星降る温室のラストレター 〜消えゆく願いと、嘘つきな番人〜 作:くにゅたろ
春になった。
温室の中に、花が咲いていた。
白い花だった。欠片の棚の隙間から、いつの間にか伸びてきた蔓が、小さな花をつけていた。誰も植えていない。勝手に咲いた花だった。
ミオはその花を見た。
綺麗だな、と思った。
体は、軽かった。
あの冬の夜が嘘みたいに、今は普通に歩けた。息も苦しくない。手首も、透けていない。肌の色が、ちゃんとある。
治った。
何が起きたのか、ミオにはよくわからなかった。
ある朝目が覚めたら、体が軽くなっていた。医者に行ったら「異常なし」と言われた。もう一度行っても、同じだった。
願いを使っていないのに、治っていた。
誰かが、何かをしてくれた。
それだけはわかった。
温室に来るたびに、泣きたくなる。
理由がわからない。
悲しいわけじゃない。つらいわけでもない。ただ、温室に入ると、胸の奥が痛くなる。棚の欠片を見ると、何かが詰まったみたいになる。
泣きたい、というより——誰かを探している感じ、に近かった。
でも、誰を探しているのかわからない。
「ミオさん、また来たんですか」
レンが声をかけてきた。
相変わらず元気な、後輩番人の男の子。
「うん。なんか、来たくなって」
「ですよね」レンは少し笑った。「ミオさん、ほぼ毎日来てますもんね」
「邪魔じゃない?」
「全然。むしろ歓迎です」
レンはそう言って、棚の整理に戻った。
ミオはいつものように、棚の前をゆっくり歩いた。
欠片の光を、ひとつひとつ見ていく。
何かを探すように。
でも、何を探しているのかわからない。
「ねえ、レン」
「はい」
「ここ、前は何人の番人がいたの」
レンが手を止めた。
「今は四人ですよ。前も四人だったと思いますけど」
「そうだっけ」
「あれ、違いましたっけ」レンは少し首を傾げた。「どうだったかな。なんか、五人だったような気も……あれ?」
レンが困った顔をした。
「おかしいな。思い出せないですね」
「うん」
「気のせいかな。四人ですよ、たぶん。ずっと四人です」
ミオは棚を見た。
四人。
その言葉が、胸の中でうまく収まらなかった。
四人、のはずなのに。
もう一人、いた気がする。
でも、顔が思い出せない。名前も思い出せない。声の記憶もない。
ただ——いた気がする。
確かに、ここに。
ミオは温室の奥まで歩いた。
一番古い欠片のところへ。
いつからか、ここに来ると少し落ち着く気がした。理由はない。ただ、この欠片を見ていると、何かが近い感じがした。
欠片を見た。
白い光。静かな光。
他の欠片と少し違う。光が、穏やかだった。怒っていない。悲しんでいない。ただ、静かに光っている。
ミオは手を伸ばした。
触れてはいけないのはわかっていた。番人じゃないから。でも、触れたかった。
指先が、届く前に止まった。
止めたのは自分じゃなかった。
気持ちが、止まった。
——触れたら、泣いてしまう気がした。
なぜかわからない。
ただ、そう思った。
手を下ろした。
欠片の光が、ゆれた。
風もないのに、ゆれた。
その日の帰り際、ミオはベンチに座った。
温室の入り口近くにある、古い木のベンチ。
なんとなく座った。疲れたわけじゃない。ただ、ここで少し止まりたかった。
ベンチの端に、何かが挟まっていた。
紙だった。
折りたたまれた、小さな紙。
ミオは手に取った。
開いた。
文字が書いてあった。
細い字だった。ゆっくり書いた字じゃない。でも、丁寧だった。急いでいるのに、丁寧に書こうとした字だった。
「君が生きていてくれて嬉しい」
それだけだった。
宛名はない。署名もない。
ミオはその文字を見た。
知らない字だった。
誰の字か、わからなかった。
でも。
胸の奥が、痛くなった。
さっきまでとは違う痛さだった。
誰かを探している感じじゃない。
誰かに、見つけてもらった感じ。
涙が出た。
理由がわからないのに、涙が出た。
ミオは紙を両手で持ったまま、しばらくそこにいた。
温室の欠片の光が、入り口から漏れていた。
白くて、静かな光だった。
誰が書いたんだろう。
ミオは帰り道、ずっとそれを考えた。
でも、思い出せなかった。
字を知っている気もした。でも、誰の字かが出てこない。名前が出てこない。顔が出てこない。
声も、思い出せない。
いるはずの誰かが、どこかに行ってしまっていた。
消えた、というより。
最初からいなかったみたいになっていた。
でも、いた。
絶対に、いた。
この字が、証明していた。
ミオはメモを胸に押し当てた。
歩きながら、呟いた。
「ありがとう」
誰に言っているのかわからなかった。
でも、言わなければならない気がした。
「ありがとう」
もう一度、言った。
風が吹いた。
背中から、前に向かって。
押してくれるみたいな風だった。
ミオは少し立ち止まった。
それから、歩いた。
前に向かって、歩いた。
温室に、また花が咲いた。
白い花が、増えていた。
欠片の光と混ざって、温室の中が少し明るかった。
レンが「どこから咲いてるんですかね」と不思議そうにしていた。
「誰かが植えたんじゃないの」
「でも記録にないですよ。謎ですよね」
謎でいい、とミオは思った。
全部わからなくていい。
わからないまま、ここに来る。欠片を見る。花を見る。
それでいい。
ミオは一番古い欠片の前に立った。
今日も、光が揺れていた。
穏やかに、静かに。
「また来たよ」
小さく言った。
欠片は答えない。
でも、光が少し、温かくなった気がした。
気のせいかもしれない。
でも、ミオはそれを、気のせいにしたくなかった。
春の終わりに、温室の窓から空を見たら、星の欠片が落ちていた。
細い光の筋。白く、鋭く、地平線に向かって落ちていく。
一つ。
また一つ。
ミオはそれを見ながら、思った。
欠片が降るたびに、誰かの何かがここに来る。
それが悲しいことなのか、そうじゃないのか、まだわからない。
でも。
ここに来た記憶たちは、消えていない。
棚の上で、光っている。
誰かに触れてもらうのを、待っている。
それは、終わりじゃないかもしれない。
ミオには、そう思えた。
根拠はない。
ただ、そう思えた。
欠片の光が、揺れていた。
花が、風に揺れていた。
ミオはしばらく、そこに立っていた。
胸のポケットに、折りたたんだ紙があった。
毎日、持ち歩いていた。
ミオは手を当てた。
紙の感触があった。
それだけで、少し、大丈夫な気がした。
——終幕——