黒歌転生 死んだ姉は保健室にいる 作:好きな性癖発表ドラゴン
悪魔の駒が身体に沈んだ瞬間、黒歌は自分の内側に知らない鎖が通されたような感覚を覚えた。
痛みではない。けれど、気持ちが悪い。猫魈として身体の奥を巡っていた妖気とは違う、もっと粘度のある魔力が血管の隙間に流れ込んでくる。自分のものになったはずなのに、どこか他人の手で形を変えられているようだった。
息が詰まる。膝が落ちかける。だが、黒歌は歯を食いしばって踏みとどまった。
白音が見ている。
「姉さま……?」
不安げな声がした。黒歌は喉の奥にこみ上げた吐き気を飲み込み、無理やり笑った。
「ちょっと身体が重いだけにゃ。白音がそんな顔することないにゃあ」
尻尾の先が震えているのを、黒歌は自分でも分かっていた。それでも笑った。ここで倒れれば、白音が怖がる。ここで怯えれば、ナベリウス家の者たちに弱みを見せる。
目の前の男は満足げに頷いていた。
「適合は良好だ。やはり君は素晴らしい素質を持っている」
素質。
その言葉が、黒歌は嫌いになった。
まるで自分が人ではなく、何かの素材であるかのように聞こえる。けれど、今は何も言えない。黒歌は男の視線を受け流し、白音の元へ戻った。
白音は黒歌の袖を掴んだ。小さな手が震えている。
「痛くない?」
「痛くないにゃ」
「ほんと?」
「ほんとにゃ。姉さまは強いからにゃ」
白音はまだ心配そうだったが、黒歌が頭を撫でると少しだけ表情を緩めた。その顔を見て、黒歌は胸の奥を強く掴まれる。
大丈夫なわけがない。
自分は今、首輪をつけられた。力を得たのではなく、ナベリウス家の檻により深く沈められた。だが、その檻に入らなければ白音を守る時間すら稼げなかった。
だから耐える。
今はまだ、牙を見せる時ではない。
眷属悪魔になってからの日々は、整いすぎていて不気味だった。
食事は用意される。服も寝床も与えられる。白音が寒がれば毛布が増え、黒歌が訓練で疲れれば薬湯が出る。外から見れば、保護されていると言ってもいいのかもしれない。
けれど、扉の外には必ず誰かがいた。
庭に出れば視線がつく。廊下を歩けば足音が一つ増える。黒歌が白音から離れた場所に呼び出される時だけ、周囲の気配が濃くなる。
逃げるな、と無言で言われているようだった。
「魔力をこちらへ流しなさい。力任せではなく、指先で糸を引くように」
訓練室で、研究者の声が響く。
黒歌は言われた通りに魔力を動かす。悪魔としての魔力は重く、妖気とは流れ方が違った。だが、身体は少しずつ順応していく。黒歌の知識ではなく、黒歌の身体そのものが使い方を思い出しているようだった。
黒い炎が床を走る。薄い結界が手のひらに展開する。遠くの気配を拾う感覚も、日ごとに鋭くなっていった。
研究者たちは嬉しそうに記録を取る。
「伸びが早い」
「妖術との親和性も高い」
「やはり姉の方は戦力化できる」
黒歌は聞こえていないふりをした。
戦力化。適合。素材。素質。彼らが使う言葉の中に、黒歌の名前はほとんどない。あっても、それは個人を呼ぶためではなく、管理番号のように響く。
訓練が終わると、白音が部屋の前で待っていた。
「姉さま、おかえり」
「ただいまにゃ。いい子にしてたかにゃ?」
「してた」
「偉いにゃあ」
白音の頭を撫でると、白い耳がぴくりと動く。白音は少し嬉しそうに目を細めた。こんな小さな反応だけで、黒歌は胸の中の苛立ちが少し溶けるのを感じた。
この子がいるから耐えられる。
