モノクロームの残像のような世界が……哲平の中に広がっている。
世界がまた一変し、止まっていた時が暴力的な速度で動き出したその裏で、佐々木哲平もまた見知らぬところで人間の領域を完全に踏み外していた。
これまで彼は漫画家になるために上京し……全人類が喜ぶような漫画を作りたいと願い、落雷事故から奇妙な運命の歯車に巻き込まれた。
透明のように美しく圧倒的な傑作を作り上げ、世に送り出してから……そこから本当に多くのことがあった。
時間を止め、孤独の中で何千日も漫画のネタを考え続けたこともあったし、数々の失敗と成功を経験し、まるで異世界にでも行ったかのような奇妙な体験の果てに、何回も人生をやり直したような、果てしない充足と疲弊がそこにはあったのだ。
しかし、時が巻き戻った瞬間に訪れた反動は、藍野伊月のように赤子へ……そしてマイナスの年齢へと肉体を逆行させるものとは全く異なっていた。
哲平の身体は、ずっとあの25歳のままで維持されていた。肉体が縮むような変化は一切ない。
だが、決定的に奇妙な異変がそこにはあった。
すぐ先の遠くにある青空だけは、確かに鮮やかな青として見えている。しかし、それ以外のすべてに「色」がないのだ。
ふと自分の手や身体を見下ろしてみても、本来あるはずの肌色や衣服のカラフルな色彩は完全に消失していた。目に映るのは、極端な白と黒のコントラストだけ。
「えっ、えっ、ええ──ーっ!?」
動揺しながら少し手を伸ばし、身体を動かしてみる。すると、青空だった景色がぐるりと回り、周囲の状況が立体的に見えてきた。
そのとき、自分のすぐ側を光を反射する「何か」が通り過ぎる。
まるで巨大な鏡のような、あるいは自分を映し出す水面のようなもの……いや、よく見ればその反射する物体よりも、自分自身のほうが遥かに小さいのだと気付く。
そこに映し出されていたのは、驚くほど平面的で、徹底的に色が排除された自分の姿だった。
それは例えるなら白黒のペン入れとベタ、そしてスクリーントーンのドットだけで表現された……まぎれもない「漫画のキャラクター」としての佐々木哲平だった。
周囲の景色もすべてが線画で描かれており、外側から見れば、まるで紙のような特有の質感が漂っている。
自分は──あの『ホワイトナイト』の世界に閉じ込められている。
いやそれどころか、哲平自身が『ホワイトナイト』の単行本そのものと一体化し、現実という大きな空間の中で、ぽつんと浮いているかのように存在しているのだ。
これには明確な覚えがあった。
あの時が止まった世界に、あまりにも長く居続けたことへの代償。
漫画を作り出すために特定の閉ざされた世界に何百回何千回と滞在し続けた結果、彼自身の存在そのものが世界と融け合って境界線を失い、漫画という概念そのものに変質してしまったのだろう。
今の自分は……意志を持っている「漫画の本」らしい。
これが死んでいる状態なのか、それとも辛うじて生きていると判断していい状態なのか、哲平にはもう判別がつかなかった。
ただ、本という形状の中に自分の意識が確かに宿っていることだけが理解できる。
哲平の感覚としては、自身はこの本の中に描かれている漫画のコマのどこかに存在している、という認識だった。
だからといって、本全体を意のままに自由自在に動かしたり、他の物質と融合したりするような超越的な力は使えない。
ただ重力を無視して、ふわふわと空間に浮かんでいるのが関の山だった。
そして、さらに不気味だったのは、その漫画の内情だった。
表紙や絵のタッチは確かに『ホワイトナイト』のそれであるはずなのに、ページの先を開いてみても、ストーリーが先へと進んでいる形跡が全くないのだ。
それどころか、何十ページ、何百ページとめくられる空間のなかに、哲平以外のキャラクターが誰一人として見当たらない。
まるで物語が作者の手を完全に離れてすべてが終わり、何も残っていない焼け野原のような状態。
そこからぽつんと、哲平という異物だけが後から現れたかのような、恐ろしいほどの静寂と虚無が広がり続けている。
ひとつの時代を狂わせた透明な漫画は、もう二度と誰の手にも付けられることがないかのように、ただそこにあった。
この漫画で出来た世界から外へ出ることはできない。単行本となった哲平の身体は、宙に浮いたまま、完全に締め切られた誰もいない部屋の中から抜け出すこともできず、ただ漂うことしか許されなかった。
これが……今現在の、佐々木哲平の姿だった。
神のごとき理不尽な強制力によって、赤ん坊へと姿を変えながらも反逆のプロットを練り続ける天才・藍野伊月。
そして、時を止め続けた代償として、自らが紡いだ漫画そのものへと姿を変え、静寂のなかに取り残された漫画家・佐々木哲平。
動き出した2068年の過酷な現実の中で、二人の運命は、全く異なる形の「人間辞職」という結末を迎えていた。
「……これから俺、どうしようか」
しかし違うところは、やるべきことがある藍野はともかく哲平はこれからどうすればいいか全くわからない。
漫画のキャラクターならまだしも、漫画そのものになったところで何をすればいいか分からないし、何より話は何一つ進まない孤独な空間、ある意味あの止まった世界と変わらない景色ではあるのだが……本格的にやりたいことがない漫画の背景のような燃え尽き症候群になっていた。
そして……今度こそ、自分は完全に一人になってしまった。
ここから先どうすればいい? そもそもこの姿を人に見せられるのか?
