透明な名作は止まらない。描いたそばから続きが浮かんでくるような常軌を逸した状態に没入し、気が付けば佐々木哲平がこの静止した世界で作り出した『ホワイトナイト』は500話にまで達していた。
前回の失敗から軌道修正を図り、以前とは作風を変化させながらも「全人類を喜ばせる話を作りたい」と執念を燃やし続けた結果、物語は400話を優に超える長大なエピックへと変貌していたのだ。
しかし、影生から告げられた「制限時間がいつになるかは絶対に分からない」というルールが、常に彼の背筋を凍らせていた。
いつ現実世界に引き戻されるか分からない。だからこそ、哲平はいつでも最高のクライマックスを迎えられるよう、ある「策」を練ることにした。
脳裏をよぎったのは、大昔に見たあるニュース記事だ。かつて人気漫画の作者が、物語の核心に触れる情報が記された紙を箱に入れ、海底へと沈めたという伝説めいたエピソードの都市伝説。
「これだ……!」
この静止した空間であれば、誰の目にも触れず、外部から干渉されることもない。疲労も空腹も存在しないこの世界では、息継ぎの必要すらなく、海に向かってひたすら歩き続けるだけで生身のまま海底に到達することが可能だった。
哲平は自らが考え抜いた『ホワイトナイト』のとびっきりのラストの設定を記した紙を宝箱に入れ、厳重に鍵をかけた。そして、音のない暗い海の底へとそれを沈め、再び膨大な時間をかけて地上へと帰還した。
万全の備えを終えた哲平は、ひたすら『ANIMA』と並行して新作を作り続ける作業に戻った。
今回は、前回の「原稿の山で物理的な保管スペースが足りなくなる」という問題に対する明確な解決策を用意していた。それは、ネーム状態で放置するのではなく、時間をかけてでもすべてペン入れまで終わらせて「漫画」として完成させることだ。
本来なら一人では時間は圧倒的に足りない。しかし、疲労がないこの世界なら、一人でペン入れから仕上げまで全てを行うことができる。
さらに哲平は、この空間の「自分が触れたものだけ時が動く」という法則を利用した。
印刷機に手を当てて強制的に稼働させ、刷り上がった原稿を自らの手で製本し、コミックスの形にすることで、前回よりも遥かにコンパクトにまとめることに成功した。
これを機に哲平は大型の本棚を新たに購入し、思いついた作品を一通りその中に収納していった。これにより、以前よりも格段に多くの「中身」を作り出し、保管することが可能になったのだ。
──二度目の時間停止から、早くも200日が経過した。
『ANIMA』に加え、次々と湧き出たオリジナル連載作品によって、ついに3台目の大型本棚が埋め尽くされた。
だが、ここにきて哲平の筆が、ピタリと止まった。
行き詰まりである。
ネタを思いつく際の勢いが、以前に比べて明らかに落ちていた。
人間の創作活動というものは、無限に続けられるものではない。
それは時代変化への適応や、肉体的な体力の問題以前に、「時が経って作れば作るほど、発想力そのものが枯渇していく」という平等に訪れる残酷な真理によるものだった。
何千日も休息を必要とせず、24時間ほとんど漫画にかかりっきりで活動していた哲平の脳は、言うなれば「充電器に繋げたまま重いアプリをフル稼働させ続けたスマートフォン」と全く同じ状態だった。バッテリーは熱を持ち、処理速度は低下し、やがて限界を迎える。
元々、己の中から湧き出る「中身」が乏しい作品ばかりを作っていた哲平の脳は、度重なるオーバーワークの末、ついに悲鳴を上げようとしていたのだ……!
