黒歌転生 死んだ姉は保健室にいる 作:好きな性癖発表ドラゴン
最初に感じたのは、頭の奥を爪で引っかかれるような痛みだった。
深く沈んでいた意識が、ゆっくりと浮かび上がる。目を開けると、知らない天井があった。木目の薄い板張り。灯りは弱く、部屋には古い布と薬草のような匂いがこもっている。
どこだ、ここは。
そう思って起き上がろうとした瞬間、身体が軽すぎて、逆にうまく力が入らなかった。手をついたはずなのに、腕は細い。視界に映った指も、自分のものとは思えないほど白く、小さかった。
「……は?」
出た声は、知らない女の声だった。
喉が震える。背筋が冷える。慌てて口元を押さえた手も、やはり細い。胸元に触れかけて、そこで思考が止まった。違う。違いすぎる。自分の身体ではない。
その時、頭の上で何かがぴくりと動いた。
「……耳?」
恐る恐る手を伸ばす。人間の耳がある場所ではない。頭の上、黒い髪の間に、柔らかい三角形の感触があった。触れた途端、ぞわりとした感覚が脳に走り、反射的に肩が跳ねる。
さらに、背中の後ろで何かが揺れた。
振り返る。黒い尻尾が二本、まるでこちらの動揺を笑うようにゆらゆらと動いていた。
「いや、待て。待て待て待て」
現実感が崩れる。夢なら早く覚めろと願っても、頭痛も、布団のざらつきも、耳に触れた時の妙な感覚も、全部が生々しい。自分は男だったはずだ。少なくとも、こんな猫耳と尻尾を持つ少女ではなかった。
ふらつきながら部屋の隅へ向かう。そこには小さな鏡が置かれていた。曇った鏡面を袖で拭い、自分の顔を見る。
黒い髪。猫の耳。金色がかった瞳。まだ幼さを残した顔立ち。背後で揺れる二本の黒い尾。
その姿を見た瞬間、記憶の底から名前が浮かび上がった。
「……黒歌」
口にした途端、胸の奥がずしりと重くなる。
知っている。自分はこの少女を知っている。いや、正確には、この少女がたどるはずの未来を知っている。猫又の中でも強い力を持つ猫魈。白い髪の妹を守る姉。悪魔の眷属になり、やがて主を殺して、危険なはぐれ悪魔として追われる女。
そして、その妹に深い傷を残す姉。
頭の中に断片が走る。白音。小猫。ナベリウス。実験。主殺し。逃亡。敵側に立つ黒い猫。笑って、ふざけて、何もかも誤魔化して、それでも妹を見捨てられなかった女。
知識はある。けれど、全部ではない。思い出そうとするほど、記憶は霧のように散っていく。大事な出来事の輪郭だけが見えて、細かい順番や時期は曖昧だった。何年後に何が起こるのか、誰がどこで動くのか、すべてを覚えているわけではない。
それでも、ひとつだけは分かった。
この身体で何もせずにいれば、自分はいつか白音を傷つける。
「冗談じゃない……」
呟いた声は震えていた。前世がどうなったのかは分からない。死んだのか、眠っただけなのか、何かに巻き込まれたのか。それを考える余裕はなかった。今、自分は黒歌になっている。なら、これから襲ってくる現実は、黒歌のものだ。
胸の奥で、知らない感情が疼いた。
不安。恐怖。混乱。けれど、その奥にもっと強いものがある。まだ会ってもいないはずの妹を思っただけで、身体の内側が熱くなる。守らなければならない、と本能が訴えている。
それは前世の自分の感情なのか、黒歌の身体に刻まれたものなのか、分からなかった。
分からないのに、否定できなかった。
廊下の向こうから、小さな足音がした。
耳が勝手に動く。床板のきしみ、布が擦れる音、呼吸の浅さまで分かる。人間だった頃の感覚ではあり得ないほど、世界が近かった。
扉が、ほんの少しだけ開く。
「……姉さま?」
