黒歌転生 死んだ姉は保健室にいる 作:好きな性癖発表ドラゴン
夜の森は、息をするたびに肺の奥まで冷えていくようだった。
黒歌は白音を抱えたまま、枝の間を駆け抜ける。足元の土は湿り、踏み込むたびに泥が跳ねた。後ろから追ってくる気配は、まだ完全には消えていない。ナベリウス家の者たちは、主を失った直後だというのに動きが早かった。
「姉さま……」
腕の中で白音が小さく呼ぶ。
黒歌は足を止めず、笑うように息を吐いた。
「大丈夫にゃ。姉さま、逃げ足には自信があるにゃ」
軽く言ったつもりだった。だが、喉の奥は焼けるように痛み、身体の内側では悪魔の魔力と妖気がぐちゃぐちゃに絡んでいる。眷属化したばかりの身体で主を殺し、そのまま白音を抱えて走り続けているのだから、限界が近いのは分かっていた。
それでも止まれない。
ここで捕まれば、白音はナベリウス家へ戻される。自分は処分されるか、もっと悪い形で利用される。逃げるだけなら、まだ道はいくつかあった。森へ潜る。遠い土地へ向かう。自分一人なら、闇に紛れて生きることもできるかもしれない。
けれど、白音をそんな場所へ連れていくわけにはいかない。
だから黒歌は、前世の記憶の底から一つの名前を掴み上げた。
サーゼクス・ルシファー。
グレモリー家。
魔王に助けを求めるなど、普通なら無謀だ。しかも今の黒歌は、主殺しをしたばかりの眷属悪魔。事情を聞いてもらう前に拘束されてもおかしくない。
それでも、ナベリウス家の檻へ戻るよりはましだった。
「白音、少し揺れるにゃ」
「うん」
白音が首に回した腕に力を込める。黒歌は呼吸を整え、木々の間を抜けた。遠くに、結界の気配がある。ナベリウス家のものとは違う。もっと大きく、もっと整っていて、踏み込む者を静かに選別するような圧。
グレモリー家の外縁だ。
黒歌はそこで足を止めた。
追手の気配は遠い。だが、この先へ無断で踏み込めば、グレモリー家の警備に敵と判断される。逃げ込むために来たのに、ここで戦闘になれば何の意味もない。
黒歌は白音を抱えたまま、両手が見えるようにゆっくりと前へ出た。
「グレモリー家の方に取り次いでください」
声は掠れていた。猫のような軽さを乗せる余裕はなかった。
木陰から、複数の気配が現れる。黒い衣装をまとった悪魔たち。表情は硬く、全員が黒歌と白音を警戒していた。特に、黒歌の乱れた魔力と服についた血の痕を見た瞬間、空気が一段冷える。
「所属を名乗れ」
「ナベリウス家分家の眷属、黒歌」
その名を口にした瞬間、警備の悪魔たちの目が鋭くなった。すでに何かしらの報告が届いているのだろう。主が死んだ。眷属が逃げた。幼い妹を連れている。自分がどう見られているか、黒歌にも分かっていた。
白音が不安そうに黒歌の胸へ顔を寄せる。
黒歌はほんの一瞬、いつものように笑って誤魔化そうとした。けれど、やめた。ここで挑発すれば、危険になるのは白音だ。
「魔王サーゼクス・ルシファー様に、話があります」
「魔王様に?」
「はい。妹の保護を、お願いしたいんです」
警備の一人が目を細めた。
「武装を解除しろ。抵抗すれば、その子も含めて拘束する」
黒歌の尻尾が反射的に膨らみかける。白音も含めて、という言葉に身体が勝手に反応した。
だが、黒歌は動かなかった。
「分かりました」
黒歌は白音を地面へ下ろそうとする。白音は慌てて首にしがみついた。
「いや……姉さま」
「大丈夫にゃ。すぐそばにいるにゃ」
白音の手は離れない。黒歌は警備の悪魔たちへ視線を向けた。
「この子は何もしていません。怖がらせないでください。お願いします」
語尾は出なかった。
警備の悪魔たちは一瞬だけ顔を見合わせた。危険なはぐれ悪魔候補として構えていた相手が、最初に求めたのは自分の安全ではなく妹の扱いだったからだろう。
それでも、警戒は解かれなかった。
黒歌の手首に魔力を抑える拘束具がかけられる。喉の奥で息が詰まった。身体の中の流れが強引に細められ、足元がふらつく。白音が泣きそうな顔でこちらを見る。
「姉さま、痛い?」
「痛くないにゃ。ちょっと重いだけにゃ」
また嘘をついた。
けれど今は、それしかできなかった。
通された部屋は、牢ではなかった。