だが同時に、この子がいるからこそ怖かった。
黒歌は未来の輪郭を知っている。自分が妹を守るために主を殺すことも、罪人になることも知っている。だが、現実の主はいつも穏やかだった。声を荒げることもなく、黒歌に無理な命令をすることも少ない。
だからこそ不気味だった。
いつ手を伸ばしてくる。どこから白音を狙う。どの瞬間に、牙を剥けばいい。
分からない。
知っているはずの未来は、肝心な時ほど曖昧だった。
その日は、訓練がいつもより長引いた。
複数の術式を重ねられ、悪魔の魔力と妖気の流れを何度も測定された。身体が重い。耳鳴りがする。それでも黒歌は、白音の前で疲れを見せないようにと考えながら部屋へ戻った。
だが、部屋に白音はいなかった。
寝台の上にも、窓辺にも、いつもの小さな椅子にもいない。
黒歌の耳がぴんと立つ。匂いを探る。白音の匂いは部屋の外へ続いていた。使用人の匂いが二つ、見張りの気配が一つ。そして、廊下の奥へ向かう足跡。
黒歌は扉を開けた。
外にいた使用人が、笑顔で頭を下げる。
「黒歌様。訓練、お疲れ様でございます」
「白音はどこにいるにゃ?」
「妹君でしたら、簡単な検査を受けていただいております」
検査。
その言葉を聞いた瞬間、黒歌の中で何かが冷えた。
「誰が許可したにゃ?」
「御当主様のご指示です。妹君のためでもありますので」
「白音は嫌がってなかったかにゃ?」
「少々不安そうではございましたが、危険なものではございません」
使用人は最後まで笑っていた。
黒歌も笑った。
「そうかにゃ」
次の瞬間、黒歌は使用人の横をすり抜けていた。
「あ、黒歌様、どちらへ――」
呼び止める声を背に、廊下を進む。走りはしない。走れば騒ぎになる。だが足音は殺した。壁の角、見張りの視線、薄く張られた術式の隙間を拾いながら、白音の匂いを追う。
屋敷の奥へ向かうほど、空気が変わった。
薬品の匂い。金属の匂い。魔力を通した器具の焦げたような匂い。清潔に整えられた屋敷の表側とは違う、何かを調べ、分け、測るための場所。
研究区画。
言葉を思い浮かべた瞬間、喉の奥が熱くなった。
奥の部屋から、白音の声が聞こえた。
「姉さまは?」
「すぐに来るよ。だから大人しくしていなさい」
「いや……姉さまのところに行く」
「怖がる必要はない。少し力を見せてもらうだけだ」
黒歌の足が止まる。
扉の隙間から中を覗くと、白音は台の上に座らされていた。拘束具はない。だが周囲を大人たちに囲まれ、逃げ道は塞がれている。床には術式が描かれ、白音の足元を淡く照らしていた。
白音は泣いていなかった。
泣かないように、必死で堪えていた。
それが、黒歌の怒りをさらに深くした。
「白音を連れていくなら、姉さまにも一言ほしいにゃあ」
黒歌は扉を開け、軽い声で言った。
部屋の中の者たちが振り返る。驚き、苛立ち、気まずさ。いくつもの感情が一瞬だけ浮かんで、すぐに取り繕われた。
「黒歌。訓練後は休んでいるよう伝えたはずだが」
主がいた。
穏やかな顔で、研究者たちの後ろに立っている。最初からここにいたのだと分かり、黒歌の尻尾が膨らみかけた。
黒歌は白音を見る。
白音の顔がぱっと明るくなり、それから泣きそうに歪んだ。
「姉さま……」
「大丈夫にゃ。迎えに来たにゃ」
黒歌は白音へ歩こうとした。
だが、研究者の一人が前に出る。
「妹君にも簡単な測定を受けていただいているだけです。危険はありません」
「白音が嫌がってるにゃ」
