ツーツーツー
「な、何が起こっているんだ……?」
隔離病棟の個人ルーム……そこでは一人の検査医師が、電話の前で茫然としていた。
彼は、黎明教会の導師に疑われている現状を打破するため、組織と裏取引のある御影家へ電話をかけた。
しかし、受話器の向こうから返ってきたのは、尋常ならざる悲鳴。
ただそれだけを残して、繋がりは途絶えた。
――この向こう側で、ただならぬ事態が起きている。
それも電話すら繋がらないほどのことが……。
「御影家が断絶する……?」
まずい――検査医師の団体が、今の立場を維持できているのは、ひとえに御影家との裏取引によるもの。
御影家の心配など微塵もしていないが、組織の後ろ楯がなくなるのは困る。
検査医師は、もう一度同じ番号にかけようとダイヤルを回す。
「緊急事態か?」
「う、うわぁ?!」
検査医師は、受話器を落とした。
いつの間にか、シオンが彼の手を握っている。
優しく包み込むような握り方。
だが、逃げようとしても指一本動かせない。
いや、そもそもどうしてここにいる?
扉は自動で閉まるはず……そう思って扉を見ると、杖がつっかえ棒のように挟まっていた。
「しかし、驚いたな」
シオンは検査医師を笑顔で見つめる。
しかし、目だけは笑っていなかった。
「私は、なかなか戻ってこない検査医師殿を心配して入ってきたのだが、どうして――先日、不合格だったはずの彼女がここにいる?」
シオンの低い声が静かに響き渡る。
彼女の視線は、この部屋に最初からいたメイド服の女性へ向けられていた。
間違いない……疑われている。
もし検査結果を偽装してまで、彼女をここに置いていたことがバレたらどうなるか……想像もできない。
どうにかして彼女を黙らせたまま、シオンをやり過ごす必要があった。
「いえ、あ、その……」
検査医師は、シオンに追求されてしどろもどろになる。
どうする? 黒だった奴を人情で保護したことにするか?
いや、こいつは白……再検査されれば誤魔化せない。
そこまで考えて、彼ははっと顔を上げる。そうだ……
「さ、再検査待ちなん……」
「いや、さっき迅速に再検査してたろ?」
「ぁあ! そうだったぁ!」
検査医師は頭を抱える。
どうするのが最善か……それが分からない。
「シオンさん……こ、こいつが、こいつが――
あたしたちを好き勝手に弄ぶんだ!!」
元
体を震わせてはいるが、その瞳はじっとシオンを捉えて離さない。
「大変だったのね……」
シオンの表情が、わずかに和らいだ。
その目が、検査医師ではなく、元
このまま
それが分かるのに、何もできない。
何をすれば現状を打破できるのか……それがまるで見えなかった。
「あ、あたしはいいんです。
それより連れていかれた相棒のことが心配で……」
「そうね。
たしかあなたの時は不合格が二人……いたはずね」
シオンと元
ふたりの冷たい視線が、周囲の空気を凍えさせる。
下手な返答では死ぬ……そんな雰囲気があった。
逃げ道を探すほど、頭の中が白くなっていく……もはや詰みの状況。
そして、最後に残ったのは取り繕う前の本音だけだった。
「あははっ、分からねぇのか?
