「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
コハルの家を後にして、学園へ向かう道すがら。
俺は、ナツキの──
最初に会ったのは、俺が高一の頃だった。
あの頃の俺は、廃部になった文芸部の部室を、一人で使っていた。
◆
文芸部が廃部になったのは、俺が入学する前年のことだった。
最初に文芸部室を訪れた理由は、もう思い出せない。通りがかっただけだった気がする。
誰かが鍵を開けっ放しにしていたのか、あるいは最初から鍵がなかったのか。ともかく誰でも入れた。
俺はそこが気に入った。
静かで誰も来ない。部室には蔵書が置きっぱなしになっている。独り占めできる小さな図書室。
放課後になると自然と足が向いて、気づけば毎日のように入り浸っていた。
その日も俺は、窓際の席でアンソロジーを読んでいた。
梅雨の終わり頃。西から差し込む夕日が、室内をヌルい暖色に染めていた。
ページをめくろうとしたとき、視線を感じた。
扉の隙間から、誰かがこちらを覗いている。
目が合った。
女生徒だった。
ボサボサの黒髪が、目元まで伸びいる。着ている制服は中等部のものだ。
ブラウスの第二ボタンは留まっていない。
スカートのプリーツは片側だけ崩れている。
他人から見られることに不慣れな人の風体だった。
俺もそういう人種なのでよくわかる。
小柄な彼女は、隙間の向こうで固まっていた。
人馴れしていない小動物みたいで、可愛かった。
俺は、思わず声をかけた。
「見学の子?」
反射的に言ってしまったが、俺も別に、文芸部というわけではない。俺の発言はミスリードだ。
が、俺は文芸部のフリをすることにした。
正直に身分を明かしてこの場所を失うくらいなら、見知らぬ女子中学生に嘘をつく方がマシだ。
「どうぞどうぞ、気軽に見てってよ」
その子はギクシャクしながら入室した。そして、文芸部室の中を見回した。
壁際の本棚を、背表紙だけ一冊一冊確かめるように、黙ってゆっくり見て回った。集中しているようだったので、俺は特に話しかけず、アンソロジーの続きを読んでいた。
しばらく経ってから、その子が口を開いた。
「……それ、どこで手に入れたんですか」
視線は俺の手元のアンソロジーへ向いていた。
「ああ、これ? もらいもん」
アキハ先輩から貰った本だった。
「……そうですか」
その子は、それきり黙り込んだ。
俺はアンソロジーを閉じ、表紙を彼女に向ける。
「読む?」
「……いいです」
彼女の反応には、なんとなく、含みがあった。
「読んだことあるの?」
彼女の肩がビクっと跳ねる。そして、顔を少しそむけて、ぼそっと答えた。
「……あります」
「どれか好きな作品ある?」
「ぜんぶ好きじゃないです」
即答だった。
おどおどした雰囲気の割に正直な子だ、と俺は好感を持った。
「俺は結構、気に入っててさぁ。特に、これ」
目次のページを開いて、指で示す。
タイトルは『水嫌いのビーバー』。
主人公はタイトル通り、水嫌いのビーバー。
水が嫌いなので、川に住む親とは折り合いが悪い。しかし、ネズミと仲良くできないので地上では暮らせない。モグラとも上手く話せないので、土の中でも暮らせない。
孤独なビーバーはやがて、絵を描くようになる。
絵の中で壁を積み、窓を作り、家具を揃える。窓から見える景色も、壁にかける絵も、全部自分で描く。その家には、最後まで誰も訪れない。最後にビーバーは、その家に自分の名前の表札を掲げる。
『水嫌いのビーバー』の著者名は、匿名になっていた。
彼女の動きが、止まった。
一拍置いて、彼女は本棚から視線を外した。こちらを向きかけて、固まって、深呼吸してから向き直った。彼女は自分の靴の先を見ながら、意を決したように、小さく息を吸う。
「これ、駄作ですよ」
感情の乗っていない声だった。
「文章が粗くて、構成が甘い。主人公の動機にも、共感しにくい」
「まあ、それはそうかも」
俺は頷いた。
「でも好きなんだよな」
「……なんで」
聞き返す声には、わずかにトゲがあった。今思い返せば、アレは戸惑いだったのかもしれない。俺には区別がつかなかった。
「なんでだろな〜……」
俺はしばらく考えてから、言った。
「どこに居ても疎外感がある主人公が、どうにか自分の居場所を作るために創作する……。って話じゃん、これ。でも、主人公は友だちの絵は描かないんだよな。あくまでもそこは『主人公の居場所』であって、誰かとの交流の場にはならない。……作者は凄く、正直な人なんだなぁと思って」
「正直、ですか?」
「うん。創作の初期衝動として、一番正直だと思うんだよね。誰かに見てもらいたいとか、評価されたいとかよりも、自分の居場所を作りたくて書いてる。そういう話って、滅多にないから」
彼女は何も言わなかった。
俺は続けた。
「こういうテーマって、うまくなればなるほど創りにくくなる⋯ような気もする。だから、これはこれで価値がある、というか……この形でしか存在できない話なんじゃないか、って思うんだよね」
