黒歌転生 死んだ姉は保健室にいる   作:好きな性癖発表ドラゴン

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第6話 朱乃の母を助ける夜

 

 

 日本、という言葉を聞いた瞬間から、黒歌の胸の奥は落ち着かなかった。

 

 グレモリー家の一室で療養している間も、白音の寝顔を見ている間も、手首の拘束具がわずかに鳴るたび、頭の奥に別の記憶が滲んでくる。姫島。朱乃。朱璃。堕天使。母を失い、父を憎み、笑顔の奥に深い傷を隠す少女。

 

 知っている。けれど、全部は思い出せない。

 

 いつ、どこで、誰が、どの瞬間に襲うのか。細かい流れまでは曖昧だった。ただ、近い。もうすぐ何かが起こる。その感覚だけが、猫の爪のように胸の内側を引っかいていた。

 

「黒歌」

 

 サーゼクスの声に、黒歌は顔を上げた。

 

 部屋にはサーゼクスとグレイフィアがいた。白音はリアスと一緒に別室にいる。監視付きではあるが、最近は短い時間なら黒歌から離れても泣かなくなってきた。それを喜んでいいのか、寂しがるべきなのか、黒歌にはまだ分からない。

 

「君が日本方面の件を気にしていると聞いた」

 

「耳がいいだけにゃ」

 

「それだけかな」

 

 穏やかな問いだった。だが、逃げ道のない声でもあった。

 

 黒歌は少しだけ笑ってみせる。いつもの軽口で誤魔化せば楽だった。猫らしく肩をすくめて、気のせいだと言えばいい。けれど、それで本当に誰かが死んだら、自分は何のために未来を知っているのか分からなくなる。

 

「嫌な予感がするにゃ」

 

 サーゼクスの目が細くなる。

 

「予感?」

 

「姫島って名前を聞いてから、胸がざわつくにゃ。妖怪の勘だって言ったら、信じるかにゃ?」

 

「信じるには足りないね」

 

「だろうにゃ」

 

 黒歌は苦笑した。

 

 前世知識のことは言えない。原作を知っているなどと口にしたところで、信じてもらえる保証はない。むしろ危険視されるだけだ。けれど、何も言わずに勝手に動けば、それこそ信頼を失う。

 

「日本へ行くなら、連れていってほしいにゃ」

 

 グレイフィアの視線が鋭くなった。

 

「あなたは監視対象です。外部へ出すには危険が大きすぎます」

 

「分かってるにゃ」

 

「ナベリウス家の件も解決していません。あなたが動けば、グレモリー家が主殺しの逃亡者を利用していると見られる可能性もあります」

 

「それも、分かってるにゃ」

 

 黒歌は膝の上で手を握った。拘束具の冷たさが皮膚に触れる。

 

「でも、何もしなかったら後悔する気がするにゃ。あの子を……まだ会ってもいない子を、見捨てたくない」

 

 サーゼクスは黙って黒歌を見ていた。

 

 やがて、静かに息を吐く。

 

「同行は許可する。ただし、単独行動は認めない。監視役をつける。勝手な戦闘行為も原則禁止だ」

 

「原則、にゃ?」

 

「状況次第では、君の勘に賭ける必要もあるかもしれない」

 

 黒歌は目を伏せた。

 

「ありがとう、ございます」

 

 最後だけ、猫語は出なかった。

 

 日本へ向かう前、黒歌は白音に話をした。

 

 白音はリアスの隣に座っていた。赤い花を押し花にするのだと、リアスが用意した紙をそっと触っている。黒歌が部屋に入ると、白音はすぐに顔を上げた。

 

「姉さま」

 

「白音。少しだけ、出かけてくるにゃ」

 

 白音の表情が固まった。

 

「また?」

 

 その一言が、黒歌の胸に刺さった。

 

 またどこかへ行くのか。今度は帰ってくるのか。置いていかれるのか。白音はそこまで言わなかったが、目が全部言っていた。

 

 黒歌は白音の前にしゃがむ。

 

「すぐ戻るにゃ。今度は、勝手に消えたりしないにゃ」

 

「白音も行く」

 

「危ないかもしれないにゃ」

 

