まだ、この「過去のジャンプ」を藍野から取り上げるわけにはいかない。
編集部にこの事実を伝えることはいつでもできる。だが、そんなことをすれば瞬く間に世間の注目の的となり、ロストメディアの大規模な発掘として歴史的な大騒ぎになるのは火を見るよりも明らかだ。
途端に彼女も、彼女の家族も、そしてこの静かな家さえも、好奇の目と悪意に晒され、計り知れない危険に巻き込まれることになるだろう、それこそ命を失う要因に簡単になってしまう。
なるべく誰にも悟られないように、彼女の安全を最優先で守り抜く。それが今の哲平に課せられた新たな使命だった。
今後のことについて言えば、特番を通して『ホワイトナイト』の膨大なネームや没案を編集部が一通り見てくれたおかげで、今後の展開や流れについては格段に話しやすくなった。
天才の苦悩と努力という文脈が、彼らの中で勝手に出来上がっているからだ。
しかしその代償は大きかった。
溜め込んでいたオリジナルの原稿やプロットも全て世間に公開してしまったため、番組の放送後、それらの一部エピソードが「ジャンププラス」で特別公開される運びとなってしまったのだ。
あれらは全て、いつか来る連載用の弾として──『メビウスの星』同様に、最初からあの完成された形で作ることを想定して綿密に描いていたものだった。それをここで全消費してしまうのは、哲平にとって非常に痛手であった。
だから……また新しく描くしかない。
アパートの空間を埋め尽くし、これ以上原稿を置ける場所がなくなって、形にできず頭の中だけで終わっていったネタも山ほどある。
かつてのように、時が止まった空間で何千日も好きなように長く描けるわけではない。あの奇跡のような猶予は、もうこれ以上は望めないのだ。
藍野の部屋を借りて机に向かいながら、哲平は思考を巡らせ、そして一つの極端な方向性へと辿り着いた。
それは、これまで思いついたあらゆる作品群も、『ホワイトナイト』以外の公開されている没プロットも、頭の中に眠る未消化のネタも、全て──たった「一つの作品」へと統合し、形にするという狂気のアイデアだった。
『メビウスの星』の制作を通して哲平が痛感したことは、決めていた話がたやすく崩壊することへの悪循環を通して漫画という生きた媒体において「突然の方向転換にも即座に対応できる柔軟性」がいかに重要かということだった。
ならば、初めから全てのネタをひとつの巨大な器に詰め込み、物語の道筋をいくらでも分岐できるようにしておけばいい。
連載中にどんな問題が起きようと、読者の反応がどう転ぼうと、あるいは藍野の身にどんな危機が迫ろうと、いくらでも軌道修正し、どんなジャンルの話にも対応できる構造。
方向性がバラバラのキャラをどんな風にも動かせる、個性的に見えるようで実際は無個性……。
それは菊瀬がかつて看破した、哲平の空っぽの本質──藍野伊月が求めていた『透明な物語』を、さらに異次元のレベルへと進化させたもの。
読者や時代の需要に合わせて、まるで軟体動物のように自らの形を無限に組み替え、変幻自在に適応し続けるバケモノ、いやマガイモノのような作品。
ここまで来ると、もはや人間の発想を遥かに超越した、ただの机上の空論、あるいは正気の沙汰とは思えない狂気のアプローチに思える。
だが、哲平は確信していた。1500日という永遠にも等しい時間を泥臭く足掻き続け、凡人なりに全てを漫画に捧げてきた「今の自分」になら、それだけの作品を構築できると。
『メビウスの星』は、自分が最初に想定していたよりもずっと短く終わってしまうかもしれない。だが、そこから途切れることなく、自分はすぐにこの規格外の作品を世に送り出す。
どんな困難が降り掛かろうとも状況に応じて形を変え、必ず藍野伊月を救う兆しを掴み取るための、最強の盾であり剣となる物語。
その新たな漫画のタイトルは──。
『ANIMA』
佐々木哲平は魅入られている、気まぐれな神とまがい物の肉体で出来た怪物に、例えるなら北風と太陽に吹かれる道端の旅人のように……。
哲平が自らの新たな修羅道を見出していたその間にも、藍野伊月は失われていた過去のジャンプの海に深く深く潜り込んでいた。
凄まじい集中力でページをめくる彼女の前で、あっという間に時間が溶けていく。
一つの物語が終わりを迎え、また新しい才能による新連載が産声を上げる。時に荒削りな読切が掲載され、それが時を超えて洗練された連載となって帰ってくる……。
完結と新連載の絶え間ないサイクル。過去の天才たちが鎬を削り、全人類の心を震わせてきた熱量の奔流が、藍野の手を一切止めさせない。
しかし、そんな彼女にとっても、運命の大きな転換点となる決定的な「瞬間」が、ページを開いた先に現れた。
それは『過去の少年ジャンプ』の歴史においても、一つの巨大なうねりが終わりを告げる、あまりにも象徴的な号だった。
藍野伊月は、静かに息を呑み、その重みを感じながら一冊のジャンプに手を伸ばした。
──社会現象とまで呼ばれた伝説の作品、『鬼滅の刃』の最終回が掲載された号に。
──そうして休載期間も終わり、哲平が『ANIMA』の第1話のネームが完成して、しばらく世話になってもらっていたが、そろそろアパートに帰ろうという感覚になり藍野を探す。
「藍野さん、そろそろまたメビウスの星の作画を……」
「あっ、続きはそこに置いてあるのでそれを渡しておいてください」
……新しいネタを見つけて、彼女も雰囲気が変わったのか? ジャンプを読み切った彼女の姿は……本当にまた見違えていた。
天才はいくらでも強くなれるから天才でもあるのか?
