黒歌転生 死んだ姉は保健室にいる   作:好きな性癖発表ドラゴン

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第3話 妹を守るための主殺し

 

 

 悪魔の駒が身体に沈んだ瞬間、黒歌は自分の内側に知らない鎖が通されたような感覚を覚えた。

 

 痛みではない。けれど、気持ちが悪い。猫魈として身体の奥を巡っていた妖気とは違う、もっと粘度のある魔力が血管の隙間に流れ込んでくる。自分のものになったはずなのに、どこか他人の手で形を変えられているようだった。

 

 息が詰まる。膝が落ちかける。だが、黒歌は歯を食いしばって踏みとどまった。

 

 白音が見ている。

 

「姉さま……?」

 

 不安げな声がした。黒歌は喉の奥にこみ上げた吐き気を飲み込み、無理やり笑った。

 

「ちょっと身体が重いだけにゃ。白音がそんな顔することないにゃあ」

 

 尻尾の先が震えているのを、黒歌は自分でも分かっていた。それでも笑った。ここで倒れれば、白音が怖がる。ここで怯えれば、ナベリウス家の者たちに弱みを見せる。

 

 目の前の男は満足げに頷いていた。

 

「適合は良好だ。やはり君は素晴らしい素質を持っている」

 

 素質。

 

 その言葉が、黒歌は嫌いになった。

 

 まるで自分が人ではなく、何かの素材であるかのように聞こえる。けれど、今は何も言えない。黒歌は男の視線を受け流し、白音の元へ戻った。

 

 白音は黒歌の袖を掴んだ。小さな手が震えている。

 

「痛くない?」

 

「痛くないにゃ」

 

「ほんと?」

 

「ほんとにゃ。姉さまは強いからにゃ」

 

 白音はまだ心配そうだったが、黒歌が頭を撫でると少しだけ表情を緩めた。その顔を見て、黒歌は胸の奥を強く掴まれる。

 

 大丈夫なわけがない。

 

 自分は今、首輪をつけられた。力を得たのではなく、ナベリウス家の檻により深く沈められた。だが、その檻に入らなければ白音を守る時間すら稼げなかった。

 

 だから耐える。

 

 今はまだ、牙を見せる時ではない。

 

 眷属悪魔になってからの日々は、整いすぎていて不気味だった。

 

 食事は用意される。服も寝床も与えられる。白音が寒がれば毛布が増え、黒歌が訓練で疲れれば薬湯が出る。外から見れば、保護されていると言ってもいいのかもしれない。

 

 けれど、扉の外には必ず誰かがいた。

 

 庭に出れば視線がつく。廊下を歩けば足音が一つ増える。黒歌が白音から離れた場所に呼び出される時だけ、周囲の気配が濃くなる。

 

 逃げるな、と無言で言われているようだった。

 

「魔力をこちらへ流しなさい。力任せではなく、指先で糸を引くように」

 

 訓練室で、研究者の声が響く。

 

 黒歌は言われた通りに魔力を動かす。悪魔としての魔力は重く、妖気とは流れ方が違った。だが、身体は少しずつ順応していく。黒歌の知識ではなく、黒歌の身体そのものが使い方を思い出しているようだった。

 

 黒い炎が床を走る。薄い結界が手のひらに展開する。遠くの気配を拾う感覚も、日ごとに鋭くなっていった。

 

 研究者たちは嬉しそうに記録を取る。

 

「伸びが早い」

「妖術との親和性も高い」

「やはり姉の方は戦力化できる」

 

 黒歌は聞こえていないふりをした。

 

 戦力化。適合。素材。素質。彼らが使う言葉の中に、黒歌の名前はほとんどない。あっても、それは個人を呼ぶためではなく、管理番号のように響く。

 

 訓練が終わると、白音が部屋の前で待っていた。

 

「姉さま、おかえり」

 

「ただいまにゃ。いい子にしてたかにゃ?」

 

「してた」

 

「偉いにゃあ」

 

 白音の頭を撫でると、白い耳がぴくりと動く。白音は少し嬉しそうに目を細めた。こんな小さな反応だけで、黒歌は胸の中の苛立ちが少し溶けるのを感じた。

 

 この子がいるから耐えられる。

 

 だが同時に、この子がいるからこそ怖かった。

 