一方その頃。
「ちょっとリアルな夢」として、一日五時間だけこの静止した世界を訪れている藍野伊月は、哲平のそんな地獄のような苦しみなど知る由もなかった。
互いに触れ合うことも、姿を見ることもできないという絶対的なルールの中で、彼女はこの不思議な夢の世界を、驚くほど満喫した使い方で謳歌していたのだった──。
──
一度、視点を藍野のものへと遡る。
哲平に起きた数々の問題によってホワイトナイト、メビウスの星は休載……下手すればそのまま打ち切りというとんでもない危機の上、あれから仕事場のデスクには哲平が来ることは無いために……デスクに待機しているアシスタント達は退屈しており、ダザクも毎日寝ているわけにはいかなかった。
「あのさ、僕一応お金稼ぎに来てるんだけどここ最近ずっと何もしてなくない?」
「何もしてなくはないよ、俺が作ったゲームを暇つぶしにやったり、藍野さんの漫画見たりとか」
「それ佐々木先生の仕事じゃなくなーい? 僕も食費がそろそろまずいんだからさあ、ちゃんと仕事させてもらわないと困るんだよねー」
ダザクは哲平がいないことをいいことにダラダラとした振る舞いを隠そうともしない。
藍野はそんな時でも漫画を書く手を止めず、連載に向けて自分だけの作品を作ろうとしていた。
「藍野さんって佐々木先生の家に行ったことあるんだよね? どこか見てない?」
「いえ……私もここ最近変な夢を見るようになってから佐々木先生の姿はめっきり見かけなくなってしまって……」
嘘である、藍野は実のところ哲平が何をしたのか『展開的に』なんとなく理解している。
何が起きているか分かるからこそ、察するものがあるので手を打つ……藍野は、あの日に哲平のラスボスになると誓ったのだ。
「ねえ蓮さん、創作で盗作はご法度ですが……タイトルがたまたま一致してしまうってことありえます?」
「え? まあ……タイトルぐらいならゲームでもありふれた名所ならよくあるしなぁ、何々ファンタジーとか丸々モンスターとか……もしかして参考にしたいものが?」
「はい、私でも全部パクるということはしないんですが、参考にしたいジャンプ作品があったのでタイトルをちょっとモチーフにしようと思って」
その話を聞いて興味深そうに二人が眺めてきたので、藍野は誘い込むように……元にしようと考えているそのタイトルを口にする。
「タイムパラドクスゴーストライター……」
──
そしてそれから……時間が少し遡る。
佐々木哲平が果てしない時間の中でひたすら漫画を描き続けている間、藍野伊月はこの静止した空間をどのように過ごしたのか?
自分以外の周囲のものが完全に止まっているという状況は藍野の目線から見ても同じだった。1日のうち、彼女がこの夢の世界に居られるのは体感でたった5時間である。
しかしこれが、単なる「少しリアルな夢」などではなく、何度か同じ光景を繰り返したことで何かしらの異常な現象であると自覚してからは、彼女の行動は大きく変わった。
まず、哲平と同じように様々な本を読もうともしたが、彼女は決して「全て」を読破しようとはしなかった。
本を読むこと自体は、現実の時間が進んでいる中でも多少は可能だからだ。
それに加えて、かつて大物漫画家の資料で「ネタを参考にするときは、マンガ以外にも最も色んなところに目を向けろ」と語っていたのを覚えていたからである。
1日のうちの5時間という制限の中で、藍野はまず「この世界だからこそ出来ること」を試した。
この奇妙な世界での1週間……藍野はまず、近くの店のバックヤードや飲食店の厨房など、普段は関係者以外立ち入れない場所へと足を踏み入れた。
そこから更に段階を踏んで、警察署や消防署といった公務員たちの施設を巡り、最終的には立ち入るだけで危険が伴うような場所にも積極的に足を運んだ。
最終的にはマグマに落ちて「ウ"ォ゙ッ!!」というじゅわっとした悲鳴と共に強制起床したこともあるが夢なので何の影響もない。
「空間に入る」ことを試した後に彼女が実践したのは、「持つ」ことだった。
百貨店に向かい、普段なら絶対に触らないようなものを握り、見慣れないものに直接触れてみる。実際にそれを使って何かをするわけではなく、ただ純粋に触り心地や重さを確かめるだけだ。
『道具』と一口に定義付けても、そこには様々な物がある。普段なら安易に持つことすら許されない刃物や、厳重に保管されているような武器類も(安全を十分に考慮した上で)、その感触を直に確認することができた。