「幼い子どもは検査を怖がるものです」
「白音が嫌がってるって言ったにゃ」
声はまだ軽い。けれど、部屋の空気は少しずつ重くなっていった。
主がため息をつく。
「黒歌。君は少し過敏になっている。妹君の素質を知ることは、彼女のためでもある」
「白音のため?」
「そうだ。君と同じ血を引いている以上、いずれ力は目覚める。制御できなければ危険だ。早いうちから調べておく必要がある」
理屈は整っていた。
だからこそ、吐き気がした。
どんな言葉で飾っても、白音を怖がらせている事実は変わらない。白音の意思を無視している事実も変わらない。そして何より、主の視線は白音を子どもとして見ていなかった。
可能性のある素材として見ていた。
「それに」
主は穏やかに続けた。
「妹君も、いずれ有用な存在になる。君が従順であれば、丁重に扱おう」
音が消えた。
いや、違う。黒歌の意識が、その言葉以外を切り捨てた。
君が従順であれば。
白音を守りたいなら従え。そう言ったのだ、この男は。
白音が台の上で震えている。両手をぎゅっと握りしめ、黒歌を見ている。助けてとは言わない。けれど、その目が言っていた。
姉さま。
黒歌の中で、何かが切れた。
「白音から離れろ」
自分の声なのに、ひどく冷たかった。
語尾はなかった。
部屋の者たちが息を呑む。主の目が細くなる。
「黒歌。立場を弁えなさい。君は私の眷属だ」
黒歌は答えなかった。
足元で黒い炎が揺れる。床に描かれた術式の線が、黒い火に舐められて歪む。研究者たちが慌てて後ずさった。
主が手を上げる。
黒歌の身体に、悪魔の駒を通じた命令の圧がかかった。膝を折れ。止まれ。従え。そんな意思が、鎖のように内側から絡みつく。
だが、黒歌は白音を見た。
震える妹。助けを求める声。小さな手。夜に袖を掴んだ指。
そのすべてが、鎖を焼いた。
「私は」
黒歌は一歩踏み出した。
「お前の道具じゃない」
照明が揺れる。
主が防御術式を展開するより早く、黒歌の姿がぶれた。猫魈の脚力、悪魔の魔力、まだ形になりきらない妖術。その全部が、白音を守るという一点に向かって噛み合った。
黒い火が床を走り、結界の線を断ち切る。研究者が叫ぶ。白音の周囲を囲んでいた術式が砕ける。黒歌はその隙間を滑るように抜け、白音の前に立った。
「姉さま!」
「目を閉じてるにゃ」
言ってから、語尾が戻ったことに自分でも気づいた。
白音には優しく言える。けれど、振り返った瞬間、黒歌の声はまた冷えた。
「これ以上、その子に近づくな」
主の表情から、初めて余裕が消えた。
「私を殺せば、お前は終わりだ。はぐれ悪魔として追われる。妹君も無事では済まない」
「そうだろうな」
「ならば――」
「白音に手を出した時点で、お前は終わってる」
黒歌は踏み込んだ。
部屋の窓が割れる。吹き込んだ夜風が、黒い炎を揺らす。誰かの悲鳴がした。結界が砕ける音がした。悪魔の魔力が一つ、急速に弱まっていく。
白音は言われた通り、目を閉じていた。
だから、その瞬間を見なかった。
やがて、部屋に静寂が戻った。
床に描かれていた術式は焼け焦げ、器具は壊れ、壁には深い傷が走っている。研究者たちは腰を抜かし、誰も声を出せないでいた。
黒歌は息を整えた。
手が震えている。爪の先に残った感触を、考えないようにした。振り返る前に、乱れた髪を押さえる。白音に怖い顔を見せたくなかった。
「白音」
台の上の白音が、恐る恐る目を開ける。
「もう大丈夫にゃ」
