「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
「じゃ、ナツキちゃんに会いに行ったげて」
コハルは俺と正対して、そう言った。
「……いいの?」
俺は恐る恐る問い返してから、自己嫌悪に駆られた。なんて間抜けで卑怯な質問だろう。でも、それ以外の言葉が出てこなかった。
コハルは小首をかしげる。
「なにが?」
「いや……俺、今日コハルのとこに来て、コハルと話して、それでそのままナツキのとこ行くって、なんか」
「なんか、浮気みたいだ、って感じ?」
「う……うん」
うめきとも相槌ともつかない俺の声に、コハルは一瞬だけ目を丸くする
それから、ふっと息を吐いた。
笑うでも呆れるでもない、どこか腑に落ちたような吐息だった。
「トーマってさ」
ベッドの上で座り込んだまま、コハルは続ける。
「ナッちゃんのこと、今どう思ってる?」
「……心配してる。自分のせいで倒れたって、ずっと一人で抱えてると思うと──」
「うん。それだけ?」
「いや、好きだよ」
言ってから、『しまった』と思った。
しかしコハルは、
「だよね〜」
とうなずいてくれた。
「アタシもナッちゃんのことが好きなの。大親友だから」
平坦だけど、柔らかな声だった。
「ナッちゃんってさ、強がるじゃん。いつも一人で全部やろうとして、人に頼るのが下手っぴで、でも本当は怖がりで寂しがり屋で……アタシ、ほっとけないんだよね」
コハルは少しうつむく。プラチナブロンドの前髪が、コハルのあどけない美貌を隠す。
「だから、アタシじゃなくてトーマに行ってほしいの。ナッちゃんが今一番会いたいのは、アタシじゃなくてトーマだから」
「コハル……」
「勘違いしちゃダメだよ」
コハルは俺を見た。いつもより強く真っ直ぐな眼差し。
「嫉妬とか、我慢とか、そういうんじゃないから。トーマはアタシの彼氏で、ナッちゃんはアタシの親友だから。だから、幸せになってほしいの。それだけ」
それだけ、と言い切った声は、揺るぎなく響いた。
「……わかった?」
俺は少しの間、コハルの顔を見つめていた。
俺は目を逸らせなかった。
コハルは目を逸らさなかった。
「わかった」
俺の答えを聞いたコハルは、ようやくいつもの笑顔に戻った。
「よし。じゃ、行ってらっしゃい」
俺はコハルの部屋を出て階段を降りる。コハルは俺の背後を、とことことついてくる。
「送ってくれるのか?」
「玄関までね。──やっぱし、ちょっと寂しいし?」
冗談めかして微笑むコハルが愛おしくて、何かしてやりたくなる。
が、今はナツキのもとへ向かう。
コハルにそれを言わせてしまったんだから、俺に今できることをしたい。
玄関で靴を履き、
「じゃ、行ってくるよ」
振り向いてコハルに手を振る。
「ん。……あ。トーマ、忘れ物!」
なに?
問うヒマもなく、重ねられる唇。
コハルに抱き寄せられ、しばし密着する。
気がついたら、体は離れていた。
「行ってらっしゃいの、ちゅー」
コハルは満面の笑みでウィンクして、けらけら笑った。
「い、い、行ってきます……」
「いってらっしゃーい」
挨拶もそこそこに、俺はコハルの家を後にした。
……心臓は高鳴ったまま、しばらく落ち着かなかった。
◆◆◆
フユミさんが去った後、私は椅子に座ったまま呆けていた。
天井を仰ぎ見る。蛍光灯が白く瞬く。冷たい光が目に染みる。
……泣き過ぎた。
喉の奥に違和感がある。頭が重い。そのくせ、胸の中は軽い。
奇妙な感覚だ。
嵐の後の海辺みたいに、どうしようもなく落ち着いている。
スマホを開き、ウーバーの注文を確認する。到着まで、あと15分。
私は椅子の背もたれに体を預け、目を閉じた。
◇
物心ついた頃から、私の家には物語があった。
父は映画監督。母は大女優。
父の書斎は、壁一面が本棚だった。
ハードカバーの文学全集、シナリオ集、映画評論。そのどれもが、子どもの背丈では届かない高さに並んでいた。
母の部屋は、床まで台本で埋まっていた。
公演のたびに新しい台本が積み上げられ、読み終えるとすぐに次が来る。母の部屋はいつも散らかっていた。
父も母も、創作を最優先していた。食事を忘れることもしばしばだった。私を忘れることも珍しくなかった。
テーブルの上には、いつも手つかずの冷たい食事があった。私はそれをつまみ食いして育った。
それでよかった。
父が試写会のDVDを持ち帰ってくれる夜だけ、三人でソファに並んだ。
母の膝に頭を乗せると、母は私の髪を撫でてくれた。視線は画面から離れなかったけど、それでも確かに触れてくれた。
父はエンドロールが終わるまで、一言も喋らなかった。
それでよかった。
物語の狭間でだけ、私たちは一緒にいられた。
それでよかった、はずだった。
いつから書き始めたのか、ハッキリとは思い出せない。
父のシナリオ集を盗み読みして、母の台本の余白に落書きをして、気づいたときには原稿用紙を買ってきていた。
何のために書いていたのか、私には分からない。
読むのが好きだったから?