だから何度も読み返しちゃって。
俺はそう結んだ。
しばらくは沈黙があった。
窓の外では運動部の掛け声が響く。遠くからは吹奏楽部の演奏が響いている。
「……それ、読ませてもらえますか」
「どうぞどうぞ」
俺はアンソロジーを手渡す、窓際とは反対側の、部屋の隅の席に座った。
それからしばらく、俺たちは黙って本を読んだ。
そうこうしているうちに、日が落ちていった。
茜色だった空が、橙から薄紫へと溶けていく。窓ガラスは西からの残光を受けて鈍く光り、部室の中には、ぼんやりとした影が二つ伸びていた。
気づけば、手元の文字が読みにくいほどに薄闇が満ちていた。俺が本を閉じたそのときも、彼女はまだ本を読んでいる。
書面の文字を追う彼女の視線は真剣そのもので、薄闇の中、鋭く光っていた。視線は不意に俺を向く。目が合う。彼女はすぐにハッとして、慌てて手で顔を隠し、前髪を直すフリを始めた。
小さな手が動くたび、大きな瞳が見え隠れする。
白磁のようなおでこ、通った鼻筋、形のいい唇。
人形みたいに整っているのに、今は必死に隠そうとしている。
仕草も可愛けりゃ顔も可愛いな、前髪で隠しているのがもったいない。
俺はそう思った。
どちらが言い出すでもなく、俺たちは帰り支度を始めた。
帰り際に、
「……いいですか、また来ても」
彼女は、そう言った。
「ぜひぜひ。俺、放課後は基本的にここにいるから」
彼女は頷いて、部室を出ていった。
翌日の放課後にも、彼女は部室に来てくれた。
その翌日も。
その翌々日も。
以来、彼女は毎日この部室に来るようになった。
お互いが名乗ったのは、何日かしてからだった。
文芸部室を使い続けるために、俺たちは部活設立申請をした。本来なら、二人だけの部活が認められることはないが、俺もナツキもアキハ先輩と親交があったので何とかなった。
俺たちは、同性の友人のように仲良くなっていった。
ナツキは、仲が深まればよく喋る奴だった。そして、とにかく遠慮がない。が、一度やらかすとすぐに落ち込む。何かとつけて不器用で、いじらしい奴だった。
ナツキが、小説家であることを話してくれたのは、だいぶ後になってからだった。
「まあ、そんな感じだよね」
俺は特に驚かなかった。
「それ、冷笑ですか?」
ナツキは少し不満げだった。俺は、「とんでもない」と手を振って否定した。
ナツキが高等部に進級した年の入学式の直前。
俺はナツキに頼まれて、髪を切ってやったことがある。
「先輩、ほんとに散髪なんて出来たんですね……」
「母から教わってね。下手だったらゴメン」
「いえ、お上手ですよ」
ハサミを入れるたびに、黒髪がはらはらと床に落ちた。毛先を揃えて、前髪を切り整えて、うなじの産毛を軽く
出来上がったのは、正統派の美少女だった。
鏡に映る自分を、ナツキは正面から見ようとしなかった。かといって目を逸らすでもなく、ただ少し斜めに視線を落として、居心地悪そうに唇を引き結んでいた。自分の顔に慣れていない、というよりは、見られることに慣れていない、というような顔だった。
「カユいとこある?」
「セクハラですか?」
「絶対そんなわけないよ!?」
ナツキは、なんとも照れくさそうだった。彼女が妙なことを言うときは、十中八九、照れ隠しである。
「……女性は髪を触られる場合、体を触られるよりも高い親密度を要求することが多いそうですね」
「聞いたことあるけど、そういうもんなのかね?」
俺は首を傾げた。
フユミの前髪を切ってやったことは何度かあるが、そのとき体を触っても許されたとは、とうてい思えない。
「今、他の女子のことを思い返していましたね?」
ナツキが鏡越しに俺を睨んだ。普段よりも凄みがある。美人が怒ると怖い、とはよく言ったものだ。
「他の女子にも、こういうことしてるんですね。私に触れながら、他の女子を触ったときのことを、思い返してるんですね。こんな貧相なもの触らせてすみませんね」
「あたかも胸を触っているかのようなミスリードはよせ!」
「セクハラですよ?」
こいつ、無敵か?
「先輩の、
その後、ナツキの要望に応え、様々なヘアスタイルを試した。ポニーテール、ツインテール、サイドテール、ハーフアップ、とにかくいろいろ。最終的に、ナツキはボブカットを選んだ。
◆
けだもの、と最後に言われたのは、
学園が見えてきた。
俺は足を止めず、正門ではなく裏手の方へ回る。
ナツキが初めてこの部室に来た日のことを、俺はよく覚えていた。
あの子が何者か、俺はあのとき知らなかった。
ただ、処女作を『駄作だ』と断言したときの表情を、鮮明に覚えている。
寂しげで、どこか清々しい、あの表情。
あの日の距離感と比べると、俺たちは随分と変わってしまった気がする。遠いところまで来て、急に近づいて、離れられなくなってしまった。
それでも、文芸部室の場所は変わっていない。
俺は歩き続けた。