黒歌転生 死んだ姉は保健室にいる 作:好きな性癖発表ドラゴン
グレモリー家で与えられた部屋は、ナベリウス家のものよりもずっと柔らかい匂いがした。
寝具は清潔で、窓辺には赤い花が飾られている。薬の匂いも、魔力を抑える術式の気配もあるにはあるが、あの屋敷のような金属と薬品の冷たさはない。白音は最初こそ黒歌のそばから離れなかったが、数日経つと部屋の隅に置かれた小さな椅子に座れるくらいには落ち着いてきた。
それでも、黒歌が少し身じろぎするだけで白音の耳はぴくりと動く。黒歌が部屋の外へ目を向ければ、白音の指はすぐ服の裾を探す。守れたと思った瞬間に、その手の震えが、守りきれていないものを突きつけてくる。
「姉さま、痛くない?」
「痛くないにゃ。ほら、もう尻尾だって元気に動くにゃ」
黒歌はわざと二本の尻尾を揺らした。白音は少しだけ目を細める。笑った、と言うには薄い表情だったが、ここ数日の中ではずっとましだった。
手首には、まだ魔力を抑える拘束具がある。扉の外には見張りがいる。窓には外からも内からも反応する術式が張られていて、黒歌が本気で逃げようとすれば、すぐにサーゼクスへ伝わるだろう。
扱いは丁寧だ。食事も治療も与えられている。白音を無理に引き離されることもない。だが自由ではない。
当然だと思う。
自分は主を殺した眷属悪魔だ。理由があったとしても、グレモリー家から見れば危険人物でしかない。むしろこうして白音のそばにいられるだけ、破格の対応なのだろう。
だからこそ、黒歌は気を抜けなかった。
ナベリウス家とは違う。そう思いたい。けれど、違うと信じた瞬間に足元を掬われるのは、もう嫌だった。
扉が叩かれた。
「入っていいかしら」
聞き覚えのある少女の声。黒歌が返事をする前に、白音がそっと黒歌の背中へ隠れた。黒歌はその頭を軽く撫でる。
「どうぞにゃ」
扉が開き、赤い髪の少女が姿を見せた。
リアス・グレモリー。未来で白音の主になる少女。今はまだ幼さが残る顔立ちで、それでも背筋だけは貴族の令嬢らしく真っ直ぐだった。
リアスは黒歌を見る。次に白音を見る。それから、もう一度黒歌を見た。
「あなたが、白音を守った人?」
前にも聞かれた言葉だった。
黒歌は薄く笑う。
「守れたかどうかは、白音が決めることだにゃあ」
リアスの眉が少し寄った。
「そういう言い方、好きじゃないわ」
「初対面に近い相手へいきなり物騒なことを聞くお嬢様に言われても困るにゃ」
「物騒なこと?」
「あなた、本当に白音を守るために主を殺したの、って顔に書いてあるにゃ」
リアスは一瞬だけ言葉に詰まった。図星だったのだろう。けれど、すぐに唇を引き結び、黒歌を真っ直ぐに見た。
「聞きたいとは思っているわ。あなたが白音を守ったのは分かる。でも、人を殺したことを簡単に流していいとも思わない」
まっすぐな言葉だった。
黒歌は少しだけ目を細める。綺麗な場所で育った子の言葉だ、と思った。間違ってはいない。正しい。けれど、その正しさが届かない部屋もある。誰かを殺さなければ、誰かが壊される夜もある。
それをこの少女は、まだ知らない。
「綺麗なことを言うにゃ」
「何ですって?」
「褒めてるにゃ。グレモリー家のお嬢様は、ちゃんと綺麗な場所にいたんだなって」
リアスの赤い瞳に怒りが浮かんだ。
「あなた、助けてもらっている立場なのに、ずいぶん失礼ね」
「そうだにゃ。助けてもらったことには感謝してるにゃ」
「感謝している人の態度には見えないわ」
「警戒を解く理由にはならないにゃ」
空気が少し硬くなる。
白音が黒歌の服を握った。小さな指に力がこもる。それに気づいて、黒歌は言葉を止めた。リアスもまた、白音の表情を見て口を閉じる。
白音は二人の間で視線を揺らしていた。怒鳴り合いではない。けれど、張り詰めた空気は幼い白音にも伝わっている。
リアスは小さく息を吐いた。
「……ごめんなさい。怖がらせるつもりはなかったの」