オーラが違う、自分を見ている目つきが何か恐怖すら感じるくらいには威厳を感じる……。
色んな乗り物に乗って、仕事場の東京まで向かう最中にも
「そんなに面白かったんだね、昔のジャンプ……余裕が出来たら俺も読んでみたいな……なんて」
「佐々木先生がですか? ……そうですね、結構疲れますよ?」
「それはまあ確かに、俺も藍野さんに比べたら年は取ってきたしこれくらいになると好きなもの見るのも大変だけど……ほら、俺が生まれた頃ってコンテンツショックとか縁がないし、少年ジャンプって実際はどんな話なんだろうなーって」
「そんな中で佐々木先生はジャンプに載せたいって思ったんですか?」
「え? まあ師匠がジャンプ作家だし、その頃から皆の意見では、漫画雑誌と言えばジャンプって風潮だったし……」
「そうですか、佐々木先生は……自分が大勢に見てもらいたい環境が少年ジャンプだったってだけなんですね?」
「……最初はね、俺も他を見てる余裕なんてなかったし、でも最近は他の雑誌に向けて作った作品とかもあったんだよ? まあそれもあの番組で全部消えちゃうことになるけど」
「そうですか……そろそろ着きますね」
「ああ」
またいつも通りの仕事と日常が戻ってくる、願わくば藍野のこんな日々がずっと続くように努力し続ける。
哲平なら出来る……きっと、今回の経験を通して大きく生まれ変われた自分なら、己の罪を背負い、藍野と共に未来に進むと信じて。
それから哲平はアパートに戻ると……いよいよあの電子レンジと冷蔵庫を近いうちに処理することを決めた。
タイムマシンを離すことになるのはもったいないかもしれないか、哲平から未来に送ることは全く出来ない一方通行なので持っていても仕方ない。
片付けをして影生に久々に再会する。
「おおー、なんか人として大胆になったんじゃない哲平くん、中身は進歩してるか分からないけど」
「ひとこと余計だよ影生くん……さて、明日からまた連載に向けて頑張らないとな、そういえばそろそろ俺の番組公開されたんじゃないの? ホワイトナイトを全人類に届けたいという俺の思いを本格的に伝えてくれる、ジャンプ編集部も俺のことをよくわかってたみたいだ……」
「ああうん、その件なら問題ないよ、伝えられたという意味では……だって視聴率はその辺の長寿番組並み、海外にも転載されて伝わったみたいだよ」
「そんな規模で!? じゃあ本当に全人類に俺の漫画が……」
「でもね」
あまりにも哲平にとって嬉しいビッグニュースを伝えているにしては、かなり冷静に淡々と述べている、元々感情表現に乏しい存在ではあったのだが、それを含めてもなんだかいつもと違う雰囲気だ……。
「全人類に見せたあと、それをどうするのか、どう考えるのか、何をやりたいかは個人の別ということを理解しておくんだったね」
哲平にメールが届くがそれを見ている余裕もない……
「なんだ……俺が向こうで描いている間に何が起きておた?」
未来から藍野伊月の漫画を盗作し、
一人だけ時が止まった世界で自由に原稿を書きなぞり……
巻き込まれた形ではあるものの、彼は人知れず大きな罪を背負いながら、一人その責任を果たして藍野の思いを守る……そう決心していた。
しかし哲平は何か大きな勘違いをずっとしている。
罪の償い方も、その報いも……罪を背負った本人が決められるものではないことを。
罪の重さを視覚するには、落ちる必要がある。
……落ちる前に、事前に登っておく必要がある、ジェットコースターの始まりのように。
そして一度降りたら、まばたきすら出来ない……。
静まり返ったアパートの部屋に、無機質なスマートフォンの着信音がけたたましく鳴り響いた。
画面に表示された名前は「宗岡」。担当編集である菊瀬は別件で席を外しているのか、あの人が代わりにかけてきたようだ。
電話に出た瞬間、スピーカー越しに伝わってきたのは、普段の温厚な彼からは想像もつかないような、ただ事ではない焦燥と混乱の入り混じった声だった。