テメェらにも人権なんかあるわけねぇだろうが!!」
検査医師は気が狂ったように叫ぶ。
それはこれまで自分を納得させてきた言い訳だった。
人権がないからいいんだ。みんなもやっているから悪くない……
自分でも分かる幼稚な言い訳を並べ立て、みっともなく足掻いている。
気づいた時には、シオンがこちらに向かってゆっくりと歩を進めていた。
「そうか、なら
「ひっ……!」
シオンが一歩前進するたびに、検査医師はじりじりと後退する。
もうダメだと分かっていても、逃げることをやめられない。
やがて、彼は壁際まで追い詰められる。
目の前には杖を振りかぶったシオンの姿……
検査医師は、反射的に身を構えた。
その瞬間、目の前で轟音が響き渡る。
検査医師は衝撃で尻餅をつき、慌てて顔を上げた。
そこには、杖と槍をぶつけ合うシオンと、彼の上司の姿があった。
*
シオンの杖とサギミヤの槍がぶつかり合っていた。
強い力が、杖を通してシオンに伝わってくる。
軽めの一撃だったとはいえ、ただの人間に受け止められるようなものではなかった。
つまり……彼もまた普通の人間ではない。
そこまで見抜いた直後、シオンは目の前の男を弾き飛ばした。
「……驚いたな。
検査医師のリーダーは部下を庇わないものと思っていたが……
それとも何か考えがあるのか? サギミヤ殿……」
「庇ったわけじゃねぇのよ……
部屋の中で暴れる品のない奴を止めただけの話さ」
サギミヤ……この辺りでは、都落ちで有名な人物だった。
元々は最深部の安全圏に席を持つ権力者。
だが、理想郷イデアで最も権力を持つ帝家との盟約を反故にした結果……家柄を剥奪されたと言われている。
「……お前は
その武器も
ならば、どのようにしてこれほどの力を手に入れた?」
普通の人間であれば、
御影家ですら、結局のところ護衛は
だが、この男は、明確に攻撃を受け止めた。それがどれだけあり得ないことか……
「……ふん、
戦える技術を生み出した。それだけさ」
「……まさか、遺者とも戦えるとでも?」
「いいや、遺者は無理だね。
攻撃は躱せても、ダメージを与える手段がねぇからな」
つまるところ対人間専門の戦闘能力……このままでは無駄でしかないが、仮に
「それで……庇いに来たのではないなら、何をしに来た?」
「そんなものはひとつさ。
心からの謝罪……」
次の瞬間、サギミヤは検査医師の胸元を槍で貫いた。
大量の血が服に染み込み、床へと滴り落ちる。
彼はもう助からない。
しかし、随分と処罰が早い。
まるで、この男を切り捨てる機会を待っていたかのようだった。
「何のつもりだ?」
「言ったでしょ? 謝罪……あとは命令違反の罰則かねぇ。
まぁ、昨今の情勢でこのレベルの不正を働いたら、もう殺すしかねぇでしょ?」
「検査の偽装は、あくまでも自分は関係ないと?」
「当たり前でしょう。
そちらさんとうちは一蓮托生……裏切るわけがありませんわ。
こいつは私欲に塗れて、大事なものを見失った……それだけの話ですわ」
これは嘘だ……あの小物に、検査の偽装や御影家との交渉などできるわけがない。
だが、追及できるほどの証拠はなかった。
今は、疑いの域を出ない。
「ああ、そうだ。
話は変わるけど、知ってますか?
御影家が遺者によって一家皆殺しにされたって」
「何が言いたい?」
「なんというか……タイミングが絶妙だと思いませんか?
こいつ……さっき御影家に連絡してたんですよ。
おそらく権力であなたを黙らせようとしたのでしょうね。
どうやってツテを付けたのかは知りませんがね」
カマをかけてきている。
シオンはそう判断した。
現状を鑑みれば、そう考えるのは不思議ではない。
問題なのは、それをネタに圧力をかけてきていること。
やはり、この組織をこのまま放置はできない。
「そんなことは知らないし、私は今……そんなことを話しているわけではない」
シオンは杖から刀を抜き放つ。状況次第では、サギミヤを殺すことになる。
その覚悟をもった抜刀だった。
「……何を求めてるんです?」
「話が早くて助かる……
検査医師会を
そして、貴様は私の部下となれ」
検査医師会を傘下に置けば、そのメリットは大きい。
直接不正を正せるだけではなく、
当然、デメリットもある。
一番は、やはり上流階層の反発だろう。
その決定を押し通した者として、シオンへの抗議も避けられないはずだ。
だが、それで必要な手を止める理由にはならない。
「組織ごと……ですかい。
全く強欲な人だ……まぁ、面倒なリーダーを降りる頃合いかもしれねぇな」
「は? 何を言っている?