「連絡するとしても……菊瀬さんか蓮くんぐらいか? 藍野さんの方も……」
……しかし、哲平はスマホを止めた。
この漫画越しの空間では電波が繋がっていないのではないのか?
それだけじゃない、万が一繋がったとしてもだ……この漫画としての姿を見られたら一体どうなる? 怯えられて焼却処分か? それとも封印されて一生出られなくなる?
そもそもこの漫画が破損するようなことが起きたら自分はどうなる? 一緒に死ぬのか? 出られるのか?
分からないうちは慎重になったほうがいい……最悪何もしてなくても死ぬことはない、死ぬことは……。
「……本当に、そうか?」
考えても見ろ、この空間は安全が保証されたシェルターなんかじゃない。
外の世界にも危機が数多く存在する、今回のような落雷……以外にも様々な災害、それに巻き込まれるようなことがあれば、この身体では逃げ切る事もできない。
考えろ、今自分に必要なものはなんだ……?
自分はこれからどうすればいいのか? 途端に彼は独自の環境を持ちながら周囲の目線を気にし続けなくてはならない舞台に送還されているような形である。
本がちょっと浮いたからといって、こんな狭いところで何をすればいいのか……。
「あれ……手紙がある」
だが、ちょっと移動してみると影生の文字で何かが描いてある……まるでこれに備えて、最初から書き起こしておいたかのように。
そこには……あまりにも衝撃的なことが描かれていた。
『やあ哲平くん、もし君がこのメモを読んでいる、あるいは読めるとするなら……異世界を作る事には成功したが世界に反映されず、君が蚊帳の外、あるいは失敗したと見ていいだろう』
『まあ多分、いくら哲平くんがアレだとしてもさ、主人公として最低限何かしらは出来ているはずだから、まず失敗とかはないと見ている、これはそんな君に対するプレゼントだ、創作をする上でここまで最適な空間は存在しないだろう?』
『君の役割はこれで終わり、物語もここで新たな段階に進む! 君をここまで活かし続けてよかった!』
『ありがとう! 本当にありがとう! とびっきりの物語を送ってくれた君に心からの感謝を』
『冥道影生より』
それは……影生からの正真正銘の別れの言葉であり、現在の状況をプレゼントといって贈っているようだ。
何を言っているんだ? 意味が分からないが……考え直して哲平はなんとか考えて……これが、彼にとって理想の理想だというのか?
何にしてもこれが善意で与えたものだというのなら、それこそ困惑しかできない……だって、ほぼ漫画の姿のまま何も出来ないのである。
ほぼ人間としての力を失って……まさか、自分がこの場所で創作しろというのか? こんな空間で書き続けるのが、彼の理想だというのか?
死ぬかも生きるかも分からないこの場所で漫画を描き続けろ? これが自分の役割だというのか?
もう充分だ、満足したというよりはそれ以外にやりたいことがあるかもしれないし……これ以上自分に何を望む? これで終わるのだろう? 影生は満足しただろう?
藍野は生きているんだろう? ホワイトナイトはちゃんと人々に喜んでもらえただろう? 漫画家にはなれただろう?