その道具を手に持ち、どんな風に使うのかを実際にシミュレーションし体験することで、頭の中にあるイメージの解像度がほんの少しでも上がるような気がしたのだ。
そして更に段階を踏んで、彼女は「乗る」ことを試した。
この止まった世界ではエンジンなどの動力は機能しないため、動かせるものはせいぜい人力の乗り物や、遊園地に置いてあるような足漕ぎの車ぐらいであった。
しかし、動かせなくとも問題はない。彼女は港に停泊している巨大な船、工事現場の重機、さらには空港の飛行機といった、普段は外から眺めるだけの巨大な乗り物の中に入り込み、そのスケール感や内部の構造を目に焼き付けた。
1日5時間。何十日もかけて、藍野は静止した世界で色んなことを実際に試した。
だが……彼女はこの体験を、そのまま漫画に描き起こすことはしなかった。
静止した世界での見聞だけでは、まだ実際に作品として表現するには心許ない、いびつな形だったからだ。それを読者の心を打つ「鮮明なリアリティ」へと昇華させるには……。
目覚めて、現実に帰る必要があった。
藍野は現実世界での残りの時間、つまり「全ての物が動いている生きた時間」の間に出来ることを徹底的にやった。
幸いにも、今の彼女には潤沢なお金がある……かつて佐々木哲平が彼女の家に送り続けていた、『ホワイトナイト』の莫大な印税だ。
最初は気味悪がっていたその金も、全てが仕組まれた盤面の上での出来事だと意図が理解できた今なら、存分に使える。
ちょうど身元不明の落とし物として警察に届けられていた期間が過ぎ、所有権が完全に藍野家に移った時期でもあった。
藍野家にとっても、出処の怪しい大金をいつまでも家に残しておきたくないという思いがあったため、彼女は遠慮なくその資金を投入した。
夢の中で得た「静止した解像度」を、現実の「動く解像度」へと変換するための徹底的な取材と実体験。そのために、本来なら10年後までかかっても使い切れないような勢いで、彼女はその資金を湯水のごとく消費し、自らの漫画の血肉へと変えていったのだ。
「もももももも」
現実世界のお金はダザクや蓮と共に存分に浪費する、いろんな店で珍しいものを食べたり、旅行したり、遊んだりしてその時間を青春のように使う。
もちろん学校にも行って、授業はリモートで受けた後……改めて楽しむ。
リサーチに関しては問題ない、前もって夢で見て良さそうなところを見当しておいて、そこに行けばいい。
ダザクも蓮も付き合ってくれるのはいいのだが、途中から印税を一気に消費することはいいのか? と考えるようになるが、それに対して藍野は本当に必要なものなら回収しない方が悪いし、渡したいのなら玄関に置いていくような怪しいやり方をするほうが悪いという形で使っていった。
……何より、哲平を見つけるためでもある、アレから各地を飛び回っているのにもかかわらず彼の姿はどこにも見えず、遂には行方不明者用のサイトで募集をかけて捜索届まで出されている。
彼はまさか、時が止まった世界で行き詰まっているなんて夢にも思わないだろう。
藍野はこの間にも夕食を新しくできたばかりのカレー屋さん(これも夢で前もってリサーチしたもの)で食事しながら今後の事を考える。
明日は何を楽しもうか? 何を体験しようか? 旅行の予定も山ほどあり、引きこもっていたとは思えないほど行動力の化け物となっていた。
「そういえば君、透明な漫画はもういいの? 随分個性的な漫画描くようになったけど」
「まだあきらめたわけじゃないですよ? ただちょっと、やりたいようにやってみたいって思っただけで……」
「でも実際……僕はこれでよかったと思うよ? 仮の話になるけど、新商品のパンダカレーというものがあるとする、普通のカレーと並べて置いてあったら頼むよね?」
「まあ……実際どんなものか気になるかな?」
「うん、なんか実際気になって頼んでみるかも」
「それでパンダカレーを定期的に食べてくれたり、カレー店の常連になってくれたなら万々歳だよね? 僕もこの味好きだし……売るのはそっちでやってくれるから、僕らは好きに作ればいいんじゃない?」
漫画がどう人気になるのかは作者にも完璧にコントロールできない、全2巻で終わってしまう無念の中でも読者からは非常に惜しまれて何年も愛されることもあるし、全11巻も売れた作品が数年後のセールで一気に日の目を浴びて一躍話題になる事例だってありうる。
自分がやることは……ただ、自分の作品を表現して作り上げること、それに藍野は過去のジャンプを通して数々の名作を読んで分かったことがある。