「でも、姉さまがいない方が怖い」

 

 黒歌は言葉に詰まった。

 

 白音を連れていけば危険に巻き込む。連れていかなければ不安を与える。どちらを選んでも、白音の心を完全には守れない。

 

 その時、リアスが小さく口を開いた。

 

「白音。黒歌が戻るまで、私が一緒にいるわ」

 

 白音はリアスを見る。すぐには頷かない。だが、以前のように怯えて隠れることもなかった。

 

 リアスは無理に近づかず、少しだけ声を柔らかくした。

 

「約束する。あなたを勝手に連れていく人は、ここにはいない。黒歌が帰ってくるまで、待つ場所を一緒に守るわ」

 

 黒歌はその横顔を見た。

 

 お嬢様だ。未熟で、まっすぐで、守る痛みをまだ知らない少女。けれど、白音を安心させようとしていることだけは本当だった。

 

 白音は迷った末に、黒歌の袖を掴む。

 

「帰ってきて」

 

「帰ってくるにゃ」

 

「絶対?」

 

「絶対にゃ」

 

 また約束をした。

 

 守れる保証など、どこにもない。それでも白音の前では、そう言うしかなかった。

 

 日本の空気は、妙に懐かしかった。

 

 黒歌にとっては初めてのはずなのに、前世の記憶が胸の奥で揺れる。夜の湿った風。遠くの街明かり。木々の匂い。神社の境内に漂う清められた空気。だが同時に、この世界の日本には、自分の知る日本にはなかった気配が息づいていた。

 

 神の残り香。退魔の術式。妖怪の足跡。人ならざる者への警戒。

 

 黒歌は同行しているグレモリー家の監視役と共に、姫島に関わる地域へ入った。表向きはサーゼクスの使いとしての確認。実際には、黒歌の不確かな予感を確かめるための行動だった。

 

 境内の近くで、黒歌は足を止める。

 

 子どもの声がした。

 

「お母様、見てください」

 

 幼い少女が、母親へ駆け寄っていた。黒髪の小さな少女。表情は明るく、母を見る目には全幅の信頼がある。

 

 姫島朱乃。

 

 そのそばにいる女性は、穏やかな笑みを浮かべていた。長い黒髪。柔らかな所作。けれど、ただ優しいだけではない。周囲の気配に気づいている。黒歌たちの存在も、かなり早い段階で察していた。

 

 姫島朱璃。

 

 生きている。

 

 その事実に、黒歌は息を呑んだ。

 

 当然だ。まだ悲劇は起きていない。今なら、この人は生きている。朱乃は母に甘えている。未来の傷など、まだどこにもないように見える。

 

 朱璃が朱乃の頭を撫で、ふとこちらへ視線を向けた。

 

「あなた、何かを探しているのですか?」

 

 黒歌は一瞬だけ迷い、いつもの笑みを作った。

 

「散歩中だにゃ」

 

「そうですか」

 

 朱璃は穏やかに微笑む。

 

「けれど、ただの散歩にしては、ずいぶん張り詰めた目をしています」

 

 見抜かれている。

 

 黒歌は内心で舌を巻いた。母親だからか、姫島の血筋だからか、あるいは朱璃自身の勘なのか。少なくとも、簡単に誤魔化せる相手ではない。

 

 朱乃が朱璃の袖を掴む。

 

「お母様?」

 

「大丈夫ですよ、朱乃」

 

 その声音に、黒歌は白音を思い出した。

 

 守られている子どもの顔。母のそばにいられる安心。それが今夜にも失われるかもしれないと思うと、黒歌の胃の奥が冷たくなった。

 

 夜になってから、異変は起きた。

 

 最初は風の乱れだった。次に、境内を覆うような術式の気配。外から内へ閉じ込めるためのもの。逃げ道を塞ぐためのもの。

 

 黒歌は歯を食いしばった。

 

「来たにゃ」

 

 監視役が反応するより早く、黒歌は走り出していた。

 

「黒歌、勝手な行動は――」

 

「後で怒られるにゃ!」

 

 境内の奥で、朱乃の悲鳴が上がった。

 

