佐々木哲平の未公開作品を発掘する特番の撮影当日。
カメラクルーと共に哲平のアパートに足を踏み入れた番組スタッフたちは、一様に息を呑み、言葉を失った。
「……佐々木先生、これは……本当に全部、ご自身で描かれたんですか?」
ディレクターの震える声が響く。狭いアパートの空間は、床から天井に至るまで、夥しい数の原稿用紙とネーム、設定資料の束によって完全に侵食されていた。足の踏み場すら辛うじて確保されている状態である。
それはもはや「仕事場」というより、紙で構築された異様な「巣」だった。
「ええ……まあ。時間がある時に、ひたすら手を動かしていたので」
哲平は引きつった愛想笑いを浮かべながら、あらかじめ用意していたセリフを口にする。
隠し通さなければならない未来のジャンプは、すでに厳重に封印済みだ。カメラのレンズは、彼が「天才」であるという偽装を裏付けるための、この狂気的な紙の山だけを舐め回すように映し出していく。
番組の進行は、哲平の想定以上にスムーズだった。
山積みの中から引きずり出された『メビウスの星』の構想ノートやネームの数々。
さらには、少年ジャンプの枠に囚われず、他誌への持ち込みも視野に入れて作られていたと思われる多種多様なジャンルのプロットたち、ジャンプに出すだけでもメビウスの星以外で4作品はある。
哲平が自ら多くを語らずとも、番組側が勝手に
「これほどの引き出しを持っていたのか」
「休載中もこれだけの準備をしていたとは」と深掘りし、彼を悲劇の天才から一転、泥臭く努力する求道者として持ち上げていく。
そして遂に、カメラはある一つの巨大な地層に行き当たった。
それは、ボツ案の山。
時を止めた世界で、哲平が血を吐きながら何回も何回も作り直した『ホワイトナイト』の無数の原稿だった。
『この没案の量を見てほしい。何度やり直しをしても決して妥協しない、佐々木哲平の漫画家としての異常なまでの執念を感じる、ホワイトナイトには最終回が既に4つ存在している』
後日の番組の放送時にはそんな仰々しいナレーションとテロップが乗ることになる。
それは、少年ジャンプの根底に流れる「友情・努力・勝利」の精神そのものを視聴者に体感させる、最高にドラマチックな演出だった。
若き天才は、決して傲慢などではなかった。見えないところで誰よりも汗をかき、己の作品と戦い続けていたのだ、と。
だが、その実態は美談などではない。
最終的に100話以上に渡る物語の、未来のストックが切れる第46話以降。
哲平はそれを、表現を変え、形を変えながら5回以上も根底から作り直していたのだ。
藍野伊月が求めていた「透明な物語」の正体を探り出し、なんとかそれを自分の手で形にするために、才能のない己が、未来の天才の模倣に追いつくために……。
ただひたすらに時間を消費して編み出した泥臭い迷走の痕跡。
周囲の人間がそんな真実を知る由もない。
彼らの目には、アパートの部屋の一部を完全に占領するその巨大な紙の束が、天才の計り知れない努力の結晶にしか映っていなかった。
——ただ一人、菊瀬を除いて。
部屋の隅で腕を組み、その異様な光景を静かに眺めていた担当編集の菊瀬は、積み上げられた『ホワイトナイト』の没ネームを手に取り、パラパラとページをめくっていた。
彼は哲平がデビューする前の4年間、新人時代のどうしようもないネームを延々と読まされ続けた男だ。『ホワイトナイト』という神懸かり的な連載が始まってからは一度担当を外れたが、今こうして再び彼の原稿と向き合っている。
先日、持ち込まれた『メビウスの星』全86話を読んだ時に感じた、あのぼんやりとした違和感。
それが今、何回も作り直された『ホワイトナイト』の没案を時系列順に追っていくことで、菊瀬の中でハッキリとした輪郭を持ち始めていた。
(……なんだ、これは)
菊瀬の脳裏に、かつてコンテンツショックで消失する前の少年ジャンプに掲載されていた、ある伝説的なバスケットボール漫画のワンシーンがフラッシュバックする。
恰幅の良い指導者が、かつての教え子のプレイを見て静かに、そして残酷に脳裏に呟く名台詞。今まさに、この状況を完璧に表す言葉。
