黒歌転生 死んだ姉は保健室にいる   作:好きな性癖発表ドラゴン

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第2話 ナベリウス家の檻

 

 

 扉を開けた先にいたのは、夜に溶けるような黒い外套をまとった男たちだった。

 

 屋敷の灯りは落とされている。けれど黒歌の目には、彼らの輪郭がはっきり見えた。抑えた足音。整いすぎた呼吸。こちらを気遣うふりをしながら、逃げ道を塞ぐ立ち位置。

 

 人を迎えに来たというより、逃がさないために来たように見えた。

 

「夜分に失礼いたします、黒歌様」

 

 先頭の男が、恭しく頭を下げる。

 

 言葉遣いは丁寧だった。だが、視線は違う。黒歌の顔を見て、耳を見て、背後で揺れる二本の尾を見ていた。珍しい獣を値踏みするような、薄い興味がそこにある。

 

 黒歌は喉の奥に生まれた嫌悪感を飲み込んだ。今ここで牙を剥いても、勝てる保証はない。白音は眠っている。屋敷の中には自分たち以外の者もいる。逃げる道も、敵の数も、まだ分からない。

 

 だから笑った。

 

「こんな時間にお迎えかにゃ。ずいぶんと礼儀正しい泥棒さんたちだにゃあ」

 

 軽く、いつもの黒歌らしく。そう振る舞ったつもりだったが、尻尾の先はわずかに強張っていた。

 

 男は表情を変えない。

 

「ナベリウス家のご意向です。お二人の今後について、正式にお話をする場が設けられました」

 

「私たちの今後、ね」

 

「はい。貴女方のように希少な血を持つ方々を、放置しておくわけには参りません」

 

 保護、と男は言わなかった。

 

 そのことに、黒歌はかえって冷静になった。取り繕った言葉の奥にある本音は分かりやすい。希少な血。利用価値。管理すべき対象。彼らにとって、黒歌と白音は庇護する子どもではない。

 

 扱いを間違えれば壊れる、高価な道具だ。

 

 背後で小さな物音がした。

 

 振り返ると、部屋の奥から白音が顔を出していた。眠っていたはずなのに、気配に気づいて起きてしまったらしい。白い髪が寝癖で少し跳ねている。眠たげな目に、不安が滲んでいた。

 

「姉さま……?」

 

 黒歌の胸が痛んだ。

 

 来てほしくなかった。見せたくなかった。この子には、まだ何も知らないでいてほしかった。

 

 白音は小走りで近づき、黒歌の袖を掴んだ。いつもの小さな手。けれど今夜は、爪が布に食い込むほど強く握っている。

 

「どこか、行くの?」

 

「少し話を聞くだけにゃ」

 

「一緒?」

 

 その問いに、黒歌はすぐ答えられなかった。

 

 一緒にいられるかどうかは、自分が決められることではない。これから向かう先が本当に安全かどうかも分からない。曖昧な慰めで済ませれば、白音はその場だけ安心するかもしれない。

 

 でも、嘘を重ねるには早すぎる。

 

 黒歌は白音の前にしゃがんだ。目線を合わせると、白音の耳が不安そうに伏せられているのが見えた。

 

「離れないにゃ」

 

「ほんと?」

 

「ほんとにゃ。白音を置いていったりしない」

 

 言ってから、胸の奥が鋭く痛んだ。

 

 いつか、自分はこの子を置いていくかもしれない。そうしなければ守れない日が来るかもしれない。そんな未来の影が、言葉の後ろにまとわりついた。

 

 それでも今だけは、約束したかった。

 

 白音は黒歌の目を見つめ、ゆっくり頷いた。信じてくれたのだと分かった瞬間、黒歌は逃げられなくなった。知っている未来からではない。この小さな信頼から、逃げられなくなった。

 

「では、ご同行を」

 

 男の声が、静かに夜を切った。

 

 黒歌は白音の手を握り返し、屋敷の外へ出た。

 

 外には黒塗りの馬車が用意されていた。車輪には防音の術式がかけられているのか、近づくまで音がほとんどしなかった。護衛の数は見える範囲で四人。隠れている者を含めれば、もっと多い。

 

 逃げるなら今か。

 

 一瞬だけ、そんな考えが浮かぶ。

 

 だが、すぐに消した。白音を抱えて走るには、敵の配置が分からない。今の自分は黒歌の身体に慣れきっていない。妖術も仙術も、まだ感覚だけで扱えるほど甘くない。

 

 無謀は勇気ではない。

 

 馬車に乗り込むと、白音がぴたりと寄り添ってきた。黒歌はその肩を抱く。白音の身体は小さく、薄い。こんな子を連れて、見知らぬ闇を走り抜けることはできない。

 

 だから今は、檻に入るしかない。

 

 馬車が動き出した。窓の外で屋敷が遠ざかっていく。白音はそれを黙って見ていた。泣きはしない。ただ、袖を掴む手に力がこもる。

 

 黒歌はその手を包み込んだ。

 

「大丈夫にゃ」

 

 白音は小さく頷く。

 

 けれど、その言葉が誰に向けたものなのか、黒歌自身にも分からなかった。

 