 複数の襲撃者がいた。退魔の装束。姫島に連なる気配。全員が迷いなく朱璃と朱乃を狙っている。朱璃は朱乃を背に庇い、結界を張っていたが、数が多い。しかも相手は朱璃の術式を知っている動きだった。

 

 黒歌は黒い炎を走らせ、襲撃者の足元を断つ。

 

「子どもを狙うなんて、趣味が悪いにゃ」

 

 軽口を叩いたが、声の奥は冷えていた。

 

 白音の時と同じだ。子どもを道具にする者、子どもの前で大切な人を奪おうとする者。その気配だけで、身体が勝手に怒りを覚える。

 

 だが、今度は暴走しない。

 

 怒りだけで動けば、また取り返しのつかないものを壊す。黒歌は妖気と悪魔の魔力を抑え込み、足止めと妨害に徹した。朱乃の近くへ飛び込んでくる刃を弾き、朱璃の結界に重ねるように黒い炎の壁を走らせる。

 

 それでも、全部には届かなかった。

 

 横合いから放たれた術式が、黒歌の結界をかすめて抜ける。朱乃を狙った一撃だった。黒歌が足を踏み出すより先に、朱璃が動いた。

 

「朱乃!」

 

 朱璃が朱乃を抱きしめる。

 

 鈍い音がした。

 

 朱乃の目が見開かれる。朱璃の身体が大きく揺れ、そのまま崩れ落ちた。

 

「お母様……?」

 

 黒歌の耳が、朱璃の呼吸を拾った。

 

 細い。弱い。だが、まだ消えていない。

 

「っ、まだ間に合う!」

 

 黒歌は朱璃のそばへ駆け寄った。朱乃が泣きながら朱璃に縋りつく。

 

「お母様! お母様、起きてください!」

 

「朱乃、離れるにゃ!」

 

「いやです!」

 

「助けるためにゃ!」

 

 その言葉で、朱乃の手がわずかに緩んだ。

 

 黒歌は朱璃の胸元に手を当てる。回復魔法は得意とは言えない。けれど、眷属悪魔として得た魔力、猫魈としての生命感知、妖術による補助。全部を無理やり繋ぎ合わせる。

 

 朱璃の命の灯は、今にも消えそうだった。

 

 黒歌は自分の魔力を流し込む。朱璃の傷そのものを完全に治すことはできない。だが、消えかけた命をほんの少しだけ繋ぎ止めることならできるかもしれない。

 

「消えるな……!」

 

 語尾が消える。

 

 白音の時と同じ声だった。

 

 朱乃が震えながら黒歌を見ていた。黒歌は構わず、術式を重ねる。グレモリー家の監視役も遅れて駆けつけ、補助の術式を展開した。襲撃者たちは撤退を始めている。追う余裕はない。

 

 今は、朱璃を死なせない。

 

 どれほど時間が経ったのか分からなかった。

 

 やがて朱璃の呼吸が、かすかに安定した。意識はない。傷は深い。普通なら、死んだと判断されてもおかしくない状態だ。だが、命は残っている。

 

 黒歌は息を吐き、片膝をついた。

 

「……繋がったにゃ」

 

 朱乃が黒歌に縋るように近づく。

 

「お母様は? お母様は、生きているんですか?」

 

 黒歌は朱乃を見た。

 

 泣き腫らした目。震える手。母を失う恐怖に押し潰されそうな小さな身体。ここで嘘をついて、母は死んだと告げることはできなかった。

 

 それは、あまりにも酷い。

 

 黒歌は朱乃の前にしゃがむ。

 

「生きてるにゃ」

 

 朱乃の息が止まったように見えた。

 

「ほんとう……?」

 

「本当。でも、今すぐ会える状態じゃないにゃ。お母さんは、とても深く傷ついてる。生きていることが知られたら、また狙われるかもしれない」

 

「いや……いやです。お母様に会いたいです」

 

「分かってるにゃ」

 

 黒歌は唇を噛んだ。

 

「でも、守るために隠さなきゃいけない時があるにゃ。今は、お母さんを安全な場所へ連れていく。治療する。必ず、会えるようにする」

 

「いつ?」

 

