星降る温室のラストレター 〜消えゆく願いと、嘘つきな番人〜   作:くにゅたろ

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第5話「春、温室、ありがとう」

春になった。

 

 温室の中に、花が咲いていた。

 

 白い花だった。欠片の棚の隙間から、いつの間にか伸びてきた蔓が、小さな花をつけていた。誰も植えていない。勝手に咲いた花だった。

 

 ミオはその花を見た。

 

 綺麗だな、と思った。

 

 体は、軽かった。

 

 あの冬の夜が嘘みたいに、今は普通に歩けた。息も苦しくない。手首も、透けていない。肌の色が、ちゃんとある。

 

 治った。

 

 何が起きたのか、ミオにはよくわからなかった。

 

 ある朝目が覚めたら、体が軽くなっていた。医者に行ったら「異常なし」と言われた。もう一度行っても、同じだった。

 

 願いを使っていないのに、治っていた。

 

 誰かが、何かをしてくれた。

 

 それだけはわかった。

 

 

 温室に来るたびに、泣きたくなる。

 

 理由がわからない。

 

 悲しいわけじゃない。つらいわけでもない。ただ、温室に入ると、胸の奥が痛くなる。棚の欠片を見ると、何かが詰まったみたいになる。

 

 泣きたい、というより——誰かを探している感じ、に近かった。

 

 でも、誰を探しているのかわからない。

 

「ミオさん、また来たんですか」

 

 レンが声をかけてきた。

 

 相変わらず元気な、後輩番人の男の子。

 

「うん。なんか、来たくなって」

 

「ですよね」レンは少し笑った。「ミオさん、ほぼ毎日来てますもんね」

 

「邪魔じゃない?」

 

「全然。むしろ歓迎です」

 

 レンはそう言って、棚の整理に戻った。

 

 ミオはいつものように、棚の前をゆっくり歩いた。

 

 欠片の光を、ひとつひとつ見ていく。

 

 何かを探すように。

 

 でも、何を探しているのかわからない。

 

 

「ねえ、レン」

 

「はい」

 

「ここ、前は何人の番人がいたの」

 

 レンが手を止めた。

 

「今は四人ですよ。前も四人だったと思いますけど」

 

「そうだっけ」

 

「あれ、違いましたっけ」レンは少し首を傾げた。「どうだったかな。なんか、五人だったような気も……あれ?」

 

 レンが困った顔をした。

 

「おかしいな。思い出せないですね」

 

「うん」

 

「気のせいかな。四人ですよ、たぶん。ずっと四人です」

 

 ミオは棚を見た。

 

 四人。

 

 その言葉が、胸の中でうまく収まらなかった。

 

 四人、のはずなのに。

 

 もう一人、いた気がする。

 

 でも、顔が思い出せない。名前も思い出せない。声の記憶もない。

 

 ただ——いた気がする。

 

 確かに、ここに。

 

 

 ミオは温室の奥まで歩いた。

 

 一番古い欠片のところへ。

 

 いつからか、ここに来ると少し落ち着く気がした。理由はない。ただ、この欠片を見ていると、何かが近い感じがした。

 

 欠片を見た。

 

 白い光。静かな光。

 

 他の欠片と少し違う。光が、穏やかだった。怒っていない。悲しんでいない。ただ、静かに光っている。

 

 ミオは手を伸ばした。

 

 触れてはいけないのはわかっていた。番人じゃないから。でも、触れたかった。

 

 指先が、届く前に止まった。

 

 止めたのは自分じゃなかった。

 

 気持ちが、止まった。

 

 ——触れたら、泣いてしまう気がした。

 

 なぜかわからない。

 

 ただ、そう思った。

 

 手を下ろした。

 

 欠片の光が、ゆれた。

 

 風もないのに、ゆれた。

 

 

 その日の帰り際、ミオはベンチに座った。

 

 温室の入り口近くにある、古い木のベンチ。

 

 なんとなく座った。疲れたわけじゃない。ただ、ここで少し止まりたかった。

 