『まるで成長していない……』
菊瀬は、手に持ったネームの束を見つめながら背筋に冷たいものを感じた。
確かに昔とは違う。様々な文献を読み漁ったのか、設定の作り込みや世界観の広げ方、宇宙全土にまで至る情報量は圧倒的に増えている。
手先の技術も、画面の構成力も、経験を積んだなりの発展は見えている。
だが、漫画の「核」が。
キャラクターの魂を動かし、読者の心を揺さぶるために必要な、漫画を創るための根源的な力が……驚くほど、昔から何も変わっていないのだ……当然だ、おそらくこの間にも描きたいものがない、全人類を喜ばせたいというのは変わってないのだから。
この没案の山は「より良いものを求めて洗練させていった」結果ではない。
正解が分からない人間が、手当たり次第に乱れ撃ちをして、偶然的に正解の形(アイノイツキの思考)に近付こうと足掻いただけの、果てしない徒労の記録。
これは『ホワイトナイト』という傑作をゼロから生み出した人間の非常に論理的な思考プロセスとは、決定的に矛盾している。
知る由もないことだが、哲平が時が止まった世界で一人漫画に向き合い続けた時間は、およそ1500日分。
それは奇しくも、菊瀬が担当編集として、才能のない佐々木哲平の読み切りネームに付き合い、ボツを出し続けた新人時代の4年間とほぼ同じ時間だった。
永遠にも等しい時間の中で、哲平は知識を詰め込み、技術を模倣し、物理的な作業量をこなすことはできた。しかし、彼のクリエイターとしての本質的な部分は、菊瀬が突き返し続けていたあの頃から、一歩も前に進んではいなかったのだ。
「……佐々木くん」
菊瀬の微かな呟きは、テレビクルーの喧騒にかき消されて誰の耳にも届かなかった。
やがて撮影は終了し、佐々木哲平の「狂気的な努力」を収めた特番は、全国の電波に乗って世間へと放たれる。
これが彼の人気を復活させる起爆剤となるのか。
それとも、膨大な紙の束に隠された「空っぽの真実」に気付く者が現れるのか。
哲平の全てを曝け出した原稿が世間にどんな反響をもたらすのか——それはまだ、誰にも分からない。
しかし菊瀬は……帰る前にあのレンジの前に紙切れが落ちていることに気づく、砂鉄が張り付いて文字になっている、奇妙なものだ。
……その異質さから、哲平には見せず持ち帰る。
当然中身を後になって藍野に見せるためだ。
──
ここから編集や調整も入るので実際のオンエアはもう少し後になるが……これで哲平の見る目が少しは変わるのかもしれないことを期待しながらスタッフが帰った後、テレビに出るはずなのに完全に気配が消えていた影生が姿を見せる。
「つまり貯めておいた切り札を使うカタチになったのね、まあそうか……どんどん後戻りできなくなっちゃうねー哲平くん」
「元から俺は、振り返るとも道を変えることも考えてない……俺がこの世に送り出すんだ、ホワイトナイトという傑作を……」
「2078年より勢いに差があるのに?」
「それでもだ」
絵柄も違う、勢いも違う、合っているのは中身だけ……いや、中身が一致しているのだからそれでいい……のかもしれない。
何にしてもまた首の皮1枚繋がることになる、このために使うことは想定してなかったが……アイノイツキを救うどころではなかったのでやむ無し。
「あ、それで言ったらその藍野から留守電残してるんだけど」
「え」
留守電にメッセージを再生すると……確かにそれは藍野の声だった、履歴からして撮影中に残されたものだ。
『お返事はいつでもいいので……あの、休載もらったんですからたまには休みませんと、そこで……えっと、前は佐々木先生が私を家に入れてくれたので……私の実家に遊びに来ませんか?』
「え!? 藍野さんの家に!? 確か高知県になかった!?」
「そもそも藍野ってどうやって高校行きながら東京の仕事場行ってるんだろうね、中退とかしてないといいけど」
「縁起でもないこと言わないでよ……しかし、藍野さんの家か……」
少し死の源流に対する余裕も出てきた、家に入ることが出来たら、彼女に死の危機があるなら……家に行ってみたい。
また影生に留守番を頼み、藍野の住む高知県へといざ……!
