「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
「アキハお嬢様、本日のパーティについてですが」
タカの声に、
「ええ、わかってる」
私は窓の外を眺めたまま、短く答えた。
車は夕暮れの街をゆく。スモークガラス越しに見える外の世界は、紅茶の色に染まっていた。
街路樹の影は規則正しく、車体を横切っていく。
七曜祭は大成功だった。
在校生と保護者だけでなく、地元の名士も多数来場した。
我が木南家のネームバリューと、学園長たる土屋ツユリのコネクションが合わさっているのだから、当然の結果だ。
おかげで今年の七曜祭は、例年以上の盛況だった。
この木南秋葉の名の格が、また一つ高まった。
私はふぅっと息を吐く。
さて、今夜のパーティについて考えよう。
何を着ようか?
頭の中で、手持ちのドレスを順番に引っ張り出していく。
ヴァレンティノの白いロングドレスは?
少し華やかすぎるかも。今夜のパーティー小規模な親睦会だから、それほど目立たないものの方が良い。
ではシャネルのネイビーは?
コンパクトなシルエットで、品がある。悪くない。でも、もともとは明朝のパーティーで着ようと思っていたものだ。被らせるのは避けたい。
だとすれば、アルマーニの深緑のドレスはどうだろう。
年始の地中海旅行中に、ローマのブティックで見立ててもらったものだ。私の黒髪によく映える、と仕立て屋さんは言っていた。
これにしよう。今夜はアルマーニを着る。
そこまで考えてから、ふと思った。
トーマさんやったら、『何を着ても似合う』って言うんやろな。
絶対にそうや。
深緑でも、ネイビーでも、白でも。あの人は『似合う』って言う。屈託なく、嘘偽りなく、当たり前みたいに私を褒める。
あの人、女たらしやから。
「嬉しそうどすな、お嬢様」
タカの声で我に返る。
窓ガラスに映る私の顔は、だらしなく緩んでいる。慌てて表情を引き締める。よし、いつも通り。
ルームミラー越しにタカの様子をうかがう。巌から切り出したような、ホリの深い顔つき。いつも通りの金属的な無表情。
猛禽めいた瞳の奥底に、穏やかな光が宿っていた。
「……お綺麗にならはりましたな」
タカの言葉に、私は少し驚いてしまった。タカは淡々と続ける。
「近頃のアキハお嬢様は、いつにも増してお美しいですよ」
「……そうやろか」
「ええ。以前のお嬢様は、完璧でいらっしゃいました。持てる全てを兼ね備えてはる。超人的です。今のお嬢様には、それに加えて──」
一拍。
「人間性があります」
私は口をつぐんでしまった。
人間性──。
「……トーマさんのおかげやろね」
「ええ」
タカは頷いた。
「若様が、ほんまのお嬢様の、ありのままを見つけ出してくれはった。そう思うております」
ありのまま。
私はその言葉を、口の中で転がした。
ありのままの木南秋葉とは、何だろうか。
私は最初から完璧やった。誰よりも先を読んで、いつも先回りして、どこへ行っても一番で。
そういう生き方に慣れていた。
それが木南秋葉だと思っていた。
窓の外、街灯が一つ灯った。夕暮れの中で頼りなく揺れる光。
私はそれをぼんやり眺めながら、もう少しだけ、考え続けた。
◆
人は泣きながら生まれてくるという。
ならば私は最初から、人でなかったのだろう。
私は、泣かずに生まれた。
私は産声を上げなかった。ただ静かに呼吸を始めた。
健康上の問題は何もなかった、と母は言っていた。出生時体重は、平均よりわずかに重かったという。
初めて喋った言葉を、覚えている。
『なんで泣くの?』だった。
周囲の赤子は、何かあるたびに泣く。お腹が空けば泣くし、かゆいところがあれば泣くし、何もなくても泣く。
泣かなくても自分でやればいいし、自分で出来ないことは人に頼めばいい。
なんで人が泣くのか、私にはわからなかった。
年を重ねるにつれ、私は何でも出来るようになっていった。
本当に、何でも出来た。
学業は教科書を読めば十分。運動は手本を見ればコーチ以上に出来る。音楽は、楽譜の通りに手を動かすだけで良い。
必要な知識を入力して、最適な形で出力するだけ。一切合切は単純作業に思えた。
皆が何に悩んでいるのか、私には全く分からなかった。