白音は黒歌の背中に半分隠れたまま、リアスを見る。返事はしない。リアスはそれ以上近づかず、少し離れた場所で膝を折った。白音の目線より、ほんの少し下になるように。
「白音。ここで嫌なことはされていない?」
白音は黒歌を見た。
黒歌は小さく頷く。答えたくなければ黙っていていい。そう伝えたつもりだった。
「……されてない」
「そう。よかった」
リアスは安堵したように笑った。作った笑みではなかった。心からほっとしている顔だった。
「もし嫌なことがあったら、私かお兄様に言いなさい。ここでは、あなたを勝手に連れていく人はいないわ」
黒歌の胸の奥が、わずかに動いた。
自信のある言い方だった。守られて育った者の、まっすぐな確信。けれど、その言葉に白音を縛る響きはなかった。所有するのではなく、安心させようとしている。
白音はすぐには頷かなかった。ただ、黒歌の服を握る力が少しだけ緩んだ。
リアスはそれを見て、無理に距離を詰めなかった。
その判断を、黒歌は黙って見ていた。
「白音、庭を見たことはある?」
リアスが尋ねる。
白音は首を横に振った。
「この家の庭には、赤い花がたくさん咲いているの。少しだけ見に行かない?」
黒歌は即座に口を開いた。
「白音を連れ出すなら、私も行くにゃ」
リアスがこちらを振り向く。
「ここはグレモリー家よ。ナベリウス家とは違うわ」
「違うかどうかは、こっちが決めることにゃ」
「あなた、本当に失礼ね」
「白音を守るのに礼儀だけで足りるなら、いくらでも丁寧にするにゃ」
リアスは言い返そうとして、白音を見る。白音はまた不安そうに二人を見ていた。リアスの唇がきゅっと結ばれる。黒歌もまた、舌打ちしたい気持ちを飲み込んだ。
白音のために警戒しているのに、その警戒で白音を不安にさせている。
笑えない話だった。
「……監視の方も一緒なら、問題ないでしょう」
リアスが少しだけ声を落として言った。
「お兄様から許可は取るわ。あなたが一緒でもいい。だから、白音に庭を見せてもいいかしら」
命令ではなかった。
お願いの形だった。
黒歌は白音を見る。白音はまだ迷っていたが、窓の外へ視線を向けている。赤い花が気になっているのだと分かった。
「白音、行ってみるかにゃ?」
「姉さまも?」
「もちろんにゃ」
「じゃあ……行く」
リアスの表情が、ぱっと明るくなった。だが彼女はそこで飛びつくような真似はしなかった。嬉しさを抑えるように、小さく頷いただけだった。
庭へ出る時、見張りは二人ついた。黒歌の手首には拘束具があり、術式もいくつか反応している。けれど白音は外の空気に触れると、少しだけ目を見開いた。
グレモリー家の庭は広かった。整えられた芝生に、赤い花がいくつも咲いている。遠くでは小鳥の声がして、風が花の匂いを運んでいた。ナベリウス家の庭も美しかったが、あちらには見られるための冷たさがあった。ここは少なくとも、誰かが安心して歩くための場所に見えた。
白音は黒歌の服を掴んだまま、花をじっと見ている。
リアスは庭の端に咲いていた花を一輪摘んだ。白音へ近づきすぎない場所で立ち止まり、そっと差し出す。
「これ、あなたに似合うと思ったの」
白音は戸惑い、黒歌を見上げた。
黒歌は少し迷った。花に害はない。術式の気配もない。リアスの手にも、悪意はない。
だから頷いた。
白音はおずおずと手を伸ばし、花を受け取った。赤い花を白い髪の近くに持っていくと、色がよく映えた。リアスは嬉しそうに笑った。
「やっぱり似合うわ」
白音は返事に困ったように花を見つめる。けれど、耳がほんの少しだけ動いた。嬉しい時の動きだった。
黒歌はそれを見逃さなかった。
リアスは未熟だ。まっすぐすぎて、こちらの傷に無遠慮に触れる時もある。自分が守られていることを、まだ本当の意味では知らない。
でも、白音を支配しようとしてはいない。
その事実だけは、認めてもよかった。
