星降る温室のラストレター 〜消えゆく願いと、嘘つきな番人〜 作:くにゅたろ
ミオが倒れたのは、雨の日だった。
温室の入り口で、突然座り込んだ。
ユイが気づいたのは、レンの声が聞こえたからだった。
「ユイさん! ミオさんが——」
走った。
入り口のドアのそばに、ミオがいた。壁に背を預けて、膝を抱えていた。顔が青い。いつもより、ずっと青い。
ユイはミオの前にしゃがんだ。
「ミオ」
「……すみません」
「謝らなくていい。どこが痛い」
「胸、が」ミオは浅く息をした。「少し、苦しくて」
ユイはミオの手首を見た。
透けていた。
三日前より、明らかに透けていた。
一週間で、これだけ進むのか。
ユイは胸の中で、何かが冷えるのを感じた。計算が、合わない。余命一年と思っていた。でも今の透け方は、一年じゃない。
もっと、短い。
「レン」
「は、はい」
「水。それと毛布、奥の棚から」
「わかりました」
レンが走った。
ユイはミオを見た。
「余命、一年じゃないね」
ミオは少し間を置いた。
「……三ヶ月、くらいって言われてました」
「なんで言わなかった」
「言ったら、ユイさんが焦ると思って」
ユイは何も言えなかった。
「急かせたくなかった。研究、急かしたくなかったんです」
ミオの声は苦しそうなのに、穏やかだった。
「馬鹿」
ユイは言った。
「すみません」
「謝るな」
レンが毛布と水を持って戻ってきた。ユイはミオの肩に毛布をかけた。水を渡す。ミオが少しずつ飲んだ。
雨の音が、屋根を叩いていた。
その夜、ミオは温室の奥の休憩室で横になった。
帰れる状態じゃなかった。レンが「泊まっていってください」と半ば強引に決めた。ミオは少し困った顔をしたけど、断らなかった。
夜が深くなって、レンは帰った。
温室にユイとミオだけになった。
ユイは作業台に向かっていた。ノートを開いていた。でも、ペンは動かなかった。
三ヶ月。
頭の中で、その数字が繰り返されていた。
三ヶ月で、今の透け方。このまま進めば、実際はもっと早いかもしれない。
手がかりは、ある。
三つの記憶の深いところに、消えた人たちの「純粋な意志の残滓」がある。それが何かはまだわからない。でも、そこに答えがある気がする。
気がする、だけだ。
確証がない。時間もない。
「ユイさん」
奥から声がした。
ユイは立ち上がった。休憩室のドアを開ける。
ミオが横になったまま、こちらを見ていた。
「起きてたの」
「眠れなくて」
ユイは部屋に入った。壁際に置いてある椅子を引いて、ミオのそばに座った。
「体、どう」
「さっきよりはいいです」ミオは少し笑った。「心配かけてすみません」
「謝るなって言った」
「癖なので」
しばらく、ふたりとも黙っていた。
雨はまだ降っていた。
「ユイさん」
「何」
「正直に教えてください」
ミオの声が、静かになった。
「研究、どのくらいですか」
ユイは答えなかった。
「手がかりは、ある。でもまだわからない」
「間に合いますか」
間があった。
正直に言うなら——わからない、だ。可能性はある。でも保証はない。三ヶ月で答えが出るかどうか、今の段階では言えない。
「……わからない」
ユイは言った。
「そうですか」
ミオは天井を見た。
「正直に言ってくれてありがとうございます」
「嘘はもうつかない」
「うん」ミオが小さく頷いた。「私も、ちゃんと言います」
「何を」
「怖い」
ユイはミオを見た。
「消えるのが、怖い。いなくなるのが、怖い」ミオの声は静かだった。震えていなかった。でも、はっきりしていた。「でも、それよりもっと怖いのは——誰かが消えることです」
「……」
「誰かの記憶が、あの棚に増えることが、怖い。私のために誰かがいなくなることが、怖い」
ユイは黙っていた。
「だから願いは使いません。それは変わらない」ミオはユイを見た。「でも、生きたい。本当に、生きたい」
その目が、真っ直ぐだった。
泣いていなかった。
ただ、真っ直ぐに、ユイを見ていた。