 黒歌は未来の輪郭を知っている。自分が妹を守るために主を殺すことも、罪人になることも知っている。だが、現実の主はいつも穏やかだった。声を荒げることもなく、黒歌に無理な命令をすることも少ない。

 

 だからこそ不気味だった。

 

 いつ手を伸ばしてくる。どこから白音を狙う。どの瞬間に、牙を剥けばいい。

 

 分からない。

 

 知っているはずの未来は、肝心な時ほど曖昧だった。

 

 その日は、訓練がいつもより長引いた。

 

 複数の術式を重ねられ、悪魔の魔力と妖気の流れを何度も測定された。身体が重い。耳鳴りがする。それでも黒歌は、白音の前で疲れを見せないようにと考えながら部屋へ戻った。

 

 だが、部屋に白音はいなかった。

 

 寝台の上にも、窓辺にも、いつもの小さな椅子にもいない。

 

 黒歌の耳がぴんと立つ。匂いを探る。白音の匂いは部屋の外へ続いていた。使用人の匂いが二つ、見張りの気配が一つ。そして、廊下の奥へ向かう足跡。

 

 黒歌は扉を開けた。

 

 外にいた使用人が、笑顔で頭を下げる。

 

「黒歌様。訓練、お疲れ様でございます」

 

「白音はどこにいるにゃ?」

 

「妹君でしたら、簡単な検査を受けていただいております」

 

 検査。

 

 その言葉を聞いた瞬間、黒歌の中で何かが冷えた。

 

「誰が許可したにゃ?」

 

「御当主様のご指示です。妹君のためでもありますので」

 

「白音は嫌がってなかったかにゃ?」

 

「少々不安そうではございましたが、危険なものではございません」

 

 使用人は最後まで笑っていた。

 

 黒歌も笑った。

 

「そうかにゃ」

 

 次の瞬間、黒歌は使用人の横をすり抜けていた。

 

「あ、黒歌様、どちらへ――」

 

 呼び止める声を背に、廊下を進む。走りはしない。走れば騒ぎになる。だが足音は殺した。壁の角、見張りの視線、薄く張られた術式の隙間を拾いながら、白音の匂いを追う。

 

 屋敷の奥へ向かうほど、空気が変わった。

 

 薬品の匂い。金属の匂い。魔力を通した器具の焦げたような匂い。清潔に整えられた屋敷の表側とは違う、何かを調べ、分け、測るための場所。

 

 研究区画。

 

 言葉を思い浮かべた瞬間、喉の奥が熱くなった。

 

 奥の部屋から、白音の声が聞こえた。

 

「姉さまは?」

 

「すぐに来るよ。だから大人しくしていなさい」

 

「いや……姉さまのところに行く」

 

「怖がる必要はない。少し力を見せてもらうだけだ」

 

 黒歌の足が止まる。

 

 扉の隙間から中を覗くと、白音は台の上に座らされていた。拘束具はない。だが周囲を大人たちに囲まれ、逃げ道は塞がれている。床には術式が描かれ、白音の足元を淡く照らしていた。

 

 白音は泣いていなかった。

 

 泣かないように、必死で堪えていた。

 

 それが、黒歌の怒りをさらに深くした。

 

「白音を連れていくなら、姉さまにも一言ほしいにゃあ」

 

 黒歌は扉を開け、軽い声で言った。

 

 部屋の中の者たちが振り返る。驚き、苛立ち、気まずさ。いくつもの感情が一瞬だけ浮かんで、すぐに取り繕われた。

 

「黒歌。訓練後は休んでいるよう伝えたはずだが」

 

 主がいた。

 

 穏やかな顔で、研究者たちの後ろに立っている。最初からここにいたのだと分かり、黒歌の尻尾が膨らみかけた。

 

 黒歌は白音を見る。

 

 白音の顔がぱっと明るくなり、それから泣きそうに歪んだ。

 

「姉さま……」

 

「大丈夫にゃ。迎えに来たにゃ」

 

 黒歌は白音へ歩こうとした。

 

 だが、研究者の一人が前に出る。

 

「妹君にも簡単な測定を受けていただいているだけです。危険はありません」

 

「白音が嫌がってるにゃ」

 

「幼い子どもは検査を怖がるものです」

 