ちなみに蓮やダザクも誘ったのだが、二人ともこの休載の間にやりたいことがあるといって欠席したので結局哲平と藍野の二人だけで向かう事になり……。
「到着しましたー!! 私の家!」
なんやかんやで、哲平は流れるまま家の前まで来た。
高知県にある藍野伊月の実家は、長閑な風景の中にあって一際目を引く、立派な佇まいをしているのがすぐに分かる。
藍野伊月の実家は、高知ののどかな田舎町にありながら、そこそこ大きめで周囲の家々より明らかに存在感を放っていた。
白壁に木の梁がアクセントになった、どこか昔ながらの趣を残しつつも手入れの行き届いた佇まい。
哲平は門の前で軽く息を整え、藍野の明るい声に促されるまま玄関をくぐった。
「ただいまー! お母さん、佐々木先生連れてきたよ!」
家の中は意外に広く、廊下の奥からすぐに藍野の母親が顔を出した。
四十代後半くらいに見える、穏やかだが芯の強そうな女性だった。彼女は哲平の顔を見るなり、わずかに目を見開いた後、すぐに深々と頭を下げた。
「佐々木先生……この度は、いーちゃんが大変お世話になっております。本当に、ありがとうございます」
哲平が何か言葉を発するより先に、母親はそう言って頭を下げ続けた。
藍野が慌てて「ちょっとお母さん!」と止めに入るが、母親は手を振って娘を制し、哲平を居間とは別の静かな和室へと導いた。
藍野は「すぐ戻るね」と言い残し、母親の指示で一旦自分の部屋に戻された。 二人きりになった和室で、母親は改めて座り直した。
「いーちゃんにとって、少年ジャンプは……本当に、切り離せない存在なんです」
彼女は静かに、しかしはっきりと語り始めた。
幼少期から伊月は漫画に夢中だった。絵を描くことに憧れ、他の何よりも作品に没頭し、途中から学校へ行くことすら億劫になってしまった時期があったという。家の中で一日中机に向かい、
時には夜通し描き続ける娘を心配しながらも、母親は止めきれなかった。
だが、『ホワイトナイト』が連載され始めてから、娘の様子が明らかに変わった。
人が変わったように行動的になり、漫画以外の世界にも目を向け始めた……。
あのコテージの慰安旅行で右腕を負傷した時も、左腕だけで描くことを諦めず、必死にリハビリに励む姿は、母親の目にも痛々しくも誇らしかった。
「全ては……あの作品から始まったんです。でも……本当のところは、まだ誰も知らない。あの子自身も、きっと全部は分かっていないと思います」
母親の表情が少し曇った……そして、藍野家で起きている「奇妙なこと」について話し始めた。
ある日、家の前に大量の現金が入ったバッグが置かれていたという。送り主は不明。
警察に届けたが、一定期間が過ぎれば所有権が藍野家に移る手続きが進められているらしい。伊月は「そんな大金、急にどうしたものか……」と今も困惑を隠せない様子だったという。
(……あれは俺が送ったやつ、受け取ることはなかったのか……)
哲平は胸の内で苦く舌を打った。
あのバッグは、ホワイトナイトの印税を藍野伊月に還元しようと、影生の力借りて匿名で送ったものだった。しかしそれも結局、うまく行き届かなかったらしい。
さらに、母親は漫画に関する話に移った。
「いーちゃんがまだ小さかった頃、突然信じられない量の少年ジャンプを持ち帰ってきたんです。あの子が漫画を描きたいと思ったきっかけも、その頃です」
哲平の背筋に、冷たい記憶が蘇った……藍野がアシスタントになったときに語った、漫画家を目指したきっかけ。
——この近くの公園で、文字通り「存在が消えたはず」の2040年代以前の少年ジャンプを、全て売っていた謎のおじいさん。
コンテンツショックで失われたはずの過去の名作たちが、そこにあった。
あの時哲平自身も一瞬関わった記憶があるが、その先のあまりの出来事の数々に記憶の底に沈んでいた。
未来のジャンプが存在するように、過去のジャンプもまた、未知の謎として残されていたのだ……それが未来のジャンプが送られてきたことに関係すると思って……しかし今振り返れば、未来人とはあまり関係のなかった出来事ではあるのだが。
母親は哲平の顔をじっと見つめ、しばらく沈黙した後、ゆっくりと立ち上がった。
「……佐々木先生を、信用します。伊月があそこまで信頼している方なら」
彼女は和室の奥にある、大きな南京錠で封印された押し入れの前に哲平を連れて行った。鍵を外し、重い引き戸を開ける。
そこにあった光景に、哲平は息を呑んだ。 押し入れの奥深く、天井近くまで積み上げられた大量の少年ジャンプ。黄ばんだ紙の束、懐かしいロゴ、表紙を飾る伝説的な名作の数々——コンテンツショックでこの世界から消失したはずの、過去の全巻に近い量が、そこに揃っていた。数冊や数十冊ではない。ほぼ全て。この一室に。