その無理解が引き起こす孤立を、私は予想できていなかった。
六歳のとき、バイオリンのコンクールで一位を取った。七歳でも一位だった。八歳のとき、同じクラスの子たちが全員辞めた。九歳のとき、先生が『この仕事を辞める』と言った。
先生に聞いた。
「バイオリンが、お嫌いになったのですか?」
先生は少し困った顔をして、
「バイオリンは好き。自分が嫌いになったの」
と答えた。
私が首を傾げると、先生は
「……アキハちゃんが、上手すぎるから」
と呟いた。
それからハッとして、怯えたような顔で私に謝った。そのときの、見開かれた目や、震えるまつ毛、引き結ばれた唇を、鮮明に思い出せる。
私と深く関わった人の反応は、いつだってそうだった。
でも、みんなが追いついてくれれば解決する話だ。
私はそう思って、練習を楽しんでいた。
でも、誰も追いついてくれなかった。私は一人になった。
◇
父の不倫を目撃したのは、小学五年生のときだった。
私は特に何も感じなかった。
母は悲しむだろう、と思った。母は、父から贔屓されることをアイデンティティにしていたから。
父の不倫を知れば、母はショックを受けるはずだ。
母がショックを受けると、家族仲が悪化する。家族仲が悪化すると、私の生活の質も下がる。
父の不倫を隠す必要があった。
だから私は、即興でアリバイを作った。証拠を隠す方法と、辻褄の合う作り話を父に提供した。
完璧なアリバイだった。
けれど、父はそれを受け容れなかった。
父は私に謝った。そして、母と連絡を取った。
両親が言い争うことはなかった。いつも通りの日々が続いた。
ただ、それ以来、両親が私を見る目は変わった。娘を見る目ではなくなった、と思う。
◇
高校二年生の春。
私が抜けた後のバイオリン教室で、私より良い成績を取った子がいる、と知った。
その子の名前は、
フユミさんは生真面目で純真無垢で、からかい甲斐のある子だった。
そんなフユミさんが、幼馴染の男の子と複雑な関係である、と知った。
彼の名前は
どこにでもいそうな、ごく普通の人だった。
こんな平凡な男の子が、フユミさんの心を掻き乱している。
その事実が面白かったから、私は彼に興味を持った。
私が彼と仲良くなったら、フユミさんはきっと嫉妬するだろう。
それでフユミさんとトーマさんがくっつけば良し。
トーマさんが私を好きになってしまったら、それはそれで面白い。
そんな悪趣味なイタズラ心で、私はトーマさんと逢瀬を重ねた。お昼休みに一緒にランチして、放課後に美術館や水族館を訪れて、小説を貸し借りして、他愛のない世間話をして……
そこまでしたのに、トーマさんは私に恋することは無かった。
そうなると、意地でも振り向かせたくなる。私が負けたみたいで気が済まないから、絶対に自分のものにしたくなった。
気づけば私は、朝な夕なにトーマさんのことを考えていた。
自分で自分が不思議だったから、分析した。
答えはすぐに出た。
希少性の原理だ。私になびかない人間は珍しい。レアドロップは欲しくなる。単純な話だ。
そう結論して、納得した。
納得したはずなのに、考えるのが止まらなかった。
胸のあたりが妙な具合だった。
痛いような、熱いような。まだ知らないもの。
その正体を考えあぐねていた、ある日のこと。
かかりつけの医師から、連絡が入った。
◇
医師は、いつも通りの診察室で、いつも通りの声で告げた。
「アキハお嬢様、実は折り入ってお話が」
私は無言で先を促した。
「
私の心臓が、不可解に跳ねた。
「……ええ」
「健診の再診で、脳動静脈奇形が見つかりました」
私は静かに呼吸してから、その言葉を咀嚼した。
脳動静脈奇形。
放置すれば脳内出血のリスクがあり、命にかかわる。
ただし、治療法はある。
手首からカテーテルを通す血管内治療で、頭を切り開かずとも対処できる。手術としては、さほど難易度が高くない部類だ。
驚くに値しない。
「なぜ、それを私に伝えたのですか?」
私は出来るだけ穏やかな声で、問いを続ける。
「プライバシーに関わる情報ですね。患者本人でも患者の家族でもない私に、なぜ、それを伝えたのですか?」
医師は少し、間を置いた。
「……お嬢様の恋人ではないのですか?」