 ベンチの端に、何かが挟まっていた。

 

 紙だった。

 

 折りたたまれた、小さな紙。

 

 ミオは手に取った。

 

 開いた。

 

 文字が書いてあった。

 

 細い字だった。ゆっくり書いた字じゃない。でも、丁寧だった。急いでいるのに、丁寧に書こうとした字だった。

 

「君が生きていてくれて嬉しい」

 

 それだけだった。

 

 宛名はない。署名もない。

 

 ミオはその文字を見た。

 

 知らない字だった。

 

 誰の字か、わからなかった。

 

 でも。

 

 胸の奥が、痛くなった。

 

 さっきまでとは違う痛さだった。

 

 誰かを探している感じじゃない。

 

 誰かに、見つけてもらった感じ。

 

 涙が出た。

 

 理由がわからないのに、涙が出た。

 

 ミオは紙を両手で持ったまま、しばらくそこにいた。

 

 温室の欠片の光が、入り口から漏れていた。

 

 白くて、静かな光だった。

 

 

 誰が書いたんだろう。

 

 ミオは帰り道、ずっとそれを考えた。

 

 でも、思い出せなかった。

 

 字を知っている気もした。でも、誰の字かが出てこない。名前が出てこない。顔が出てこない。

 

 声も、思い出せない。

 

 いるはずの誰かが、どこかに行ってしまっていた。

 

 消えた、というより。

 

 最初からいなかったみたいになっていた。

 

 でも、いた。

 

 絶対に、いた。

 

 この字が、証明していた。

 

 ミオはメモを胸に押し当てた。

 

 歩きながら、呟いた。

 

「ありがとう」

 

 誰に言っているのかわからなかった。

 

 でも、言わなければならない気がした。

 

「ありがとう」

 

 もう一度、言った。

 

 風が吹いた。

 

 背中から、前に向かって。

 

 押してくれるみたいな風だった。

 

 ミオは少し立ち止まった。

 

 それから、歩いた。

 

 前に向かって、歩いた。

 

 

 温室に、また花が咲いた。

 

 白い花が、増えていた。

 

 欠片の光と混ざって、温室の中が少し明るかった。

 

 レンが「どこから咲いてるんですかね」と不思議そうにしていた。

 

「誰かが植えたんじゃないの」

 

「でも記録にないですよ。謎ですよね」

 

 謎でいい、とミオは思った。

 

 全部わからなくていい。

 

 わからないまま、ここに来る。欠片を見る。花を見る。

 

 それでいい。

 

 ミオは一番古い欠片の前に立った。

 

 今日も、光が揺れていた。

 

 穏やかに、静かに。

 

「また来たよ」

 

 小さく言った。

 

 欠片は答えない。

 

 でも、光が少し、温かくなった気がした。

 

 気のせいかもしれない。

 

 でも、ミオはそれを、気のせいにしたくなかった。

 

 

 春の終わりに、温室の窓から空を見たら、星の欠片が落ちていた。

 

 細い光の筋。白く、鋭く、地平線に向かって落ちていく。

 

 一つ。

 

 また一つ。

 

 ミオはそれを見ながら、思った。

 

 欠片が降るたびに、誰かの何かがここに来る。

 

 それが悲しいことなのか、そうじゃないのか、まだわからない。

 

 でも。

 

 ここに来た記憶たちは、消えていない。

 

 棚の上で、光っている。

 

 誰かに触れてもらうのを、待っている。

 

 それは、終わりじゃないかもしれない。

 

 ミオには、そう思えた。

 

 根拠はない。

 

 ただ、そう思えた。

 

 欠片の光が、揺れていた。

 

 花が、風に揺れていた。

 

 ミオはしばらく、そこに立っていた。

 

 

 胸のポケットに、折りたたんだ紙があった。

 

 毎日、持ち歩いていた。

 

 ミオは手を当てた。

 

 紙の感触があった。

 

 それだけで、少し、大丈夫な気がした。

 

 

        ——終幕——

 

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