黒歌転生 死んだ姉は保健室にいる 作:好きな性癖発表ドラゴン
朱璃を救った夜から、黒歌は眠りが浅くなった。
目を閉じるたびに、泣きじゃくる朱乃の声が耳の奥で蘇る。母は生きている。けれど、今は会えない。そう伝えた時の幼い瞳が、どうしても忘れられなかった。
命を繋げば、それで終わりだと思っていたわけではない。それでも、救えた命のすぐそばで、救いきれない涙があることを、黒歌は初めて知った。守るために隠す。守るために離す。その言葉は、思っていたよりずっと冷たかった。
白音は、今日も黒歌の隣で眠っている。
小さな身体を丸め、黒歌の袖を掴んだまま離さない。少し前よりは落ち着いてきた。リアスと庭へ出られるようにもなった。けれど、眠る時だけは、まだ黒歌の服を握る。
黒歌はその指先を見つめた。
このままずっと、そばにいたい。白音が目を覚ました時、一番近くにいられる姉でいたい。何かに怯えた時、すぐ抱きしめられる距離にいたい。
だが、自分がそばにいる限り、白音へ向く危険も消えない。
ナベリウス家の恨み。主殺しの罪。悪魔社会の警戒。姫島の件で見えた、子どもや家族を狙う何者かの気配。それらがいつ白音へ伸びるか分からない。
一緒にいることが、必ずしも守ることではない。
そう考えた瞬間、胸の奥が軋んだ。
「君はまた、一人で決めようとしているね」
背後から声がした。
黒歌は振り返る。扉のそばにサーゼクスが立っていた。いつからいたのか分からない。だが、その穏やかな目は、こちらの考えを見透かしているようだった。
「魔王様は、猫の考えまで読めるのかにゃ」
「読めるわけではないよ。ただ、君は白音ちゃんを見る時、いつも何かを決めようとしている顔をする」
「嫌な観察力にゃ」
「必要な観察だと思っている」
黒歌は苦笑し、眠る白音の髪を撫でた。
「私が近くにいると、白音に危険が集まるにゃ。ナベリウス家のことも、まだ終わってない。朱璃さんの件もそうにゃ。ああいう連中が、白音を知らないままでいてくれる保証はないにゃ」
「だから離れる?」
「白音から危険を遠ざけるには、それが一番だと思ったにゃ」
サーゼクスはすぐには頷かなかった。
「白音ちゃんは、それを望むかな」
「望まないにゃ」
「君がいなくなれば、傷つく」
「分かってるにゃ」
黒歌は白音の手をそっと布団に戻した。だが、白音の指は眠ったまま黒歌の袖を探すように動く。それを見て、喉の奥が詰まった。
「でも、生きていれば会えるにゃ。近くにいて白音を巻き込むより、少し離れて危険を引き受けた方がいい」
「その“会える”を、君は必ず守れるのかな」
返事は出なかった。
約束を守れる保証など、どこにもない。それでも約束しなければ、白音は泣く。約束しても、泣く。どちらにしても傷つけるなら、せめて生きている可能性を残したかった。
サーゼクスは静かに息を吐いた。
「条件をつける。定期的にこちらへ連絡を入れること。白音ちゃんの保護はグレモリー家が引き受ける。ナベリウス家への調査も続ける。君を完全な自由行動にはしない」
「十分にゃ」
「それから」
サーゼクスの声が少しだけ強くなる。
「必ず帰りなさい」
黒歌は目を伏せた。
「魔王様に命令されると、断れないにゃ」
「命令ではないよ」
「なら?」
「願いだ」
その言葉に、黒歌はうまく笑えなかった。
リアスは、黒歌の話を聞くなり怒った。
「あなた、白音を置いていくつもりなの?」
赤い髪が揺れる。まだ幼い顔には、隠しきれない怒りがあった。黒歌が予想していたよりもずっと真剣な怒りだった。
「置いていく、という言い方は刺さるにゃ」
「同じでしょう。白音がどれだけあなたを必要としているか、分かっているの?」
「分かってるにゃ。分かってるから、離れるにゃ」
「意味が分からないわ」
リアスの声が震えた。
「あなたは白音を守るために、全部背負ったのでしょう? それなのに、どうして一番そばにいてあげないの」
黒歌は言い返せなかった。
正論だった。白音は黒歌を必要としている。黒歌も白音のそばにいたい。それを誰より分かっているから、リアスの言葉は痛かった。
「私がそばにいると、白音の周りに危険が集まるにゃ」
「なら、みんなで守ればいいじゃない」
「お嬢様の言葉にゃ」
「またそれを言うの?」
「でも、嫌いじゃないにゃ」
リアスが眉を寄せる。
黒歌は少しだけ笑い、すぐに頭を下げた。
「白音を、お願いしたいにゃ」