私はおし黙った。
沈黙の帳が下りた。
医師は見る見るうちに血相を変え、勢いよく頭を下げた。
「も、申し訳ありません、でしゃばったことを! 私の邪推で、早とちりを、何とお詫びしたら良いものか……!」
脂汗を滝のように流す医師を見て、私は思った。
私は、どんな顔をしてしまったのだろう。
鏡がないから確認できない。ただ、医師がここまで慌てるということは、余程の表情をしていたのだろう。
「気にしないで」
私は微笑を作る。横目で窓ガラスを一瞥し、反射する自分の表情を確認する。
大丈夫、ちゃんと笑えている。
私は医師に視線を戻した。
「教えてくださってありがとう。助かりました」
◇
血液カテーテルは簡単な手術である。
トーマさんは、まず間違いなく助かる。
だと言うのに私は何日も眠れぬ夜を過ごした。
そんなある夜、車で社交会へ向かっていたとき。
医師から電話が来た。
『お嬢様、先日は大変なご無礼を……いえ、あの、実は続報がありまして』
続報。
私は無言で続きを待つ。
『日村さんが、手術の同意書へのサインを、拒否されています』
自分の小さく息を呑む音が、どこか他人事のように聞こえた。
「彼は、記憶に関わるリスクを、極端に恐れていらっしゃるようで。『大切な人との思い出を失うくらいなら、このままの方がいい』、と……説得が難航しております」
「……そうですか。わかりました」
その後、
窓の外で、街並みは平穏に流れていく。街灯が瞬く薄闇の中、春風にネモフィラが揺れる。野良猫が悠然と道路を横切る。スーツ姿の青年と、同年代の妊婦が、幼い子どもと手をつないで歩いている。
ゴールデンウィークだ。
なんの変哲もない祝日の風景。
たった今、通り過ぎた映画館は、トーマさんと一緒に行ったことがある。
彼が濡れ場を見てモジモジする様は、それはそれはいじらしかった。
続編が出たら、また一緒に見よう、と約束した。
彼が手術を受けないのなら、その約束は叶わないかもしれない。
「……バカな
口の中で小さく呟いた。
記憶を失うリスクより、命を落とすリスクの方がずっと高い。その程度のこと、少し考えればわかるはずだ。なぜそんな判断ができないのか。トーマさんはやっぱり愚かだ。私との約束があるのに、私との未来が、私との、私との──
「お嬢様?」
タカの声で我に返った。
「顔色が優れないようですが」
言われて、窓ガラスに映る自分を見る。
見開かれた目や、震えるまつ毛、引き結ばれた唇。思わず顔を覆おうとした手は、小刻みに震えている。
私は恐れている。トーマさんを喪うことを。
窓ガラスに反射する私の顔が、歪む。
私は泣きそうになっている。
惨めったらしく震えながら。
この私が、こんな顔をするなんて。
こんなの木南秋葉じゃない──!!
「タカ。予定は全部キャンセル。病院へ向かって」
「はい」
タカは即答して、ハンドルを切る。車は来た道を引き返していく。
私は深呼吸して、自分に言い聞かせるように話す。
「トーマさんに手術を強制します。各種書類の捏造を使用人に指示してください」
「はい」
タカは再び即答し、アクセルを踏み込んだ。
加速に伴う慣性で体が重くなる。窓に映る私の顔は、もういつも通りだった。
窓の外はすでに夜だった。街中に人影は無い。月も星も見えない。インクで塗りつぶしたような夜空の下、黒いセンチュリーは私を乗せて走る。
外には走行音が響いているのだろうが、車内は静かなものだった。
「私は」
不意に口をついて出た一言は、車内によく響いた。
「私は、トーマさんが好き」
初めて自覚した恋心の自白。
それは不思議なほど腑に落ちた。
タカは、何も言わなかった。
◆
そして今。
七月四日、文化祭の最終日を終えた黄昏時。
「私、やっぱりトーマさんが好き」
私は改めて、自分の想いを口にした。
トーマさんの命懸けの覚悟を無下にして、強引に延命して、無理に籠絡して、フユミさんとコハルさんとナツキさんを巻き込んで。
全員の人生をメチャクチャにした。
どう償っても償いきれないほどの罪を犯した。
それでも、やっぱり、トーマさんが好き。
「タカ。明朝の予定を全てキャンセルして。明日はトーマさんに会いに行くから」
「承知しました」
タカは当然のように頷いた。