石造りの壁に、最低限の調度品。窓には術式が張られ、扉の外には護衛の気配がある。事情聴取のための部屋だとすぐに分かった。黒歌は椅子に座らされ、白音は少し離れた場所に置かれた椅子に座らせられる。
白音は何度も黒歌を見た。
そのたびに黒歌は小さく頷く。大丈夫だと伝えるために。だが本当は、何一つ大丈夫ではなかった。拘束具のせいで魔力の流れが鈍い。身体は重い。視界の端が時々揺れる。
それでも、倒れるわけにはいかない。
しばらくして、扉が開いた。
入ってきた男を見た瞬間、部屋の空気が変わった。
赤い髪。穏やかな顔立ち。柔らかな微笑み。けれど、その奥にある圧は、ナベリウス家の主とは比べものにならなかった。声を荒げる必要も、威圧する必要もない。ただそこにいるだけで、この場の全てが彼の判断に委ねられていると分かる。
サーゼクス・ルシファー。
魔王。
黒歌は椅子から立とうとした。拘束具が鳴る。足元がふらつき、白音が息を呑んだ。それでも黒歌は姿勢を正し、頭を下げた。
「突然の無礼を、お許しください」
サーゼクスは黒歌を見つめた。
「君が黒歌だね」
「はい」
「ナベリウス家分家の主を殺し、妹を連れて逃亡した。報告ではそうなっている」
「間違いありません」
白音が小さく震える気配がした。
黒歌は顔を上げない。言い訳を先にしてはいけない。まず、自分がしたことを認めなければならない。白音を守るためとはいえ、自分は主を殺した。それを曖昧にすれば、サーゼクスに話を聞いてもらう資格すらなくなる。
サーゼクスは静かに続けた。
「なぜ殺したのかな」
「妹に、手を出そうとしたからです」
「具体的に」
「白音を研究区画へ連れていき、本人の意思を無視して測定の準備をしていました。以前から、妹の素質を確認する、成長すれば有用だという話を聞いていました。今日、主は私にこう言いました。私が従順であれば、妹を丁重に扱うと」
言葉にすると、怒りがまた蘇りそうになった。
黒歌は拳を握る。拘束具がかすかに音を立てた。
「それは、妹を人質にするという意味だと判断しました」
「証拠は?」
「研究区画の術式、白音の足元に描かれていた測定陣、部屋にいた研究者たち。私の記憶だけでは足りないことは分かっています。ですが、調べていただければ痕跡は残っているはずです」
サーゼクスは白音へ視線を向けた。
白音はびくりとしたが、黒歌を見る。黒歌は小さく頷いた。答えられるなら答えていい。怖ければ黙っていていい。そう伝えたつもりだった。
「白音ちゃん」
サーゼクスの声は柔らかかった。
「怖いことを聞くけれど、君はその部屋に連れていかれたのかな」
白音は膝の上で手を握りしめた。
「……はい」
「何をされた?」
「足元が光ってました。知らない人が、白音を見てました。姉さまを呼んだけど、姉さまはいないって言われました」
声が震える。
「怖かったです」
その一言で、黒歌の胸が痛んだ。
サーゼクスは白音にそれ以上聞かなかった。視線を黒歌へ戻す。その表情は穏やかなままだが、部屋の空気は少しだけ重くなっていた。
「黒歌。君がしたことは、理由があっても簡単に許されるものではない」
「分かっています」
「主を殺した眷属悪魔は、危険な存在として扱われる。処分の対象になる可能性もある」
「はい」
「それを理解した上で、ここへ来たのかな」
「はい」
黒歌は顔を上げた。
魔王の目を見る。怖くないわけがない。サーゼクスがその気になれば、自分など抵抗もできずに終わるだろう。逃げてきた先が安全だと決まったわけではない。
それでも、白音をナベリウスへ戻すよりはいい。
「私をどう扱っても構いません」
白音が息を呑む。
「けれど、白音は何もしていません。あの子を、ナベリウス家に戻さないでください」
「姉さま……!」
白音が椅子から立ち上がりかける。警備の悪魔が動きそうになった瞬間、サーゼクスが片手で制した。
白音は黒歌のそばへ駆け寄り、服を掴んだ。
「姉さまも一緒がいい」
黒歌は返事ができなかった。
一緒にいたい。そんなことは決まっている。だが、その願いが叶うかどうかは自分では決められない。自分は罪を犯した。白音と同じ場所で守られる資格があるかどうかも分からない。
それでも白音は、黒歌の服を離さなかった。
サーゼクスはしばらく黙って二人を見ていた。
やがて、静かに口を開く。
「君を信じるとは、まだ言えない」
黒歌は頷いた。