「白音が嫌がってるって言ったにゃ」

 

 声はまだ軽い。けれど、部屋の空気は少しずつ重くなっていった。

 

 主がため息をつく。

 

「黒歌。君は少し過敏になっている。妹君の素質を知ることは、彼女のためでもある」

 

「白音のため?」

 

「そうだ。君と同じ血を引いている以上、いずれ力は目覚める。制御できなければ危険だ。早いうちから調べておく必要がある」

 

 理屈は整っていた。

 

 だからこそ、吐き気がした。

 

 どんな言葉で飾っても、白音を怖がらせている事実は変わらない。白音の意思を無視している事実も変わらない。そして何より、主の視線は白音を子どもとして見ていなかった。

 

 可能性のある素材として見ていた。

 

「それに」

 

 主は穏やかに続けた。

 

「妹君も、いずれ有用な存在になる。君が従順であれば、丁重に扱おう」

 

 音が消えた。

 

 いや、違う。黒歌の意識が、その言葉以外を切り捨てた。

 

 君が従順であれば。

 

 白音を守りたいなら従え。そう言ったのだ、この男は。

 

 白音が台の上で震えている。両手をぎゅっと握りしめ、黒歌を見ている。助けてとは言わない。けれど、その目が言っていた。

 

 姉さま。

 

 黒歌の中で、何かが切れた。

 

「白音から離れろ」

 

 自分の声なのに、ひどく冷たかった。

 

 語尾はなかった。

 

 部屋の者たちが息を呑む。主の目が細くなる。

 

「黒歌。立場を弁えなさい。君は私の眷属だ」

 

 黒歌は答えなかった。

 

 足元で黒い炎が揺れる。床に描かれた術式の線が、黒い火に舐められて歪む。研究者たちが慌てて後ずさった。

 

 主が手を上げる。

 

 黒歌の身体に、悪魔の駒を通じた命令の圧がかかった。膝を折れ。止まれ。従え。そんな意思が、鎖のように内側から絡みつく。

 

 だが、黒歌は白音を見た。

 

 震える妹。助けを求める声。小さな手。夜に袖を掴んだ指。

 

 そのすべてが、鎖を焼いた。

 

「私は」

 

 黒歌は一歩踏み出した。

 

「お前の道具じゃない」

 

 照明が揺れる。

 

 主が防御術式を展開するより早く、黒歌の姿がぶれた。猫魈の脚力、悪魔の魔力、まだ形になりきらない妖術。その全部が、白音を守るという一点に向かって噛み合った。

 

 黒い火が床を走り、結界の線を断ち切る。研究者が叫ぶ。白音の周囲を囲んでいた術式が砕ける。黒歌はその隙間を滑るように抜け、白音の前に立った。

 

「姉さま!」

 

「目を閉じてるにゃ」

 

 言ってから、語尾が戻ったことに自分でも気づいた。

 

 白音には優しく言える。けれど、振り返った瞬間、黒歌の声はまた冷えた。

 

「これ以上、その子に近づくな」

 

 主の表情から、初めて余裕が消えた。

 

「私を殺せば、お前は終わりだ。はぐれ悪魔として追われる。妹君も無事では済まない」

 

「そうだろうな」

 

「ならば――」

 

「白音に手を出した時点で、お前は終わってる」

 

 黒歌は踏み込んだ。

 

 部屋の窓が割れる。吹き込んだ夜風が、黒い炎を揺らす。誰かの悲鳴がした。結界が砕ける音がした。悪魔の魔力が一つ、急速に弱まっていく。

 

 白音は言われた通り、目を閉じていた。

 

 だから、その瞬間を見なかった。

 

 やがて、部屋に静寂が戻った。

 

 床に描かれていた術式は焼け焦げ、器具は壊れ、壁には深い傷が走っている。研究者たちは腰を抜かし、誰も声を出せないでいた。

 

 黒歌は息を整えた。

 

 手が震えている。爪の先に残った感触を、考えないようにした。振り返る前に、乱れた髪を押さえる。白音に怖い顔を見せたくなかった。

 

「白音」

 

 台の上の白音が、恐る恐る目を開ける。

 

「もう大丈夫にゃ」

 