「さ、佐々木先生ッ……! 今すぐ、ネットを開いてください! いや、落ち着いて聞いてください……大変なことになってます!」
言われるがままにPCを開き、検索エンジンに自分の名前を打ち込んだ哲平は、画面に並んだ異様な光景に息を呑み、そして血の気が引いていくのを感じた。
それは、哲平にとって一発逆転の巻き返しとなるはずだった、あの「未公開作品を発掘する特番」がもたらした最悪の末路だった。
世界中に拡散され、転載されたその番組の映像 。そこから切り取られた哲平の引きつった笑顔や発言、有志によって面白おかしく作成された自身の痕跡のまとめサイト。
さらに『ホワイトナイト』や『メビウスの星』の印象的な台詞、そしてテレビに映った没ネームの展開を元にして作られたパロディ「構文」が、SNSのタイムラインを濁流のように埋め尽くしていた。
それは、これまで少しずつ増えていたアンチによる批判的な意見などという次元を遥かに超えた概念。
佐々木哲平という存在は、遂に完全に【ネットミーム】の領域へと足を踏み入れてしまっていた。
つまらないだけの作品ではこんな現象は起きない。
元々「天才」として名が知られ、熱狂的な人気と期待を集めていたからこそ、それが急降下で墜落していく様が極上のエンターテインメントとして消費されているのだ。アンチとは一線を画す、無責任な大衆による「巨大なオモチャ」に成り下がっていた。
だが、もちろんそれだけの事で、編集部が血相を変えて哲平に電話をしてくるわけがない。
とんでもない一大事件が発生していた。
「誰の仕業か、どのような手段を用いたのか、現在警察も動いて調査中ですが……今回の番組でカメラに映った、あるいは局がデータとして一時保管していた先生の原稿、ネーム、設定資料の全種類全話。それら全てが、海外のサーバーを経由して転載されました」
「……え?」
「今、ネット上で誰でも、先生の未公開原稿が全て読める状態になってしまっているんです……!」
消そうにも一つ一つの作品のエピソードがあまりにも多すぎる上に、世界中への拡散ペースの方が遥かに上で、もはや誰にも止めることが出来ないという。
考えなしに詰め込んで長いエピソードにしたツケが理不尽な形で襲いかかった。
その中には、時を止めた世界で哲平が血を吐きながら五回以上も作り直した『ホワイトナイト』の最終回までの没案の山 や、『メビウスの星』の全話 までが含まれていた。
いや、それどころではない。致命的なデータまでもが流出していた。
テレビのカメラに対して未来のジャンプの存在を隠蔽するため、辻褄合わせで作成していた現在から『第45話』までの、本来のアイノイツキ版のエピソード群 ……アレまでもが、全て転載されてしまったのだ。
それはつまり、作品の完全なる「死」を意味していた。
未発表の『メビウスの星』も、そして『ホワイトナイト』さえも……今後の展開が全て流出してしまったことで、もはや商業作品として続きを作ることが不可能になってしまった。
特に『ホワイトナイト』の流出段階は、今現在の哲平が連載で描いている進捗を遥かに超えているどころか全てだ。
藍野伊月が10年後に作り出すはずだった真の傑作も、ましてや哲平があの永遠にも等しい時間の中で足掻いて作ってきた作品たちも、これによって完全に『誰のもの』でもなくなってしまった。
ネットの海に漂う、ただの無料のデータと化してしまったのだ。
「編集長も頭を抱えています……。この状況では、『メビウスの星』は良くて無期限休載。……ほぼ確定路線なのは、打ち切りによる連載終了です。たった3話で……」
宗岡の絶望的な宣告が、哲平の耳の奥で反響する。
自分が全ての罪を背負い、一人で責任を果たして藍野の思いを守るのだと、そう決心していた。しかし、罪の償い方も、その報いも、罪を背負った本人が勝手に決められるような生易しいものではなかった。