「……これが、あの子があの老人からもらったものです。あの子は大切に、ずっと持っていました。私も、触れることすら躊躇った、捨てようとしても……あまりにも貴重すぎる情報だからって、お金を送ってきている人はこれが狙いなんじゃないかって」
母親の声は震えていた。 哲平はゆっくりと一冊を手にとってページをめくった。
そこには……名前だけは聞いたことのある伝説の作品、しかし触れた途端に分かる、ホワイトナイト以上の『ワクワク』を脳裏に叩き込まれるハチャメチャのアドベンチャー……当時の世代なら恐らく涙者の、『DRAGON BALL』と呼ばれる漫画が載っていた。
藍野伊月が未来で描くはずだった『ホワイトナイト』の参考とも言えるような、しかし完全に別ルートの展開をした初期の名作の面影の数々が、確かにあった。
──
「あのジャンプ無くしたのだとばかり思ってましたけどお母さんが隠してたんですか!? ……も、元々そういうのに厳しい人ではありましたが」
「え!? 俺が話した時はそんな風に見えなかったけど……」
哲平はすぐに藍野に報告するとすぐに読みたいとばかりに食いついてくる、あれだけの時間があってまだ全部を読んだわけではないらしいが、おそらくそれだけで時間が過ぎてしまう勢いだ。
「あのジャンプは読まなかったの?」
「全部は読んでないうちにお母さんに隠されたかたちですね……あのお爺さん、もう少し大人になってから読み始めたほうがいいと言っていたのでそれを守ろうと……それにえっと……もみじみたいな名前の恋愛漫画を試しに開いて、その過激さで鼻血噴いて封印したこともあって」
「そりゃ俺もそのおじいさんと同じ立場なら止めるよね……教科書でしか見たことないけど初期の1990年代〜2010年代のコンプラがヤバかったとか聞くし」
しかししみじみと語っているがとんでもないことだ、
突如として人々の記憶に残ったまま消えたコンテンツ……その内の1つ、一角が何の変哲もない家に全て残されている。
そもそも何故そのおじいさんは持っていたのか、何故藍野に託したのか? その答えはもう分からないが……これはとんでもないことだ。
「佐々木先生、ちょっとしばらくジャンプ読んでていいですか? せっかく家に招待したのに……」
「ああうん気にしないで、後で俺も読むからさ」
もしこれを編集部に伝えたらどんな反応をするのだろうか? ロストメディアと呼ぶにはあまりにも多すぎるこの作品の山……しかし、これまで自分達より以前から全人類を喜ばせて感動させてきた作品が現実に帰ってきたのだ、夢じゃない……何もかも現実。
どれだけ歓喜するものが現れるのか……それと同時に守らなくてはならないものも増えたし、やはり死の源流が見えてきた。
「……あり得るな、あのジャンプ目的で藍野さんの命が狙われるということも」
アイノイツキは天才漫画家にして数奇な運命に幾度となく巡り合わせているようだ、死に繋がりそうな要因やきっかけがあまりにも多い。
真実を公表すればショックで筆を折るかもしれないと思っていたが、逞しすぎてこの程度ではヒビすら入らないような気もしてきた。
だが少なくとも今は作画担当として相手をしている、元の歴史だって10年先になってようやく連載を掴み取っているんだ……時間的に余裕はある?
いや、ネタに関してで言えばここからどんどん溜め込む、少年ジャンプのレジェンド達を参考にしてより画期的な作品を作れるようになるだろう。
今は少し休もう……せっかく休載を取ってもらったんだ、たまには休んでみよう、寝よう……。
そうして夢を見たとき……またあの空間に来た、未来人と話したときのあの空間。
しかし雪吹の姿はなく……代わりのようにあのロボットの玩具、サンダーくんがいた。
雪吹は元々『代理』と言っていたのであれが未来人の本体……? いや、依代というべきか。
何にしても夢ならまた会えた、こっちから呼んだことになるのなら、今は伝えたいことを伝えよう。
「ありがとう、藍野さんを救うってことはまだ上手くいくか分からないけど……結果的に、俺の人生は変わったし、自分の中で満足のいくものを目指せるようになった、だから責任持って藍野さんは俺が救うから」
サンダーくんは一通り話を聞いた、その後モールス信号のように目がチカチカと光り……別れの挨拶のように感じた。
もう未来人は来ない、雪吹がやるべきことを代わりに実行して……彼も顔見せに来たのだろう。
『お前……何か……』