顔を出したのは、幼い少女だった。
白い髪。小さな猫耳。黒歌よりさらに小さな身体。扉の陰に半分隠れたまま、こちらを心配そうに見つめている。
白音。
名前を思い出した瞬間、胸を掴まれたように苦しくなった。
この子だ。未来で塔城小猫と呼ばれる少女。姉を失い、力を恐れ、感情を押し込めて生きることになる妹。画面越しでも、紙の上でもなく、今は目の前にいる。
白音はおずおずと部屋に入ってきた。小さな足で近づき、黒歌の顔を覗き込む。
「お熱、まだある……?」
その声があまりにも小さくて、黒歌は一瞬、返事を忘れた。
どう接すればいい。姉らしく? 黒歌らしく? 前世の自分に妹なんていたのか、それすら今は曖昧だ。まして、この子にとって自分は姉だ。知らない人間のように固まっていたら、不安にさせる。
黒歌は、なんとか口角を上げた。
「大丈夫だにゃ。ちょっと寝ぼけてただけにゃ」
語尾が自然に出た。
自分で言っておいて、内心では盛大に動揺した。けれど白音はそれを聞いて、少しだけ安心したように肩の力を抜く。どうやら今の言い方は、この身体にとって不自然ではないらしい。
白音が近づき、袖をきゅっと掴んだ。
「ほんと?」
「ほんとにゃ。白音は心配性だにゃあ」
「姉さまが、苦しそうだったから」
その一言で、黒歌は何も言えなくなった。
白音の手は小さかった。袖を掴む力も弱い。けれど、その指先は必死だった。姉がいなくならないように、そこにいることを確かめるように、ぎゅっと布を握っている。
この手を、いつか自分は離すのか。
そう思った瞬間、胃の奥が冷えた。
原作の流れを知っている。黒歌は妹を守るために主を殺す。だが、その結果として、妹は姉を恐れる。姉が何を思っていたのか知らないまま、残された側として傷を抱えてしまう。
それを知っていて、同じ道を歩くのか。
白音が不思議そうに首を傾げる。
「姉さま?」
黒歌は慌てて笑った。軽く、いつもの黒歌らしく。そうしなければ、自分の方が泣きそうだった。
「なんでもないにゃ。ほら、こっちにおいで」
手を広げると、白音は少し迷ってから近づいてきた。黒歌が布団の上に座り直すと、白音は隣にちょこんと腰を下ろす。距離が近い。温かい。体温がある。
黒歌はぎこちなく白音の頭に手を置いた。
白い髪は柔らかかった。猫耳がぴくりと揺れる。白音は少しくすぐったそうに目を細めた。
その仕草を見た瞬間、黒歌の中で何かが決まった。
知識なんて、きっと完璧には役に立たない。覚えている未来も、今の自分が動けば簡単に変わる。どこで何を間違えるか分からない。救えると思った相手を、逆に危険に晒すかもしれない。
それでも、目の前のこの子を見なかったことにはできない。
「白音」
「なあに?」
「……なんでもないにゃ」
「変な姉さま」
白音が小さく笑った。
その笑顔は、今にも消えてしまいそうなほど淡かった。だからこそ、黒歌は怖くなった。この子を守りたいと願うほど、守れなかった未来の影が濃くなる。
この世界には、白音を利用しようとする者がいる。黒歌自身も、きっと利用される。猫魈の力。妖術。仙術。希少な血。幼い姉妹の事情など、力を欲しがる者にとってはどうでもいい。
なら、ただ逃げるだけでは足りない。
白音が眠った後、黒歌は一人で部屋を出た。
夜の空気は冷たかった。庭に出ると、月明かりが薄く地面を照らしている。黒歌は裸足のまま石畳に立ち、目を閉じた。
音が聞こえる。虫の羽音。葉擦れ。遠くを歩く誰かの足音。屋敷の外を流れる気配。人間だった頃には感じ取れなかったものが、今は皮膚の下にまで染み込んでくる。