書くことが好きだったから?
父や母に見てもらいたかったから?
全て正しいような気がするし、全て違うような気もする。
ただ、書き続けた。
学校へは行っていたけど、話す相手はいなかった。友人を作る時間があるなら一行でも多く書きたかった。寝食を惜しんで書いた。
賞への応募は小五から。
初めて佳作をもらったのは中一の春だった。
中二の夏。
私の書いた脚本が、あるコンテストの最優秀賞を取った。最優秀賞は、映画化される。父が監督を務め、母が主演となる。そういう手筈だった。
授賞式の前日、私は倒れた。
疲労と栄養失調、とのことだった。
目が覚めると白い天井があった。点滴のチューブが左腕に刺さっていた。
体が重かった。
けれど私はナースコールを押して、担当の看護師を呼んだ。
「親に連絡を取っていただけますか。先に、伝えたいことがあって」
看護師がスマホを持ってきてくれた。
私は、母に電話をかけた。
ワンコールで繋がった。両親は撮影中でも舞台中でも、私からの連絡には、必ず出てくれる。その点については律儀な人たちだった。
「もしもし、ナツキちゃん?」
母の声色は、いつも通りだった。
「入院って聞いたけど、体は大丈夫なの?」
「大したことないよ」
私の声も、いつも通りだったはずだ。
「それより──」
私は事務的に、短く告げた。
あのコンテストで最優秀賞の脚本は、私が書いた、と。
母は間を置かず答えた。
「あら、そうなの。流石ね」
台本のページをめくる音がした。
「ところで、冒頭の台詞だけど、少し変えたほうが──」
私の体からの力が抜けていった。
スマホを落としそうになり、辛うじて握り直す。母の話には適当な返事をして、「またね」と言い合ってから、電話を切った。
私はしばらく病室の天井を眺めていた。
蛍光灯の白い光が目に染みる。
私はそのときになって、ようやく理解した。
両親は物語が好きで、人間には興味がない。
父も母も、私を可愛がっていた。それは本当だと思う。
ただ、二人のそれは、道端の野良猫を気まぐれに撫でるような態度だった。
父も母も。誰も彼も。
世界は
病室には誰も来なかった。
点滴を終えた私は、お金を払って一人で帰った。
以来、私は考えるのをやめた。
何のために書くのか。
誰かに見てもらいたいのか。
ただ物語だけが、私に残った。
◇
中学三年の、梅雨の終わり頃だった。
私は、七曜学園の中高連絡通路を歩いていた。理由は特にない。高等部の図書室でも見に行こうか、と気まぐれを起こしただけだ。
廊下の突き当たりを通りがかったとき。
ふと、張り紙が目に入った。
文芸部。
汚くて、勢いのある字。
私は立ち止まる。そう言えば、この学校にも文芸部があったのか。
扉が、指一本ぶんほど開いている。
隙間から、黄色い夕日が漏れていた。
覗くつもりはなかった。ただ、足が止まった。
隙間の向こうに、一人の男子生徒が見えた。
窓際の席。
黄昏を背に、文庫本を読んでいる。
ページをめくる動作は、ゆっくりだった。緩慢というには楽しげで、熟読というにはリラックスしていてる。
その
放課後の賑やかさから切り取られたような、小さな小さな凪の空間。
私は視線を彼の手元へ移す。
文庫本の表紙が、かろうじて見えた。
アンソロジー。
タイトルは見えなかった。
しかし、装丁だけで私には分かった。
三年前、私が初めて書いた短編が掲載されている本だった。
私の体が固まる。
作家である以上、作品を読まれるのは当然のことだ。
ただ、処女作となると話は別だ。
私の心臓は不気味な跳ね方をした。逃げたいのに見ておきたい。矛盾する感情。
その拍子に、私のローファーが廊下の床を鳴らした。
隙間の向こうの男子生徒が、顔を上げた。
目が合った。
一瞬の沈黙。
男子生徒は何でもないことのように、ゆったり微笑んだ。
「見学の子?」
覇気のない笑顔だった。
品定めも警戒も愛想もない。ただ、当たり前の風景を受容するような笑顔。
「どうぞどうぞ、気軽に見てってよ」
屈託のない声だった。
私は、とっさに返事ができなかった。
扉を開けるべきか、
それが先輩との出会いだった。