過去のレジェンド達は自分の思想に反してバチクソに個性的で、それを国民的としてスタンダードのように売り出してきた。
一つ一つが癖強だったがそれを不思議と気にしなくなる強みが存在して……見ているだけで引き込まれる、藍野はそんな作品に憧れるようになったのだ。
「それでその『タイムパラドクスゴーストライター』ってどんな話なんだ?」
「すごく親近感を感じる話だったんですよ! ある日突然、少年ジャンプが……」
蓮とダザクは言葉が詰まる、こうしてすらすらと語っている藍野のマンガの内容が……これまで彼女が哲平絡みで体験している事によく似ている。
そう……藍野は偶然にも辿り着いてしまったのだ、自分の起きている事象が一度コンテンツショックによって消失した、2020年代のとある漫画を軸にして真似をしていた事、この漫画を全話見た事で『ホワイトナイト』に何が起きたのか、自分が何故哲平と接触して、自分がどうなるのか……最後にどんなものを見せてくるのかまで予測できるくらいには理解した、それだけ漫画を真似していたのである。
もちろんコテージでの自身の怪我など存在しない物もあるが、大筋が同じなのでもう確定事項として藍野は見ている。
(佐々木先生……貴方、本当にあの作品の通りなんですね、無意識? 誘導された? どちらにしても……貴方はそういう軸で動いて、あの作品の通りの流れでいい感じにまとめてもらう予定だったんですね)
藍野は知っている、哲平がいないのはあのエピソードのように時を止めた中でマンガを描き続けているのだろう。
そうなれば自分はただ待つのみ……もしかしたらすぐにでも戻ってくるだろう、間隔さえ彼と一緒ならば。
しかし彼女も大人しく待っているつもりはない、何故か自分も少しだけそれに近い夢を見れるのであればそれを存分に利用した上で……彼にとってのラスボスとなって最後に立ちふさがる。
(勝負です佐々木先生、貴方があの空間でどれだけ強くなれるか、どんな漫画を作るか楽しみにしてますよ……)
(なーんちゃって、私本当は全部わかっているんですよ? ANIMAの事も、先生が描いている物も)
──
そして視点を戻して哲平の方へ戻すと……彼の方は現在も緊急事態が続いていた。
2度目の時間停止から2000日経過。
ネタが枯渇しながらも神経を研ぎ澄ませて続きを作り、精神的に苦しさが生まれながらも漫画を考えて……疲労感が無いので頭にぽっかりと何かが欠けたような感覚が残り続けて、ページを描く速さが落ちたような感じがする。
「疲れないだけで……ちゃんと休んだほうがいいのだろうか?」
哲平は初めて本格的にペンから手を離し、気分転換に外を歩く。
もはや見慣れた動かない雲、まるでミニチュアや特撮セットのようにその場を動かない自分以外の空間。
何かリラックスできるようなものはないのか……何も思いつかないので、思い切って自由に草原の上で寝転がってみることにした。
睡眠も必要ないのでここで寝ても時間を消費するだけ……するだけだ。
だが時間があるという感覚だけがある哲平はちょっと休むつもりが15時間もその場でポケーっと横になっていたらしい、驚いて空を見るが夕方にも夜にもならないので時間感覚が狂いそうになってくる……。
しかし休息も必須、万が一時間が戻った時に感覚が狂ったままでは生きることさえもままならなくなりそうだということで身体を立て直すために少しずつトレーニングや休息を取る日々を送った。
……少しずつ身体を休めて、感覚を取り戻して……。
冷静になってきたところで、哲平は恐ろしい事実に気付く。
……自分はいつ、この世界から出られる?
影生くんは2回目の時間停止はいつここから出られるかを哲平が自由に決めることができないと言っていた。
それは言ってしまえば……状況としては何千日経っても終わらないことだって普通にありえてしまう、下手したら……千で終わらないのかもしれない。
久しぶりにアパートに帰ってみると見慣れないメモが置いてあったが、文字を見ただけで騒然とする。
だってそれは……動いていないはずの藍野からのメッセージだったから、夢の中で5時間いるとはいえ、藍野からすれば哲平がここにいることなど知らないはずである。
しかし手紙にはこうある。
『目覚めた先にある最終回で貴方を待ってます』
これは、明らかに時が止まった先に自分がいることを把握している。
それだけじゃない……目覚めた先? 時がかなり経過することを想定している、こんな本まで残しているのだから。
「5億年……ボタン……?」