「当然です」
「だが、君の話を聞く価値はあると思う。ナベリウス家については、こちらで調査する。白音ちゃんは、当面グレモリー家の保護下に置こう」
白音の指が、黒歌の服をさらに強く掴む。
「そして君、黒歌については、監視対象兼保護対象とする」
その言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
処分ではない。
引き渡しでもない。
自由ではない。だが、白音と引き離されて終わるわけでもない。
黒歌の全身から、少しだけ力が抜けた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うには早いよ。君の自由は制限される。白音ちゃんとの接触も、しばらくは監視付きになる。君が危険だと判断されれば、別の処置もあり得る」
「構いません」
黒歌は即答した。
「白音が、あそこに戻らないなら」
サーゼクスの目が、ほんの少しだけ細められた。怒りではない。何かを見定めるような目だった。
「分かった。まずは治療を受けるといい。かなり無理をしているようだ」
「治療は白音から――」
「君からだ」
穏やかな声なのに、有無を言わせない響きがあった。
黒歌は反論しようとして、そこで視界が大きく揺れた。緊張が切れたせいか、拘束具で抑えられていた疲労が一気に押し寄せてくる。膝が崩れ、白音の悲鳴が耳に届いた。
「姉さま!」
倒れる直前、黒歌は白音の頭に手を伸ばした。
「大丈夫にゃ」
指先が、白い髪に触れる。
「ほら、姉さま……ちゃんと、助けを呼べたにゃ」
白音の顔が歪む。
そこで、黒歌の意識はふっと遠のいた。
次に目を覚ました時、天井は知らないものに変わっていた。
柔らかな寝具。清潔な布の匂い。腕には治療用の術式が薄く光っている。手首の拘束具は外されていないが、きつくはなかった。すぐそばには白音が丸くなって眠っている。椅子に座ったまま、黒歌の手を握っていた。
黒歌はしばらく、その小さな寝顔を見つめた。
守れた。
少なくとも、今だけは。
部屋の外で、低い声がした。
「危険です」
女性の声。冷静で、凛としている。グレイフィアだろう、と黒歌はぼんやり思った。
「分かっている」
サーゼクスの声が答える。
「主を殺した眷属悪魔です。理由があったとしても、扱いを誤ればグレモリー家にも火種が及びます」
「そうだね」
「それでも保護なさるのですか」
「少なくとも、あの子は逃げ続ける道を選ばなかった。自分の命より妹の保護を優先した。危険であることと、話を聞く価値がないことは同じではないよ」
黒歌は目を閉じた。
助かったわけではない。信じられたわけでもない。サーゼクスは優しいだけの相手ではなく、魔王として状況を見ている。そこに甘えるつもりはなかった。
それでも、話を聞いてもらえた。
それが今は、信じられないほどありがたかった。
数日が過ぎた。
黒歌は治療を受けながら、グレモリー家の一室で過ごすことになった。部屋の外には監視がいる。白音と過ごす時間も、完全に自由ではない。それでも、ナベリウス家の屋敷とは違った。
白音が怯えていない。
それだけで、黒歌は呼吸が少し楽になった。
その日、白音が別室で診察を受けている間、黒歌は寝台に腰かけていた。拘束具はまだ手首にある。窓の外には赤い花が咲いていた。グレモリー家の庭は明るく、静かで、妙に現実味がなかった。
扉が小さく叩かれる。
「入っていいかしら」
聞こえたのは、少女の声だった。
黒歌は顔を上げる。
扉の隙間から、赤い髪の少女が入ってきた。幼さの残る顔立ち。けれど背筋はまっすぐで、瞳には隠しきれない警戒と好奇心がある。
リアス・グレモリー。
未来で白音の主になる少女。
黒歌は、その姿を見た瞬間、胸の奥で別の歯車が動き出す音を聞いた気がした。
リアスはしばらく黒歌を見つめてから、真っ直ぐに尋ねた。
「あなたが、白音を守った人?」
黒歌は笑った。
いつものように軽く、猫のように。
「さてにゃ。守れたかどうかは、白音が決めることだにゃあ」
リアスの眉が少しだけ寄る。
その反応を見て、黒歌は思った。
ああ、きっと最初から仲良くはなれない。
けれど、ここから始めるしかないのだ。
黒猫が逃げ込んだ魔王の家で、赤い髪の少女との最初の出会いが待っていた。