 白音は黒歌を見た。壊れた部屋を見た。消えた主の気配を感じ取ったのか、小さな顔が青ざめる。

 

「姉さま……?」

 

 その声が震えていた。

 

 黒歌は胸が張り裂けそうになった。怖がらせた。守るためとはいえ、白音の前で自分は取り返しのつかないことをした。

 

 それでも、白音は台から降りると、泣きながら黒歌にしがみついた。

 

「姉さま、姉さま……!」

 

 黒歌は白音を抱きしめる。

 

 小さな身体は震えていた。けれど、黒歌を拒まなかった。怖いものを見た後でも、姉の胸に顔を埋めていた。

 

 それだけで、黒歌は救われそうになった。

 

 同時に、自分がもう戻れない場所まで来たことを理解した。

 

 主を殺した。眷属である自分が、主を殺した。理由がどうであれ、この世界では罪になる。ナベリウス家は黙っていない。冥界も、悪魔社会も、自分を危険なはぐれ悪魔として扱うだろう。

 

 だが、後悔はなかった。

 

 白音が生きている。

 

 それだけでよかった。

 

 遠くで警報が鳴り始めた。

 

 低い鐘の音と、廊下を走る足音。屋敷全体が騒がしくなる。黒歌は白音を抱き上げた。白音の腕が首に回る。

 

「姉さま、どこ行くの……?」

 

「助けを求めに行くにゃ」

 

「助け?」

 

「ここより、ちゃんと話を聞いてくれそうな人のところにゃ」

 

 頭の中に一つの名前が浮かぶ。

 

 サーゼクス・ルシファー。

 

 危険な賭けだ。魔王に助けを求めるなど、普通なら正気ではない。しかも自分は主殺しをしたばかりの眷属悪魔だ。捕まれば、ただでは済まない。

 

 それでも、このまま逃げ続けるよりはいい。

 

 自分だけなら、はぐれ悪魔として闇に消える道もある。だが白音を連れている。白音にそんな生活をさせるわけにはいかない。

 

 逃げるだけでは守れない。

 

 黒歌は壊れた扉を抜け、廊下へ出た。

 

 見張りが駆けつける。黒歌は白音を片腕で抱えたまま、空いた手で黒い炎を走らせた。足止めだけでいい。殺す必要はない。今必要なのは、白音を連れてここを出ること。

 

 窓を割り、夜の庭へ飛び降りる。

 

 風が耳を叩いた。白音が黒歌の首にしがみつく。黒歌は着地と同時に走り出した。背後から怒号が飛ぶ。術式が放たれる。だが、今の黒歌の足は止まらなかった。

 

 胸の奥に鎖の残滓がある。悪魔の駒を通じた主の命令は、主の消滅と共に薄れていた。けれど、別の重さが残っている。

 

 罪の重さ。

 

 白音を守るために背負ったもの。

 

「姉さま……怖い」

 

 腕の中で白音が呟いた。

 

 黒歌は走りながら、少しだけ顔を伏せる。

 

「ごめんにゃ」

 

「姉さまが、怖いんじゃない」

 

 白音の声は震えていた。

 

「姉さまが、いなくなるのが怖い」

 

 黒歌は息を呑んだ。

 

 視界が歪みそうになる。走る足が一瞬鈍った。それでも止まらない。止まれば追いつかれる。

 

「いなくならないにゃ」

 

 また約束してしまう。

 

 守れるかどうかも分からない約束を。

 

 けれど、言わずにはいられなかった。

 

「白音を置いていかないにゃ」

 

 白音は黒歌の首に回した腕に力を込めた。

 

 黒歌は夜の森へ飛び込む。枝が頬を掠める。足元の土が跳ねる。背後の屋敷は遠ざかっていく。警報の音も、怒号も、少しずつ夜に溶けていった。

 

 自分は罪人になった。

 

 もう普通の姉ではいられない。白音の手を引いて穏やかに暮らす未来は、この瞬間に壊れたのかもしれない。けれど、あの部屋で白音が壊される未来よりは、ずっといい。

 

 黒歌は白音を抱き直した。

 

「大丈夫。今度は、逃げるだけじゃないにゃ」

 

 声は震えていた。

 

 それでも、笑った。

 

 黒猫は罪を背負い、白い妹を抱えて、魔王のもとへ走り出した。

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