 ナベリウス家の屋敷は、想像していたよりもずっと豪奢だった。

 

 高い門。整えられた庭。磨き上げられた床。案内された部屋には柔らかな寝台と清潔な衣服が用意され、食事も温かい。使用人たちは丁寧で、白音が怯えないように声を抑えて話していた。

 

 だが、黒歌はすぐに気づいた。

 

 窓の外に人がいる。廊下にも、曲がり角にも、気配がある。部屋の扉には外からしか分からない術式の気配が薄く張られている。外出には許可がいる。庭に出るにも、誰かがつく。

 

 ここは安全な住まいではない。

 

 綺麗に飾られた檻だった。

 

「姉さま、ここに住むの?」

 

 白音が部屋の中を見回しながら言った。

 

「しばらくは、そうなるみたいだにゃ」

 

「帰れないの?」

 

「……帰る場所は、これから考えるにゃ」

 

 白音はその答えの意味を全部は理解していないようだった。それでも不安は伝わったのか、黒歌のそばに戻ってくる。

 

 黒歌は白音の髪を撫でた。

 

 この子の前では笑っていなければいけない。少なくとも、恐怖をそのまま見せるわけにはいかない。けれど、笑うたびに自分の中で何かが削れていく気がした。

 

 その夜、白音が眠った後、黒歌は部屋の中を静かに歩いた。

 

 窓。扉。壁。天井。術式の気配。人の配置。外へ出られる経路。使えるもの。壊せるもの。見張りの交代。黒歌の身体は、意識を集中すれば周囲の生命の流れを微かに拾えた。

 

 便利だと思うより先に、怖くなった。

 

 こんな力を持っていれば、狙われるのも当然かもしれない。まして白音も同じ猫魈の血を引いている。まだ幼く、力は弱い。だからこそ、壊されやすい。

 

「守るって、簡単に言ったけど」

 

 黒歌は窓辺に立ち、夜の庭を見下ろした。

 

 自分は何をどこまで覚えているのか。黒歌がナベリウス家の眷属になったこと。妹を守るために主を殺したこと。その後、はぐれ悪魔として追われたこと。断片はある。

 

 だが、肝心な部分が抜けている。

 

 いつ、誰が、どんな手で白音に手を伸ばすのか。どこまで従えば時間を稼げるのか。どの瞬間に牙を剥かなければならないのか。

 

 知っているつもりだった未来は、目の前に来た途端、ひどく頼りなかった。

 

 翌日、黒歌はナベリウス家の者に呼び出された。

 

 応接室は広く、壁には趣味の悪いほど高価そうな絵が飾られていた。中央に座る男は、穏やかな笑みを浮かべている。まだ若いが、周囲の者たちが彼に向ける態度から、この場で一番権限を持っているのだと分かった。

 

「黒歌。ここでの生活には慣れたかな」

 

「まだ一日も経ってないにゃ。慣れるには気が早いと思うにゃあ」

 

「緊張しなくていい。君たちは我々にとって、大切な存在だ」

 

 男は笑っていた。

 

 その笑みの奥に、温度はなかった。

 

「特に君は素晴らしい。猫魈としての資質、妖術への適性、そして魔力への馴染み方。適切な環境で育てれば、大きな力になる」

 

「育てる、ね」

 

「悪い意味ではない。君自身のためでもある。力は制御できなければ身を滅ぼす。妹君を守りたいなら、なおさらだ」

 

 白音の名は出さなかった。だが、そこに白音を置かれたのだと分かった。

 

 黒歌は尻尾が逆立ちそうになるのを必死で抑えた。

 

 男は机の上に小さな箱を置いた。蓋を開けると、中には黒く光る駒が収められていた。見た瞬間、黒歌の背筋に冷たいものが走る。

 

 悪魔の駒。

 

「我が眷属となれば、君の力は安定する。身分も、居場所も与えられる。妹君も安全に暮らせるだろう」

 

「断ったら?」

 

「断る理由があるのかな」

 

 柔らかな声だった。

 

 だからこそ、逃げ道がない。

 

 黒歌が反抗すれば、白音の立場が悪くなる。黒歌自身をどうにかできなくても、白音は幼い。人質として扱うには十分すぎるほど弱い。

 

 男は続けた。

 

「君は賢い子だと聞いている。自分にとって何が最善か、分かるはずだ」

 

 最善。

 

 その言葉が、ひどく白々しかった。

 

 今すぐこの男の喉に爪を立てられたら、どれほど楽だろう。だが、その後はどうする。屋敷から白音を連れ出せるのか。追手を振り切れるのか。幼い妹を抱えて、どこへ逃げる。

 

 怒りだけでは守れない。

 

 黒歌はゆっくり息を吐いた。

 

「考える時間は、もらえるのかにゃ」

 

「もちろん。だが、長くは待てない。君たち姉妹を狙う者が、他にいないとも限らないからね」

 

 脅しだ。

 

 分かりやすいほどの脅しだった。

 

 部屋を出た後、黒歌は廊下を歩きながら、奥歯を噛み締めた。使用人たちは何事もない顔で頭を下げる。見張りは距離を保っている。誰も彼も、丁寧に檻の役目を果たしていた。

 

