星降る温室のラストレター 〜消えゆく願いと、嘘つきな番人〜 作:くにゅたろ
欠片の中に、声があった。
それは普通の声じゃない。
音じゃない。でも、確かに聞こえる。温度みたいなものが、指先から肩に、胸に、じわじわと染み込んでくる。
ユイはじっとしていた。
目を閉じる。
——誰かがいる。
その人は、笑っていた。
どこかの丘の上で、誰かと並んで座っていた。風が吹いていた。草の匂いがした。隣にいる人の声が、遠くて近くて、でも聞き取れなかった。
幸せだった。
ただ、それだけが伝わってきた。
この人は幸せだった。そしていつか、願いを使って、消えた。
ユイは手を離した。
温室の棚。並んだ欠片の光。夜の静けさ。
胸の中に、誰かの幸せな記憶がまだ残っていた。すぐには消えない。いつもそうだった。触れたあとしばらくは、知らない誰かの感情が自分の中に溶けている。
ユイはそれが嫌いじゃなかった。
でも今夜は、少し重かった。
「先輩、また素手ですか」
翌朝、レンが呆れた顔で言った。
「手袋どこやったんですか」
「棚の上」
「使ってください」
「面倒」
「面倒じゃないですよ! 普通の人は手袋なしで触ったら三日は寝込むんですよ? 先輩がおかしいんです」
レンはこういうキャラだった。よく喋る。よく驚く。でも仕事は真面目だ。
「昨日、古い欠片に触ってましたよね」
レンの声が、少し変わった。
「見てたの」
「たまたまです。あれ、C区画の最奥のやつですよね。誰も近づかないやつ」
「そう」
「なんで触ったんですか。あれ、カナさんでも『無理』って言ってた欠片ですよ」
ユイは少し考えた。
「気になったから」
「気になったから、で触るんですか」
「触れたから、触った」
レンが頭を抱えた。
「先輩の感覚、本当に理解できないです」
ユイは答えなかった。
理解できなくていい、と思った。自分でもうまく説明できないのだから。
その日の午後、ミオが来た。
閉館一時間前。ちゃんと開館時間内に来た。約束を守る子だ、とユイは思った。
「こんにちは」
ミオは棚の前をゆっくり歩いていた。欠片をひとつひとつ、目で追いながら。
「昨日と同じ場所にいる」
ユイが言うと、ミオは振り向いた。
「そうですか?」
「毎日来るつもり?」
「駄目ですか」
「別に」
ユイは作業を続けた。棚の記録を更新する。欠片の状態を確認する。いつもの仕事だ。
しばらく、静かだった。
ミオが欠片を見ていた。ユイが仕事をしていた。それだけだった。
悪くない静けさだった。
「ユイさん」
「何」
「これ、全部、願いですか」
ミオが棚を見ながら言った。
「そう」
「全部、誰かが願ったもの」
「そう」
「誰かが……消えて、残ったもの」
ユイは手を止めた。
振り向く。
ミオは欠片をじっと見ていた。悲しそうな顔じゃない。ただ、静かに、確認するような目だった。
「よく知ってるね」
「調べました。願いの仕組み」
「……そう」
「消えた人の、記憶が残るって本に書いてあって」ミオは欠片のひとつを指さした。触れなかった。「これも、誰かの記憶ですか」
「全部そう」
ミオの指が、空中で止まった。
「そっか」
小さく言って、手を下ろした。
ユイはミオを見ていた。
何かを確認した顔だった。何かを決めた顔に、少し似ていた。
「ミオ」
ユイは珍しく、名前で呼んだ。
ミオが振り向く。
「願い、使うつもりないの? 本当に」
少し間があった。
「はい」
「余命、一年くらい?」
ミオは驚いた顔をしなかった。
「……わかるんですか」
「透け方でだいたいわかる。願いを使った量と、残り時間は比例しない。でも体の状態と透明度でだいたい」
「すごいですね」
「答えて」
ミオは少し笑った。
「だいたい、そのくらいです」
「使えば助かる」
「はい」
「でも使わない」
「はい」
ユイはミオを見た。真っ直ぐに。
「なんで」
ミオは欠片の棚を見た。
「さっき確認できたから」
「何を」
「願いを使うと、誰かがここに来る」ミオは静かに言った。「誰かの記憶が、ここに積み上がる。私が生きるために、誰かの人生がここに来る」
ユイは黙っていた。
「それが嫌です」
ミオの声は、震えていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、静かに、はっきりと言った。
「私のために誰かが消えるのが、嫌です」
ユイは何も言えなかった。
言えなかったのじゃない。
何を言うべきか、わからなかった。
番人として、正しい答えはある。「願いを使うかどうかは本人の自由です」「代償があることは周知されています」。そういうことは言える。
でも今、ミオに向かって、それを言う気にならなかった。
なんでだろう、と思った。
「……誰も消えない方法を、探している」
気づいたら、口に出していた。
ミオが振り向いた。
「え」
「私が、探してる。欠片に触れ続けてきたから、見えてきたことがある。誰も消えずに願いを叶える方法が、もしかしたらあるかもしれない」
ミオはしばらく、ユイを見ていた。
それから、静かに言った。
「……本当ですか」
「まだわからない。でも、調べてる」
また間があった。
ミオの目が、少し揺れた。
信じたいと思っている目だった。
でも——ユイには見えた。
ミオは知っている。
この話が、簡単じゃないことを。「誰も消えない方法」なんて、そんなに簡単に見つかるものじゃないことを。
それでもミオは言った。
「そうですか」
笑っていた。
さっきと同じ、泣きそうな顔に似た笑顔で。
「なら、楽しみにしてます」
閉館の時間になった。
ミオが帰り際に振り向いた。
「ユイさん」
「何」
「欠片って、触るとどんな感じですか」
ユイは少し考えた。
「温かい」
「温かい?」
「誰かの記憶だから。誰かが大切にしてたものだから。怖くない。ただ、温かい」
ミオはそれを聞いて、また少し笑った。
今度は、泣きそうじゃなかった。
少しだけ、本物の笑顔に近かった。
「そっか」
それだけ言って、出ていった。
ユイはひとりになった。
温室の棚。無数の欠片。誰かの記憶。
さっき自分が言ったことを、頭の中で繰り返した。
——誰も消えない方法を、探している。
嘘じゃない。本当に探している。ただ、まだ何もわかっていない。可能性があると思っているだけだ。
でもミオはそれを聞いて、「楽しみにしてます」と言った。
信じてくれた。
……本当に、信じたのか?
ユイはミオの目を思い出した。
揺れていた。
信じたいけど、信じ切れない。そういう目だった。
つまりミオは知っている。「簡単じゃないかもしれない」と気づいている。
それでも笑った。
ユイが言ったことを、受け取った。
なぜ?
ユイにはわからなかった。
ただ、一番古い欠片の前に戻った。昨夜触れた欠片。誰かの幸せな記憶が入っているもの。
もう一度、触れる。
声が来る。記憶が来る。
丘の上。風。笑い声。
でもその奥に、もっと深いところに、何かあった。
昨夜は気づかなかった何かが、今夜は少しだけ見えた。
この欠片は——ただの記憶じゃない。
何かを、伝えようとしている。
——第3話へ続く——
次回:ユイが複数の欠片を同時に読み、見えてきた「繋がり」。
そしてミオが、ユイの研究ノートを見つける。
互いの嘘が、静かに交差する夜が来る。