身体の奥に、淡い力がある。
魔力なのか、妖気なのか、気なのか。名前はまだ分からない。けれど、それは確かに黒歌のものだった。試しに意識を向けると、指先に黒い火花のようなものが揺れる。
驚いた拍子に力が散り、黒歌は小さく息を吐いた。
「……使い方も分からないとか、笑えないにゃ」
軽口を叩いても、胸の奥の不安は消えなかった。
強くならなければいけない。未来を知っているだけでは足りない。むしろ、知っているからこそ怖い。知っている悲劇を避けようとして、知らない悲劇を呼ぶ可能性だってある。
白音を守るために何が必要なのか。
主を殺す未来は避けられるのか。避けられないなら、その後にどう動くべきなのか。逃げるだけではなく、誰かに助けを求める道はないのか。
考えながら、黒歌は月を見上げた。
前世の自分なら、物語の中の出来事として語れた。あのキャラは不器用だった。あの姉妹は救われてほしかった。そんなふうに、外側から好き勝手に言えた。
けれど今は違う。
白音の手の温かさを知ってしまった。姉さまと呼ぶ声を聞いてしまった。袖を掴む小さな指を見てしまった。
もう、他人事にはできない。
「原作の黒歌……いや、違うにゃ」
黒歌は自分の胸に手を当てた。
この身体に残る想いを、勝手に他人のものとして切り離してはいけない。黒歌は妹を愛していた。やり方は不器用で、間違えて、遠回りして、それでも根っこにあったものは確かだった。
自分はその想いごと、この身体を受け取っている。
「私は黒歌」
口に出すと、不思議と胸の奥が落ち着いた。
前世が消えたわけではない。男だった記憶も、別の世界を知る知識も、自分の中に残っている。けれど今、白音の姉としてここにいるのは黒歌だ。
なら、逃げない。
白音を守る。守るだけでは足りない。いつか怖がられる姉ではなく、ちゃんと向き合える姉になる。置いていくしかない日が来ても、ただ消えるのではなく、帰るための道を探す。
その決意が無謀だと、自分でも分かっていた。
それでも、決めた。
部屋に戻ると、白音は布団の中で丸くなって眠っていた。小さな尻尾が布団から少しはみ出している。黒歌はそっと近づき、起こさないように膝をついた。
白音の寝顔は穏やかだった。けれど眉間には、うっすらと不安の跡が残っている。
黒歌はその頭に、そっと手を置いた。
「今度は、ちゃんと向き合うにゃ」
眠る白音は返事をしない。
それでよかった。これは白音に聞かせる誓いではない。自分自身に刻むための言葉だった。
その時、屋敷の外で空気が揺れた。
黒歌の耳が跳ねる。寝ていた白音の耳も、わずかに動いた。遠くから、複数の足音が近づいてくる。夜に紛れるように抑えられているが、今の黒歌の感覚はそれを拾ってしまう。
胸の奥が冷えた。
まだ早い。そう思いたかった。けれど、この世界はこちらの準備を待ってはくれない。
足音は屋敷の前で止まった。低い声がする。聞き取れた単語は少ない。だが、その中にひとつだけ、はっきりと耳に残る名があった。
ナベリウス。
黒歌は白音の頭から手を離し、静かに立ち上がった。
白音が目を覚まさないように、布団をかけ直す。震えそうになる指を握り込み、黒歌は扉の方を見た。
未来の歯車が、音を立てて動き出している。
何を変えられるのかは分からない。どこまで抗えるのかも分からない。けれど、もう決めてしまった。
この子だけは守る。
たとえそのために、自分が黒く塗り潰されることになったとしても。
黒歌は唇に笑みを乗せた。軽く、猫のように、何も怖くないふりをして。
そして、まだ知らない地獄へ向かうため、静かに部屋の扉を開けた。