白音は黒歌を見た。壊れた部屋を見た。消えた主の気配を感じ取ったのか、小さな顔が青ざめる。
「姉さま……?」
その声が震えていた。
黒歌は胸が張り裂けそうになった。怖がらせた。守るためとはいえ、白音の前で自分は取り返しのつかないことをした。
それでも、白音は台から降りると、泣きながら黒歌にしがみついた。
「姉さま、姉さま……!」
黒歌は白音を抱きしめる。
小さな身体は震えていた。けれど、黒歌を拒まなかった。怖いものを見た後でも、姉の胸に顔を埋めていた。
それだけで、黒歌は救われそうになった。
同時に、自分がもう戻れない場所まで来たことを理解した。
主を殺した。眷属である自分が、主を殺した。理由がどうであれ、この世界では罪になる。ナベリウス家は黙っていない。冥界も、悪魔社会も、自分を危険なはぐれ悪魔として扱うだろう。
だが、後悔はなかった。
白音が生きている。
それだけでよかった。
遠くで警報が鳴り始めた。
低い鐘の音と、廊下を走る足音。屋敷全体が騒がしくなる。黒歌は白音を抱き上げた。白音の腕が首に回る。
「姉さま、どこ行くの……?」
「助けを求めに行くにゃ」
「助け?」
「ここより、ちゃんと話を聞いてくれそうな人のところにゃ」
頭の中に一つの名前が浮かぶ。
サーゼクス・ルシファー。
危険な賭けだ。魔王に助けを求めるなど、普通なら正気ではない。しかも自分は主殺しをしたばかりの眷属悪魔だ。捕まれば、ただでは済まない。
それでも、このまま逃げ続けるよりはいい。
自分だけなら、はぐれ悪魔として闇に消える道もある。だが白音を連れている。白音にそんな生活をさせるわけにはいかない。
逃げるだけでは守れない。
黒歌は壊れた扉を抜け、廊下へ出た。
見張りが駆けつける。黒歌は白音を片腕で抱えたまま、空いた手で黒い炎を走らせた。足止めだけでいい。殺す必要はない。今必要なのは、白音を連れてここを出ること。
窓を割り、夜の庭へ飛び降りる。
風が耳を叩いた。白音が黒歌の首にしがみつく。黒歌は着地と同時に走り出した。背後から怒号が飛ぶ。術式が放たれる。だが、今の黒歌の足は止まらなかった。
胸の奥に鎖の残滓がある。悪魔の駒を通じた主の命令は、主の消滅と共に薄れていた。けれど、別の重さが残っている。
罪の重さ。
白音を守るために背負ったもの。
「姉さま……怖い」
腕の中で白音が呟いた。
黒歌は走りながら、少しだけ顔を伏せる。
「ごめんにゃ」
「姉さまが、怖いんじゃない」
白音の声は震えていた。
「姉さまが、いなくなるのが怖い」
黒歌は息を呑んだ。
視界が歪みそうになる。走る足が一瞬鈍った。それでも止まらない。止まれば追いつかれる。
「いなくならないにゃ」
また約束してしまう。
守れるかどうかも分からない約束を。
けれど、言わずにはいられなかった。
「白音を置いていかないにゃ」
白音は黒歌の首に回した腕に力を込めた。
黒歌は夜の森へ飛び込む。枝が頬を掠める。足元の土が跳ねる。背後の屋敷は遠ざかっていく。警報の音も、怒号も、少しずつ夜に溶けていった。
自分は罪人になった。
もう普通の姉ではいられない。白音の手を引いて穏やかに暮らす未来は、この瞬間に壊れたのかもしれない。けれど、あの部屋で白音が壊される未来よりは、ずっといい。
黒歌は白音を抱き直した。
「大丈夫。今度は、逃げるだけじゃないにゃ」
声は震えていた。
それでも、笑った。
黒猫は罪を背負い、白い妹を抱えて、魔王のもとへ走り出した。