これから貴様は忙しくなるぞ?」
シオンは監視も兼ねて、サギミヤのことを徹底的に使うつもりだった。
*
「とりあえず……これで戦力が減る一要素は潰せたね」
イリスは曇った空を見上げながら、よく通る声で言った。
ここは理想郷イデアから少し離れた場所……そこでイリスと喰聖は互いに向き合っていた。
「ああ、御影家が潰れたことで、ふざけた理由で
「なくならないの?」
イリスは、じっと観察するような眼差しを向ける。
喰聖がどんな考えなのかを知りたかった。
「ああ、なくならないだろうな。
人の浅ましさは変わらないし、既に権力は腐敗している。
検査結果の改ざん。不合格者の横流し。御影家から流れる賄賂。
御影家が滅んでも、それで終わりじゃない。甘い汁の味を覚えた者は、必ず次の受け皿を探す」
喰聖は、腕を組んで静かに語る。
語られるのは、彼だけが知る物語……
この現実に酷似しているというそれでは、様々な不正や搾取が横行していたみたい。
だから、その中のたった一つである御影家を滅ぼしたところで、終わらないんだって。
染みついた不正は多少の暴力じゃ揺るがない。それだけ人の欲が強いってことだね。
でも……
「へぇ、そうなんだ。
でも、腐敗しているとは思わないよ」
「……」
「平和にしたいも、誰かを独り占めしたいも、同じだよ。
どっちも欲望。どっちも願い。
たぶん、それだけの話なんだよ」
「だから許すのか?」
「許す? そんなことしないよ。
だって、意味ないもん。
願いって、何だって自分勝手でしょ?」
イリスは微笑んでいる。
その笑みには怒りも、悲しみもない。
ただ、いつも通りの穏やかな顔をしていた。
「変わらないな……おまえは」
「そんなことはないよ。
自分がわがままなのは、分かったからね」
イリスは空に手を伸ばす。
何かに届く気がした。
けれど、指先には何の感触もない。
それでも、自分が何に手を伸ばしているのかだけは、考え続けていた。
まだ、はっきりとは見えないけれど、手を下ろす気にはなれない。
「それで……これからどうするんだっけ?」
「これからに備えて、明確な脅威の排除と戦力の増強を行う必要がある」
「脅威の排除は分かりやすいけど、戦力の増強って何をするの?」
「人が強くなるには、良い師匠と、適正な戦場が必要になる。
師匠役はシオンに丸投げする。俺たちの役目は戦場の供給だ」
イリスは、喰聖が拳を握りしめているのを見た。
彼の知る物語では、多くの
その原因は単純な実力不足……弱者が蹂躙されるだけのお話。
なら、強くなるように誘導すればいい。
それがこれから行うこと。
勝てる戦場では意味がない。
勝てない戦場では死ぬだけ。
必要なのは、その中間。
死なずに越えられる、ぎりぎりの戦場を用意すること。
それができれば、多くの
「テストみたいだね……勉強しない子とかもいそう……」
「……そのタイプの
喰聖の声色が低くなる。
彼は、弱い者を切り捨てたいわけではないみたい。
けれど、全員を拾い上げている余裕なんかないって話。
いずれにせよ……向上し続けなければ死ぬ世界なのだから。
でも、イリスには、喰聖が少し落ち込んでいるように見えた。
たぶん、理想が高いのだろう。
現実をそこに合わせるのは難しい。
なら、少しくらい慰めてあげたいな。
「まぁ、追試でも赤点を取るような子は、生きている方がつらいんじゃないかな?
だから……キミは間違っていないよ」
イリスは知っている。
自分が通っていた実験施設において、痛い痛いと喚き、ただ泣くことしかしなかった子どもを……
無理やり連れてこられた。
自分の意志じゃない。
こんなはずじゃなかった。
そんな言い訳だけを並び立て、最終的に死ぬしかなかった人の姿を……
だから……これは間違いではないの。
「それに、余裕ができれば、きっとそんな人も救えるようになるよ。
ただ、その余裕が今はないってだけなんだから」
「……慰めは不要だ。
迅速に行動するのみだ」
「なら、さっそくテストの問題を作りに行こうか」
「ああ、分かっている」