレ全部ホワイトナイトの時みたいに皆に見てもらって判断するよ……当然エピソードはざっくり要約してもらう、人気が変わらないならこれまでの評価加味しても……24話くらいにはなるんじゃない?」
「24話!? 半分以下でどうやって中身を解決させれば……」
「それ考えていくのが君と僕の役割だ、出したからには責任持って公開していくよ、ホワイトナイトについては……また別の日に見るよ、どうせ多分そっちも突っ走って山ほどあるなってわかったし、また別の日……ああ行っとくけど明日とか明後日はダメだから続き描いてね」
……この結果は良くなったものだったのか? 昔みたいにメビウスの星に対してひたすらダメだしされたように見える、前と違うのはこれでもまだ載せてもらえるチャンスがあること。
しかし86をたったの24まで圧縮する場合、面白くするためのポイントの大半が失われる。
それは重い腰を上げて、そろそろおじさんとも言われる頃合いの年になってきた菊瀬の身体が原稿を持ち上げた途端震える感覚で分かる。
その姿をまた別の原稿が持った編集者が通りかかる。
「え……菊瀬さん!? なんですかそのとんでもないネームの数!?」
「ああゴメン……ちょっと若い人呼んでくれるかな、2人くらい……」
菊瀬がメビウスの星のネームを持っていった先……ジャンプの売り上げを立て直すための対策部屋が建てられており、その計画の1つとして最近スランプ気味の佐々木哲平の巻き返しを図ろうとしている人たちの集まりがある。
本人にはまだ言えないがホワイトナイトという傑作を一度持ってきただけにここまで期待されている、仕事として落ち気味でもまだポテンシャルを信じているファンがこれだけいることを表している。
……が、そんな彼らでも桁外れに山積みのメビウスの星のネームを見たら冷や汗がくる、どうやって作ったのかより……あのホワイトナイトを作ったとされる佐々木哲平の新作がコレなのか!? という驚き。
「いや……これ何話なんです?」
「全86話、3話だけコピー取って返したけど本当にここまでまって完成形らしい」
「いや……86話って、週刊でも1年近くだぞ!?」
「しかもこれ……当たり前のように35ページくらい使ってないか? いや、確かにホワイトナイトは売れていた時にそれくらい使ってたけどそれはホワイトナイトだからで……」
「このままじゃ佐々木君にとってもまずいことになる、コンテンツショック以来ずっと引っ張ってくれた七篠先生がいつ帰ってくれるかも分からないんだからもう少し生きててくれないと困る」
編集一同は、たとえパンドラの箱を開けることになっても佐々木哲平のポテンシャルを引き出すため……許可をもらった上で大胆な行動に出ようとする。
哲平という存在をさらに深く穴に沈める無自覚な蟻地獄のように……。
『ホワイトナイト』の先の展開を頭の片隅で回しながら、哲平の意識は目の前の机に広がる『メビウスの星』のネームへと引き戻されていた。
全86話。それは止まった時間の中で、彼が血を吐くような思いで組み上げた巨大なパズルだった。
3話の時点で軌道修正を求められてもどこをどうイジればいいのか見当もつかない……1つピースを抜けば全体の構造が瓦解してしまうほどに、物語の道筋は強固に定まっていた。削ることも、曲げることもできない。
話を添削するという「普通の漫画家」がやるべき作業のやり方すら、今の彼には分からなくなっていた。
それは、『ホワイトナイト』の方も同じだった。
少なくとも、未来から送られてきた「アイノイツキ版」のストックが切れる第45話までは、未来のジャンプの通りに物語を模倣し続けなければならない。もし今ここで不自然なアレンジを加えれば、手探りで紡ぐことになる第46話以降への繋がりが完全に破綻してしまう。
未来の名作という確固たる存在が、重く冷たい鎖となって哲平の道筋を縛り上げている。
止まることも、曲がることも許されない。
そして何より哲平を苦しめていたのは、未来の『ホワイトナイト』を何度読み返しても「紛れもなく面白い」と感じてしまうことだった。
これは自分がゼロから生み出した作品ではない。だからこそ、客観的に見てもその完成度の高さが嫌というほど分かる。
(何が問題なんだ……? どこで読者の熱が落ちる原因になった?)