かつてないほどの高みへと登らされたジェットコースターは、今まさに最高到達点を越え、瞬きすら許されない速度で、真っ逆さまに地獄の底へと落ちていく。
哲平の視界が理解を拒み、ぐにゃあと歪んでいくのが感じられるし影生もそれを見ているが……なんとか思いとどまる、今の自分はまだ終わってなんかいない。
自分にはまだ『ANIMA』がある、自分の作品が全部無駄になったわけではない、自分というブランドを互いに軽はずみに扱っていたからこそこんなミスを招いてしまったのだ、何もなくなりかけた今だからこそ自分は再起できる! 諦められない! 藍野さんだって諦めてない! まだ自分はやれる! どんなに泥臭くても足掻いてあがき続けて自分のマンガを投稿して、全人類に……。
「でもさ、良かったんじゃないの哲平くんにとって?」
影生は今までにない重い雰囲気で、哲平に対して手紙を渡してくる。
ホワイトナイトの時にも沢山のファンレターが描かれていたし、熱心なファンが何人かいるのは覚えている……そのうちの1人からだ。
中を開いてみると……そこにはメッセージが簡潔に。
『これで全人類に喜んでもらえる漫画になれてよかったですね! 佐々木先生は沢山の人に見てもらえるならそれだけで充分な人ですから!』
その言葉に悪意が込められていたのか、あるいはこれが慰めのつもりなのか……? しかしその言葉を聞いて哲平は無視することも出来ず心に深い痛手を負う。
なぜなら、その言葉はずっと哲平自身が自身の思いを伝えるために人々に伝えてきた物そのものだったからだ……。
これを否定すれば、いよいよ世間に公開してきたものを無下にしたとして炎上することになり、自分自身のアイデンティティさえも崩壊しそうになる。
『え!? 新作描いた!? 冗談言わないでください! こんなときに新しい作品作ったところで佐々木先生は何になるんですか!』
「あれ? どうした、おかしいな哲平くん……罪の十字架を背負うはどうした?」
「俺は……何も、ホワイトナイトの盗作という罪がいつか糾弾されることは考えていたけど……ホワイトナイト自体がこんなことになって、俺がこんな……」
「なんで罪の償い方を哲平くんが勝手に決めているの?」
「俺は……俺はどうしたら……?」
「さあね、元々君が勝手に突き進んで、君が一方的に考えて歩いた物語だ、今更振り向くこともないんだろう? だったら歩きなよ、それで崖から身を投げることになっても」
──
「シエルさん……やりましたね?」
「なんのことだ? 私もあの番組は見ていたが直接指示はしていない、佐々木哲平を直接蹴落す理由もないしな」
そして藍野も同じ頃に哲平に起きていた惨状を知るとすぐに白革県からシエルを呼び出す、こんな事が出来るのはホワイト・レボルシオンぐらいと踏んだからだ、こうしてすっとぼけているがシエルの仕業か本当に分かったものではない。
しかし藍野にとって非常に大きな収穫もあった……。
「シエルさん、実は私これで本当にインチキみたいた答え合わせですが……佐々木先生がどうやって盗作したのか、何をしていたのか全部わかっちゃいました」
「例のコンテンツショックで消失したはずのジャンプが見つかったそうだな? となれば、やはりあの老人が奴なのか? いや、その場合は既に撤退しているか……」
だがシエルにとって気になるのは、その真相を藍野が知ったところで世間に告発してもどうしようもない、何故なら既にホワイトナイトを取り戻すとか、そういう次元ではなくなってしまった、公開されたものも含めてもう完全に藍野のものではないし、藍野の決めたストーリーで作ることもできない。
「ホワイトナイトのことはもう忘れようとは思ってたんですけど、佐々木先生の杜撰さと本当に全人類喜ばせたい『だけ』だったんだなーという気持ちで溜まってくるものがあって……いえ、かつては私も同類でした、だからこれは八つ当たりです」
「私は……例えるなら、佐々木哲平という人物が主人公とするストーリーの『ラスボス』になります」