リアスが息を呑む気配がした。
黒歌は頭を下げたまま続ける。
「あなたは未熟にゃ。すぐ怒るし、真っ直ぐすぎるし、綺麗な場所にいる。でも、白音を怖がらせないように距離を取れる。約束を守れる。白音の涙を、見ないふりはしない」
「……褒めているの、それ」
「黒歌なりには」
リアスはしばらく黙っていた。
「勝手よ、あなた」
「そうだにゃ」
「白音を泣かせるわ」
「もう泣かせることは決まってるにゃ」
「なら、ちゃんと帰ってきなさい」
黒歌は顔を上げた。
リアスは怒っていた。けれど、その怒りの奥に、白音を守る覚悟が少しだけ見えた。
「白音を泣かせたままにしたら、許さないわ」
「怖いお嬢様にゃ」
「お嬢様じゃなくて、リアスよ」
黒歌は少しだけ目を細めた。
「頼んだにゃ、リアス」
白音に話すのが、一番難しかった。
部屋には、黒歌と白音とリアスだけがいた。サーゼクスはあえて同席しなかった。これは黒歌が白音へ話すべきことだと、分かっていたのだろう。
白音は黒歌の顔を見た瞬間、何かを察したようだった。小さな耳が伏せられる。袖を掴む手が、いつもより強くなる。
「姉さま、どこか行くの?」
黒歌は膝をつき、白音と目線を合わせた。
「少しだけ、離れるにゃ」
「いや」
即答だった。
黒歌の胸が詰まる。
「白音も行く」
「危ないかもしれないにゃ」
「なら、白音も一緒に危ないところに行く」
「それは駄目にゃ」
「姉さま、置いていかないって言った」
その言葉に、黒歌は何も返せなかった。
確かに言った。あの夜も、逃げる途中も、何度も言った。白音を置いていかない。いなくならない。そう言わなければ、白音が壊れてしまいそうだったから。
けれど、その約束が今、白音をさらに傷つけている。
「置いていくんじゃないにゃ」
「同じ」
白音の目に涙が浮かぶ。
「姉さまがいないなら、同じ」
黒歌は白音を抱きしめた。白音は抵抗せず、すぐにしがみついてくる。小さな手が背中の服を掴んだ。
「白音のそばにいたいにゃ。ずっと一緒にいたい。でも、姉さまがそばにいると、白音を狙う人が増えるかもしれないにゃ」
「白音、狙われてもいい」
「よくないにゃ」
「姉さまがいない方がいや」
黒歌は目を閉じた。
白音は何も間違っていない。子どもが姉と一緒にいたいと願うことの、何が悪いのか。守るためだと言いながら、その当然の願いを踏みにじっているのは自分だ。
「ごめんにゃ」
白音の肩が震えた。
「謝らないで」
「ごめんにゃ」
「姉さま、行かないで」
黒歌は白音の額に、自分の額をそっと寄せた。
「また会うにゃ」
「いつ?」
「分からないにゃ」
白音が息を詰まらせる。
黒歌は嘘をつけなかった。すぐ戻ると、簡単に言いたかった。明日には会える。来週には帰る。そう言えば、白音は少し安心したかもしれない。
けれど、守れないかもしれない約束をこれ以上重ねたくなかった。
「でも、絶対に会うにゃ。白音がここで待っていてくれるなら、姉さまは必ず帰ってくる」
「ほんと?」
「ほんとにゃ」
白音は泣きながら黒歌の服を握った。
「嘘だったら、いや」
「嘘にしないにゃ」
黒歌は白音をリアスの方へ連れていった。
白音は最後まで離れようとしなかった。リアスも、無理に引き剥がそうとはしない。ただ、白音の前に立ち、まっすぐに言った。
「あなたが黒歌を待つ場所を、私が守るわ」
白音は涙で濡れた目でリアスを見る。
「姉さま、帰ってくる?」
「帰ってこさせるわ」
リアスの声は強かった。
「黒歌が約束を破ったら、私が怒る。だから、あなたはここで待っていなさい」
白音は何度も黒歌を見た。黒歌は笑った。いつものように軽く、猫のように。だが、うまく笑えている自信はなかった。
「白音」
「……なに」
「また会うにゃ」
白音は泣きながら頷いた。
その夜、黒歌はグレモリー家を出た。
見送りは少なかった。サーゼクスとグレイフィア。そして、少し離れた場所にリアス。白音は部屋にいる。顔を見れば、黒歌は動けなくなる。だから、最後の最後だけは会わなかった。
サーゼクスは黒歌へ小さな術式具を渡した。
「定期連絡用だ。無理に遠くへ行きすぎないこと。何かあれば必ず知らせなさい」
「監視付きの家出にゃ」
「家出というには、少し物騒だけれどね」
グレイフィアは相変わらず厳しい顔をしていた。
「無謀な行動は控えてください。あなたの身に何かあれば、白音様が傷つきます」
「分かってるにゃ」