やりたいことはやった、もう満足した、全部自分の中で解決して、もう漫画家を続けなくてもいいくらいには停滞している、さっさと平凡に戻ってもいいくらいだ。
「もう充分だ……もういいんだよ俺は!! もう全人類が喜ぶ漫画を描けたし、それが全部あちこちに出回って……罪の十字架だって背負う覚悟はしたけどそれはあくまで人間として受け入れる物で!! 普通こんな形なんて想像出来るわけなかったんだ!」
「せめて人の形にしてくれ!! 俺は人間なんだ!! こんな漫画の世界で孤独に生きる登場人物なんかじゃない!! 影生くん来てくれ!! 俺を助けてくれ!! ここから出して……!!」
哲平の叫びは影生まで届くことはないということに気付くまで……結構かかった。
そして結論まで至るのも結構かかった。
最初から影生は……自分の事を仲のいいルームメイトじゃなくて、そのまま本が生き物になったような、ただの本の形をした宇s黄なように動かす存在程度にしか認識していなかったのではないか?
彼にとって役割を終えてしまったのだから、取り繕う事さえも辞めた結果が……これか?
そうやって物語が終わって、また新しい物を始めるために古い物は取り残されて……終わる際に残る物は果たしてなんだ? 虚無ではない、紛れもなく形として残っている自分はこれからどうなる、影生に見捨てられて、世界に取り残されるような形で自分は……。
「……そうだ、異世界! 影生くんは異世界を作れたが俺が入れなかった可能性もあるって言ってたな!! そっちの方に行けば……」
そうして、哲平は漫画の中で動いた……ひたすら、異世界があることを信じて漫画という狭い空間で進み続けた。
可能性としてはホワイトナイトのページの更に奥まで走り続け……そうやって、期待しながら異世界を辿るように走り続けた。
走れど走れどいい方法が思いつかない……。
(いや……待てよ? ここは漫画の世界、俺しかいない、もう既に俺一人だけのホワイトナイト、だったら……)
まだ異世界が完成していない可能性だってある、なら哲平はそこに繋がるものを作ってしまえばいい……特に自分は今、ひとりでに動き出す漫画本というもう既にファンタジーに足を突っ込んでいる概念的な存在だ。
だから……できるかもしれない、造作もなく!
佐々木哲平のもしかしたら最後かもしれないとびっきりの漫画制作が開始する……!
かに思われていたのだが、どうにも上手くいかない。
ペンを持つことは出来る、絵を描くことも出来る……しかし、これからどうすればいいのか分からない。
なんてことはない……ガス欠を起こした、180年、いや……その前の1500日分を含めてもう何度も頭をフル回転しているのだ……思考力は既にパンクしており、いくら時間があっても脳の動きだけは止まらず稼働していたことは変わらない為……遂にぽっくりと動かなくなってしまったわけだ。
生活する上では支障はないが深く考えることは出来ない……同じだ、藍野伊月が落雷事故に巻き込まれて、右手が漫画を描けなくなるくらい負傷したあの時……!
(あの時藍野さんはそれでも執念で左手で描いたけど俺には無理だよ! どうやって頭の代わりを見つけて漫画を描けばいいんだ!!?)
描くための部位ならともかく欠けているのは思考力、それをどう解決させればいいのか分からないし、それをどうやって果たせばいいのかを考えるだけの脳みその回転さえも難しい。
こんな時には2度、3度でも奇跡に期待するしかない……凡才だった彼はあまりにも恵まれすぎたというよりは、意図的に与えられすぎたことで、まるで中毒症状のように都合のいい展開に飢えてしまっている。
そしてそれに答えるように……あるいは、物語の最後の手向けのように『奇跡』は起きる。
影生からのプレゼントのように、またアパートに眩い閃光……そう、三度目の落雷だ。
しかし、1度目の時でさえアパートを貫いて電子レンジを火の海に変えたくらいには脆い場所だった上に、一度落雷が当たって元よりボロボロになっていたのがもう一度振りかかる、そして極めつけにはこれまでの時間停止2回で尋常じゃないほどの原稿や本を詰め込んでいる……はっきり言って本でも山ほどあれば重たいものなのだ。
たった一つの落雷は、部屋を上から潰すように叩き落とされて……これまで2回目で作ってきた漫画が全部焼き払われるように吹き飛んでいくが、それは見えない。
問題はそれが直撃した単行本の方だ、落雷が直撃したことで凄まじいほどのエネルギーと着火が彼を襲……ってはいないが、漫画の方は緊急事態になっていたことは確かだった。