「……わかった」
ユイは言った。
「わかった。間に合わせる」
「さっきわからないって——」
「わからなくても、間に合わせる」
ミオが少し黙った。
それから、また笑った。
「無茶苦茶ですね」
「番人の仕事は無茶が多い」
「そうなんですか」
「今日からそういうことにした」
ミオがくすっと笑った。
本物の笑い声だった。泣きそうじゃない、ただの笑い声。
ユイはそれを聞いて、胸の奥で何かが決まった気がした。
ミオが眠ったのは、それから一時間後だった。
寝顔を見た。
穏やかだった。細い体。薄い色の髪が枕に広がっている。手首は、暗い中でもうっすら光って見えた。透けている証拠だ。
ユイはしばらく、その顔を見ていた。
動かなかった。
消えるのが怖いか、とまた自分に聞いた。
今度は、少し答えが近かった。
怖い。
怖いけど。
ユイは自分の右手を見た。光の角度によっては、うっすら透けている。三つ同時接触を繰り返しているせいか、少しずつ進んでいる。
このままいけばどうなるか、わかっていた。
欠片に触れ続けた人間が、欠片の側に引っ張られていく。番人の古い記録にそういう話があった。「深く触れすぎた者は、やがて欠片になる」。
なる前に答えを出せばいい。
そう思っていた。
でも——もし間に合わなかったら。
ユイは考えた。
正直に考えた。
もし研究が間に合わなくて、ミオの時間が尽きそうになったら。
そのとき、自分は何をするか。
答えは、すぐ出た。
出てしまった。
ユイは目を閉じた。
その答えを、まだ言葉にしたくなかった。言葉にしたら、本当になる気がした。
でも、胸の中ではもう決まっていた。
静かに、はっきりと、決まっていた。
ユイは温室に戻った。
一番古い欠片の前に立った。
夜中の温室。欠片の光だけが揺れている。雨の音。静けさ。
両手を伸ばした。
触れる。
左右、同時。さらにもう一つ——三つ。
頭が痛くなる。でも止めない。
声が来る。記憶が来る。丘の人、海の人、川の人。
その奥。もっと深いところ。
さらに手を伸ばした。
四つ目の欠片に触れた。
四つ同時。
頭が割れるように痛かった。目の奥が白くなった。でも、手を離さなかった。
見える。
深いところ。「純粋な意志の残滓」が集まっているところ。
そこに——形があった。
記憶じゃない。感情でもない。
もっと根本的な何か。
消えた人たちが最後に持っていたもの。願いを使って、消えていく瞬間に、それでも誰かのために思ったこと。
それが、欠片の中に眠っていた。
形になっていた。
ユイは息を飲んだ。
——これだ。
これを使えば。
この「意志の残滓」を、正しく繋げることができれば。
新しい願いの形が、作れるかもしれない。
誰も消えない願いの、形が。
手を離した。
床に倒れ込んだ。
頭が痛い。視界がぼやける。右手を見たら、肘のあたりまで透けていた。
四つ同時は、やりすぎだった。
でも。
「……見えた」
ユイは呟いた。
天井の欠片の光が、遠くに見えた。
答えが、見えた。
あとは、形にするだけだ。
時間が要る。でも、ある。
ユイは起き上がった。
ゆっくりと、作業台に戻った。
ノートを開く。
見えたものを、全部書いた。図を描いた。繋がりの構造を書いた。手が震えていたけど、止めなかった。
書きながら、思った。
間に合う。
たぶん、間に合う。
でももし間に合わなかったときの答えも、もう出ていた。
ユイはノートの端に、小さく書いた。
宛名のない、一文。
「君が生きていてくれて嬉しい」
書いてから、少し止まった。
早い、と思った。まだミオは生きている。まだ諦めていない。これを使う必要はない。
でも、消さなかった。
破らなかった。
ただ、ノートをそっと閉じた。
欠片の光が揺れていた。
雨の音が、少しずつ遠くなっていた。
——第5話へ続く——
次回:春が来た。
温室に、花が咲いている。
ミオは元気になった。
でも、何かが足りない気がする。
それが何かを、ミオはまだ知らない。