 その時、曲がり角の向こうから声が聞こえた。

 

「姉の方は使える。問題は妹だな」

 

 黒歌の足が止まる。

 

 声は扉一枚向こうからだった。普通の耳なら拾えないほど低い。だが、今の黒歌には聞こえる。

 

「妹も猫魈だ。成長すれば価値は出る」

 

「姉の従順さを保つにも、手元に置くべきでしょう」

 

「まだ幼い。直接いじるには早いが、素質の確認くらいなら」

 

 視界が赤く染まりかけた。

 

 指先に黒い火が揺れる。尻尾が膨らみ、耳が伏せる。今すぐ扉を蹴破り、あの声の主たちを黙らせたい。白音に触れるなと、喉が裂けるまで叫びたかった。

 

 だが、黒歌は動かなかった。

 

 動けなかったのではない。

 

 動かなかった。

 

 ここで怒りに任せれば、白音を連れて逃げる準備もないまま全てが始まる。相手の数も、術式も、逃走経路も分かっていない。自分の力も使いこなせていない。

 

 守るために殺す日が来るとしても、それは今ではない。

 

 黒歌は唇を噛んだ。血の味がした。

 

 静かに、その場を離れる。

 

 部屋に戻ると、白音が窓辺で待っていた。黒歌の姿を見つけると、ほっとしたように駆け寄ってくる。

 

「姉さま」

 

「ただいまにゃ」

 

「お話、終わった?」

 

「終わったにゃ」

 

「怖いこと、言われた?」

 

 黒歌は返事に詰まった。

 

 白音は幼い。けれど、鈍くはない。むしろ、こちらの表情の揺れに敏感だった。怖いことなど何もないと言えば、たぶん嘘だと気づく。

 

 だから黒歌は、白音を抱き寄せた。

 

「ちょっとだけ、面倒な話だったにゃ」

 

「面倒?」

 

「でも、白音は心配しなくていいにゃ。姉さまが考える」

 

 白音の小さな手が、黒歌の背中に回る。

 

「白音も、考える」

 

「白音はいい子に寝るのが仕事にゃ」

 

「でも、姉さまだけ大変なの、いや」

 

 その言葉に、黒歌の胸が詰まった。

 

 この子は守られるだけの存在ではない。幼くても、姉を心配している。自分がただ隠し続ければ、いつか白音は何も知らないまま傷つくことになる。

 

 それでも今は、全部を話せない。

 

「ありがとにゃ」

 

 黒歌は白音の頭を撫でた。

 

「でも、まだ大丈夫。姉さまは強いからにゃ」

 

 白音は少しだけ安心した顔をした。

 

 その顔を見て、黒歌は決めた。

 

 この檻に入る。

 

 ただし、飼われるためではない。時間を稼ぐためだ。情報を集めるためだ。白音に向けられる手が、どこから伸びてくるのか見極めるためだ。

 

 そして必要な時には、ためらわず噛み千切る。

 

 夜、白音が眠った後、黒歌はひとりで手のひらを見つめていた。

 

 悪魔の駒を受け入れれば、自分はナベリウス家の眷属になる。首輪をつけられるのと同じだ。だが、それによって白音に手を出すまでの時間を遅らせられるなら、今は選ぶしかない。

 

 未来を知っていることは、力ではない。

 

 知っている未来に怯えて立ち止まれば、目の前の白音を守れない。なら、自分が檻の中に入ってでも、白音の前に立つ。

 

 黒歌は小さく笑った。

 

「猫を飼い慣らせると思ってるなら、甘いにゃ」

 

 声は軽かった。

 

 けれど、心は少しも笑っていなかった。

 

 翌朝、黒歌は再び応接室に呼ばれた。

 

 男は昨日と同じ笑みを浮かべていた。机の上には、あの黒い駒が置かれている。小さな駒。だが、それが自分の運命を大きく変えるものだと、黒歌は知っていた。

 

「答えは出たかな」

 

 黒歌は頷いた。

 

「受けるにゃ」

 

 男の笑みが深くなる。

 

「賢明な判断だ」

 

「ただし、白音には手を出さないでほしいにゃ」

 

「妹君の安全は保証しよう」

 

 保証。

 

 その言葉を信じるほど、黒歌はもう幼くなかった。

 

 それでも今は頷くしかない。白音が部屋の隅で不安そうにこちらを見ている。黒歌は振り返り、いつものように笑ってみせた。

 

「大丈夫だにゃ」

 

 白音は心配そうに唇を結んだ。

 

 大丈夫ではない。何ひとつ、大丈夫ではない。

 

 けれど黒歌は、机の上の悪魔の駒へ手を伸ばした。

 

 冷たい光が、指先に触れる。

 

 その瞬間、自分の足元で未来の歯車が重く回る音を聞いた気がした。知っている流れに近づいている。避けたい未来へ、自分から一歩踏み込んでいる。

 

 だが、それでいい。

 

 黒猫は、自分から檻へ入った。

 

 いつか、その檻を内側から食い破るために。

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