 答えられなかった。

 

 朱乃の目から、また涙が溢れる。

 

「いつ会えるんですか……?」

 

「分からないにゃ」

 

 黒歌は嘘をつかなかった。

 

「でも、死んでない。消えてない。そこだけは、信じてほしいにゃ」

 

 朱乃は泣きながら朱璃の方を見る。すぐに駆け寄りたいのを、必死に堪えている。まだ幼いのに、黒歌の言葉を理解しようとしていた。理解したくない現実を、飲み込もうとしていた。

 

 黒歌はその姿を見るのが苦しかった。

 

 救えた。

 

 朱璃は生きている。

 

 けれど、朱乃を母の腕に返すことはできない。今すぐ抱きしめさせることも、安全だと言い切ることもできない。

 

 命を繋いでも、夜は終わらなかった。

 

 事後処理は、サーゼクスの判断で進められた。

 

 朱璃はグレモリー家側の秘匿治療下に置かれることになった。対外的には死亡、あるいは行方不明に近い扱い。少なくとも、襲撃者や姫島側の不穏分子に生存を知られてはならない。

 

 朱乃本人には、母が生きていることを伝える。ただし、居場所と詳しい状態は伏せる。幼い朱乃に秘密を抱えさせるのは酷だ。だが、完全に知らされない絶望の底へ突き落とすよりは、ずっとましだった。

 

 サーゼクスは黒歌を呼び出した。

 

 黒歌は拘束具のついた手を膝に置き、頭を下げる。勝手に走ったことへの叱責は覚悟していた。

 

「君はまた、自分一人で背負おうとしたね」

 

「……返す言葉もないにゃ」

 

「同行を許可したのは私だ。だが、君は監視役の制止を振り切った。危険な行動だった」

 

「はい」

 

「それでも、君がいなければ朱璃は死んでいた可能性が高い」

 

 黒歌は顔を上げられなかった。

 

「助けられた、とは言いきれないにゃ」

 

「命は繋いだ」

 

「でも、朱乃は泣いてたにゃ。お母さんに会えないって、泣いてた」

 

 サーゼクスは少しだけ黙った。

 

「救うというのは、いつも綺麗な形になるわけではないよ」

 

「……嫌な言葉にゃ」

 

「そうだね。私も好きではない」

 

 その声音には、魔王としての重さがあった。

 

 黒歌は初めて、サーゼクスもまた、全てを思い通りに救えるわけではないのだと感じた。

 

 グレモリー家へ戻ると、白音が黒歌に飛びついてきた。

 

「姉さま!」

 

 小さな身体が胸にぶつかる。黒歌はよろめきながら抱き返した。白音の体温がある。そこにいる。帰ってきたのだと、ようやく実感した。

 

「ただいまにゃ」

 

「帰ってきた」

 

「約束したからにゃ」

 

 白音は黒歌の服を握ったまま、顔を上げる。

 

「姉さま、悲しいの?」

 

 黒歌は返事に迷った。

 

 朱璃は生きている。朱乃は母の死からは救われた。けれど、母に会えない夜からはまだ救われていない。泣いていた少女の声が、耳から離れなかった。

 

「少しだけにゃ」

 

 白音は黒歌の手を握った。

 

 何も聞かない。ただ、握ってくれる。その温かさに、黒歌は少しだけ救われた。

 

 リアスも部屋の隅にいた。白音を見守っていたのだろう。黒歌と目が合うと、いつものように強気な顔をしようとして、少し失敗した。

 

「戻ったのね」

 

「戻ったにゃ。白音を見ててくれて、ありがとにゃ」

 

 リアスは驚いたように瞬きした。

 

「……別に、約束したからよ」

 

「その約束が助かったにゃ」

 

 リアスは少しだけ頬を赤くし、そっぽを向いた。

 

 黒歌は白音を抱きしめながら、窓の外を見た。夜は静かだった。だが、静けさの奥には、まだいくつもの悲劇が眠っているのだろう。

 

 未来を変えても、悲しみまで消せるとは限らない。

 

 命を救えても、その子をすぐ母の腕に返せるとは限らない。

 

 黒歌は初めて、それを知った。

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