白音が花を見ている間、リアスは黒歌の横に立った。距離はある。近づきすぎれば黒歌が警戒すると分かっているのだろう。
「私、あなたのしたことが正しいとはまだ思えない」
「私も、正しかったなんて言うつもりはないにゃ」
リアスが驚いたようにこちらを見る。
黒歌は赤い花を見つめたまま続けた。
「あれが綺麗な選択だったなんて、私だって思ってないにゃ。白音の前で見せたいものでもなかった。でも、あのまま白音が壊されるのを見ているくらいなら、私は何度でも同じことをするにゃ」
リアスは黙った。
風が二人の間を通る。白音は少し離れた場所で、花びらを指で撫でている。見張りたちは動かない。
リアスはしばらくして、低い声で言った。
「私は、白音にそんな顔をさせたくない」
黒歌はリアスを見る。
少女の顔には、怒りも困惑も残っていた。だがそれ以上に、白音を怖がらせたくないという感情があった。
「だったら、覚えておくといいにゃ」
「何を?」
「守るって言葉は、綺麗なだけじゃ済まないにゃ」
リアスはすぐには返事をしなかった。
たぶん、今の彼女にはまだ分からない。けれど、聞き流してはいない。受け取ろうとしている。それだけで、黒歌の中の警戒がほんの少しだけ形を変えた。
信頼ではない。
でも、完全な敵でもない。
部屋へ戻る時、白音はリアスに向かって小さく頭を下げた。
「……お花、ありがとう」
リアスの顔が明るくなる。けれど彼女は騒がず、白音に合わせるように静かに頷いた。
「どういたしまして。また見に行きましょう」
白音は黒歌の袖を掴みながら、小さく頷いた。
その様子を見て、黒歌は内心でため息をつく。
悪くない子だ。
けれど、白音を預けるにはまだまだ頼りない。
そう思いながらも、少なくともこの家で白音が笑う可能性を、初めて少しだけ見た気がした。
その夜、サーゼクスが部屋を訪れた。
白音は疲れたのか早めに眠っている。赤い花は水を入れた小さな瓶に挿され、枕元に置かれていた。黒歌は寝台の端に座り、拘束具のついた手首を膝の上に置いていた。
「リアスと話したそうだね」
「話したというか、喧嘩を売られたというかにゃ」
サーゼクスは苦笑した。
「妹は少し真っ直ぐすぎるところがある」
「お嬢様だったにゃ」
「否定はしないよ」
その返しに、黒歌は思わず少し笑った。
サーゼクスは白音の枕元にある花を見る。
「けれど、白音ちゃんは花を受け取ったんだね」
「白音を見る目は、悪くなかったにゃ」
「そうか」
サーゼクスの声に、わずかな安堵が混じった。
黒歌はそれを聞きながら、まだこの魔王を信用しきってはいない自分を自覚していた。けれど、ナベリウス家の主とは違う。少なくとも、白音の怯えを利用するような真似はしていない。
その違いを認めることくらいは、してもいいのかもしれない。
サーゼクスは少しだけ表情を改めた。
「しばらく私は、外の用件で動くことになる。日本方面の件もあってね」
黒歌の耳が動いた。
日本。
その単語が、前世の記憶とは別の場所を刺激する。知っている未来の断片が、頭の奥で淡く光った。
姫島。
朱乃。
朱璃。
堕天使。
炎。
母を失った少女。
黒歌は膝の上の手を握った。
「どうかしたかな?」
サーゼクスが気づく。
黒歌はすぐに笑った。
「なんでもないにゃ。日本って聞いて、ちょっと懐かしい気がしただけにゃ」
「行ったことが?」
「ないにゃ」
「なら、不思議な話だね」
「猫にはいろいろあるにゃ」
サーゼクスは深く追及しなかった。ただ、黒歌を見つめる目には、何かを測るような静けさがあった。
黒歌は視線を逸らし、眠る白音を見た。
赤い花を抱くように眠る妹。少しだけ穏やかになった寝顔。その隣で、黒歌は別の少女の泣き顔を思い出していた。
救えなかったはずの誰か。
まだ出会っていない少女。
そして、その母親。
赤い髪のお嬢様を少しだけ見直したその夜、黒歌は次に救えなかったはずの少女の名を思い出した。