全く見えてこない。どう読んでも、誰にでも通用するはずの王道の面白さがそこにはある。ルポ漫画によって読者の色眼鏡が変わってしまったとはいえ、作品そのものの輝きは本物のはずなのだ。
『メビウスの星』の進まない修正作業と、絶対に立ち止まれない『ホワイトナイト』の執筆。
変えられない、いや「変えることが許されない」息の詰まるような1日の作業の流れの中、不意にスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、ジャンプ編集部──菊瀬からの着信だった。
「はい、佐々木です」
『ああ、佐々木くん。ちょっと確認のための電話なんだけどさ……君の部屋って、カメラを入れて公開しても問題ない形になってる?』
「え……? カメラって……大したことない、ただの散らかったアパートですけど……それが何か?」
電話越しの菊瀬の声は、いつになく真剣な響きを帯びていた。
『まだどうやら皆の意見としては君自身のブランドも、完全に捨てたものじゃないからね。出し惜しみしてる余裕もないでしょ?』
聞けば、ジャンプ編集部が主導となり、佐々木哲平の「特集番組」を組む企画が動いているのだという。
かつて『ホワイトナイト』で頂点を極めかけた若き天才漫画家・佐々木哲平。その仕事場に密着し、彼の作り出す漫画の裏側や、部屋に眠る膨大な『没ストーリー』を発掘するという名目の特番だ。
読者の間で広がる「人工的」「魂がない」という冷ややかなイメージを払拭し、泥臭く漫画に向き合う姿を見せることで、人気回復の起爆剤にするという編集部側の狙いがあった。
哲平は息を呑んだ。
それはつまり、あの時が止まった空間で何百日もかけて描き上げた狂気的な量のネームたち──『メビウスの星』の全86話や、その他の膨大な作業の痕跡を、全て世間に解放するということを意味する。
しかし、断る選択肢などなかった。現在の目に見えて落ちていく掲載順や、突き返された『メビウスの星』の状況を考えれば、どんな手段を使ってでも妥協している場合ではないのだ。
「……分かりました。大丈夫です」
『よし、じゃあ近いうちに僕らと撮影スタッフが下見に行くから。よろしく頼むよ』
通話が切れた瞬間、哲平は弾かれたように立ち上がった。
今日はもう仕事どころではない。即座にアシスタントたちを帰し、アパートへと駆け戻る。
テレビカメラが入る。それはつまり、部屋の隅々までを見られるということ。
念入りに掃除をしなければならない。ただ綺麗にするだけではない。この部屋には、絶対に誰にも見られてはいけない「真実」が隠されているのだから。
(未来から送られたジャンプ……!)
電子レンジの裏、押し入れの奥底。哲平は冷や汗を流しながら、未来の「アイノイツキ」が描いたジャンプを厳重に隠匿していく。これが万が一にでも映り込めば、特番どころか、彼の漫画家人生、いや人生そのものが崩壊する。
そして、掃除の手を動かしながら、哲平の脳内にはある一つの強迫観念めいた決意が形作られていた。
カメラの前で「天才・佐々木哲平の努力の結晶」として膨大なネームの山を披露するのなら、中途半端なものは見せられない。
(やるしかない……!)
これからやるべき事は一つ。
カメラが回るその日までに、前もって『ホワイトナイト』の残りのストック──第45話までの全てのネームを完璧に作成し、現実の作業ペースの帳尻を合わせること。
未来の鎖に縛られているのなら、その鎖ごと自分の力でねじ伏せて、完璧な「佐々木哲平の作品」として偽装し切るしかないのだ。
これはあくまで、藍野を救うために……そう信じて必死で徹夜になって全てのネームをアイノイツキ版から佐々木哲平版に上書き作業していく……これがテレビに出れば、ホワイトナイトは全てが哲平の作品になる。
この辺りで哲平は一時的に休載してもらい、今回は企画を仕掛けたのは編集部の方なので許可も貰って休みを貰い……と言ってもこの休み中にも漫画は描き続けた。
もはや哲平の人生には『漫画を描く』ことしか象徴として残されていなかった。