リアスは腕を組んだまま、黒歌を睨むように見ていた。
「白音を泣かせた分、ちゃんと帰ってきなさい」
「怖いにゃあ」
「本気よ」
「知ってるにゃ」
黒歌は最後に、白音のいる部屋の窓を見上げた。灯りがついている。カーテンは閉まっている。そこに白音がいる。泣いているかもしれない。眠れずにいるかもしれない。
今すぐ駆け戻りたかった。
けれど、戻らなかった。
「また会うにゃ、白音」
小さく呟き、黒歌は歩き出した。
数日後、黒歌は山間の道を進んでいた。
身を隠しながら、ナベリウス家の残党の動きと、朱璃を襲った者たちの痕跡を追っていた。いくつかの情報は拾えた。だが、妙なことに、追えば追うほど気配が薄くなる。
悪魔の魔力だけではない。退魔師とも違う。妖怪の気配でもない。まるで世界の隙間に染み込んだ影のように、認識しようとするほど輪郭がぼやける。
「嫌な感じにゃ」
崖沿いの道で、黒歌は足を止めた。
風が止まっている。
次の瞬間、背後の空間が歪んだ。
黒歌は横へ跳ぶ。さっきまで立っていた場所に、黒い刃のようなものが突き刺さった。土が抉れ、岩肌に細い亀裂が走る。
「やっぱり来たにゃ」
黒歌は尻尾を膨らませ、黒い炎を足元へ走らせた。だが、炎は途中で不自然に揺らぎ、霧のように散る。
影の中から、何者かが現れた。
顔は見えない。黒い外套のようなものに覆われ、声も歪んでいる。だが、こちらを知っている気配だけはあった。
「妹から離れたのは正解だったな」
黒歌の中で、温度が消えた。
「白音の名前を、知ってるのかにゃ」
「知っているとも。お前が何を守ろうとしているのかも」
黒歌は踏み込んだ。
黒い炎を囮に、影へ爪を走らせる。だが相手は半歩だけずれ、黒歌の妖術の発動点を正確に潰してきた。悪魔の魔力を流そうとした瞬間、内側から流れが乱される。
こちらの力を知っている。
いや、知っているだけではない。対策されている。
黒歌は距離を取ろうとした。だが、足元の影が不自然に伸び、足首に絡みつく。一瞬の遅れ。その隙に、黒い刃が視界の外から走った。
衝撃。
痛みより先に、身体の奥の魔力が途切れる感覚があった。
「あ……」
黒歌は膝をつく。
熱いものが身体から抜けていく。視界が揺れた。耳鳴りがする。自分がどこを斬られたのか、すぐには分からなかった。ただ、致命的だということだけは分かった。
影が近づいてくる。
黒歌は爪を立てようとした。だが、指がうまく動かない。
「まだ……」
白音との約束が脳裏に浮かぶ。
また会うと言った。絶対に帰ると言った。嘘にしないと、泣いている妹に誓った。
ここで終われば、白音はまた置いていかれる。
そんなのは嫌だ。
黒歌は最後の力で立ち上がろうとした。その瞬間、足元の崖が崩れた。あるいは、崩されたのかもしれない。踏みしめる場所が消え、身体が後ろへ傾く。
落ちる。
黒歌は影の顔を見ようとした。だが、闇に覆われて何も見えない。
崖下へ身体が投げ出される。
冷たい風が耳を裂く。空が遠ざかる。岩肌が流れる。痛みも恐怖も、どこか遠い。残ったのは、白音の泣き顔だけだった。
まだ、帰ってない。
心の中でそう呟いた瞬間、落下する先の闇が歪んだ。
地面ではない。水でもない。空間そのものが裂けたような暗がりが、黒歌の身体を呑み込もうとしている。魔力とは違う流れ。妖気とも違う。知らない世界の匂いがした。
黒歌は手を伸ばした。
届くはずのない誰かへ。
白音。
また会うって、言ったのに。
その思いだけを握りしめたまま、黒歌の意識は闇に沈んだ。
同じ夜、グレモリー家に報告が届いた。
サーゼクスは執務室でそれを聞いた。報告者の顔色は悪く、声も硬い。
「黒歌が襲撃を受けました。崖下へ落下。周辺を捜索しましたが、生存反応は確認できません」
サーゼクスの表情から、わずかに温度が消える。
「襲撃者は」
「不明です。ナベリウス家の残党とは断定できません。魔力の痕跡も、通常の悪魔のものとは違います」
「……そうか」
短い沈黙が落ちた。
報告者が続ける。
「白音様には、どうお伝えしますか」
サーゼクスは目を閉じた。
黒歌は帰ると言った。必ず戻ると約束した。白音はそれを信じて待っている。だが、今この時点で、黒歌が生きている証拠はない。
伝えなければならない。
その残酷さを理解しながら、サーゼクスは静かに息を吐いた。
その夜、黒猫は世界から消えた。
白い妹との約束だけを、果たせないまま残して。