「うわあああああ!!? なんか良く分からないけどなにか起きた!?」
漫画の世界も少しずつ黒く塗り潰されていく……それは焦げているのか世界が崩壊しているのか分からないが、とにかく哲平が望んだ形かどうかはともかく奇跡は起きた。
その奇跡によって今彼は火の海になっているわけだが。
「よ、よし! よし! 多分よし! 後はこのまま何をするかだが!!」
火の玉になった哲平漫画はそのまま飛び回ったことで各地に飛び火……それはつまり本格的に部屋に火事が回り始めてどんどん火の手が上がっていくが哲平は気付かない。
しばらくすれば自分も出られるかもしれないというところで、雨のような滝のような物が上から降り注いで漫画を貫通し、流れるように世界が少し溶けていく……インクが少し染みたようだ。
そして、意識は途切れ──。
──
「佐々木哲平を捕獲した……これより解凍作業に入る」
「解凍っていうか……物理的に凍ってるんですけど、漫画として成立する中身なんですか?」
「支障はない、中の人間が無事であれば」
「いやあの、一応漫画として……」
次に意識が戻ってきた時……何やら話し声が聞こえる、その内の一つは何か聞き覚えがあるが、空の先をよく見てみると……何やら真っ黒だが更にバリアが出来たように見える……動いてみても跳ね返るので本当に身動きが取れない状況のようだ、もしかしてガラス張り……?
と考えていると、上から大きな物が覗いている。
「見えますか佐々木先生、私ですよ〜」
「え!? なんか目玉みたいなの見えるけど……ま、まさかその声藍野さんなのか!?」
「はい! なんかこう色々と変わっちゃいましたけど佐々木先生見てるとまだ私は正常だったんだなってなりました」
「赤子になるのも充分異常だバカタレ」
「え? え? 赤子?」
一体何を言っているのか分からない、すぐそばに藍野がいるということ、自分が全く別の場所に送られてしまったことは分かるがここから何がどう進展したのかさっぱりだ……しかし哲平も周囲から見れば割とこんなものだったかもしれない。
何はともかく哲平にとっては、まだ大事なことが残っている……異世界のことやここから脱出する事。
「あ、あの! 出来れば俺を此処から出してほしくて……」
「う────ん、無理!」
「即答!? そこを何とか頼みますよ! このままじゃ俺、元の生活も出来ないし……藍野さんに会いに行くことも出来ないんだ!」
「出す、というのがもう無理だ……まさか気付いていないのか? お前は出られなくなったんじゃない、その漫画本こそが現在のお前、戻るも何もそれが現在の血肉だ、お前が佐々木哲平と認識しているものは細胞に過ぎない」
「……え? 細胞? でも俺は、現に人間の身体でここにいて、確かに本ごと動いたりしたことはありますけど、ちゃんと俺の身体はここに……」
「それはただの必要な臓器だ、聞くが本に臓器は必要か? 皮膚はページ、血液はインクとして……あと貴様を構成するのはそうやって動かすための知能……つまり、脳細胞、貴様の存在自体が脳を表す」
「……な、なるほど、言いたいことは分かりました、ここから出られないことも……じゃあもしかして結構ヤバい状況だったんじゃ」
「まあ確かにな、藍野伊月が言うので佐々木哲平の居所をわざわざ探して乗り込んできたら燃え上がる漫画を見たので消火して、凍らせたうえでここに隔離してやったんだからな」
「な、なるほど……ああそうだ、藍野さんはどうして俺を? 助かったけどさ……」
「なんでって……死んでほしくなかったんですよ、私から見た佐々木先生は……そうやって、私を救ってくれたんですよね?」
「あ、藍野さん……」
人生まだまだ捨てたものじゃない、どんな姿になっても……終わりが近づいても、二人はちゃんと生きているし、やりたいことはやりきった。
哲平にとってはそれだけでハッピーエンドであると断言してもいいだろう……。
「それに……私としても佐々木先生に長生きしてもらわないと、赤子から成長するまで退屈ですから……賑やかしになってくださいね?」
「え?」
なお、さすがに漫画に漫画を描いてもらうことは諦めた模様。
そして……哲平が作り出した異世界は、というと……現実に視認できない歴史の海のなかで、しっかりと形付けられており……?
そして、今崩れ去ったはずの過去から新たな戦いがサモンライドされる。
【第5幕】
『時空改変型ゴーストライター』
【おしまい】