「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
前回までのあらすじ!
アキハ先輩に誘われて海へ来た。
空と海の鮮やかな青は、目が痛くなるほどである。
潮風が吹き抜ける。アキハ先輩は髪を抑えて、よく通る声で俺に問うた。
「ウミガメのスープの話、覚えていますか?」
俺は少し考えてから頷く。
「覚えてますよ。去年ここへ来たときの話ですよね」
◇
去年の夏休みの夜だった。
そのとき金曜ロードショーで『もののけ姫』を観ていたので、夜の九時を過ぎていたはずだ。
アキハ先輩からLINEが来た。
『今すぐ来られますか?』
理由も説明もない、一行だけのメッセージだった。
普通なら考えものだが、相手は、あの
俺が着替え終わる頃に、タカさんが車で迎えに来た。そうして連れてこられたのが、このプライベートビーチだった。
夜の海には、昼間とは全く異なる
アキハ先輩は砂浜に立って、海を眺めていた。俺が歩み寄ると、横目で俺を見て、わずかに目を細めた。
「来てくれましたね」
「何かあったんですか?」
アキハ先輩は人差し指を口の前で立て、「しー」と細く息を吐いた。そうして、砂浜を見るよう促す。
俺は目を凝らした。
暗がりの中、砂浜の上に、何かの影が動いてた。
ウミガメだった。
ゆっくりと、身重そうに、砂の上を這っていた。前足で砂をかき分け、後ろ足で穴を掘り、そこへ卵を産み落としていく。
静かだった。
波音だけが、かすかに響いていた。
「これを」
アキハ先輩は囁き声とともに、俺に双眼鏡を差し出した。レンズ越しにウミガメを見る。
ウミガメは、涙を流していた。
「泣いてますね……」
思わず俺は呟いた。
「生理現象だそうです。塩分の排出と、眼球の保護のための。でも──」
アキハ先輩は静かに続ける。
「でも、泣くんですよね。泣いているんです」
アキハ先輩は瞳をこちらに向けず、ただウミガメを見ていた。が、焦点をそこへ合わせているようには見えなかった。
「ウミガメは、卵を砂に埋めたら、また海へ帰っていきます。卵が孵化するのは約二ヶ月後。そして、子ガメのほとんどは成体になる前に死にます。親子が触れ合うことはありません」
アキハ先輩の瞳は、水平線より遠くを見ていた。
ここではないどこか──今ではない、いつかのことを考えているようだった。
「そんなウミガメが産卵のときに涙を流すのは、なんだかドラマチックですね。生理現象に過ぎないのに、感情移入してしまうものでしょう」
「してしまうものでしょう、って、アキハ先輩はそうじゃないんですか?」
言ってから、俺は『
「ええ」
と言った。
やがてウミガメは産卵を終え、もと来た海へゆっくりと帰っていった。波が来て、その大きな体を飲み込んで、見えなくなった。
砂浜には、小さな丘のような膨らみだけが残った。
ウミガメが去った後、俺とアキハ先輩は波打ち際に腰を下ろした。
「ウミガメのスープ、という水平思考のゲームがあります」
アキハ先輩が話し始めた。
「ある男性が、レストランでウミガメのスープを一口飲んだ。そして自ら命を絶った。なぜか? という問題です」
「知ってますよ。答えは、『遭難したときに船長から食わされた肉が、ウミガメではなく人肉だと確信したから』、ですよね」
「そうです」
アキハ先輩は膝を抱えた。
「私はずっと、その男性の気持ちが理解できません」
平坦な声だった。
「記憶で苦しむことに、意味はあるのでしょうか。悲しき過去に囚われる理由など存在するのでしょうか。男は自分の罪を忘れて生きれば良かった。自分の感情を自分で制御できれば、もっと自由に、幸福に生きられたはずです」
自動機械が文章を読み上げるみたいに、淡々とした冷たい声だった。
「……それは、そうかもしれませんけど」
俺は少し考えてから、答えた。
「捨てたくても、捨てられないと思います、思い出って」
「捨てられない、ですか?」
「苦い記憶でも……捨てたくないと思ってしまうんですよね、俺は。不自由かもしれませんが、不幸せとは思っていません。……自信はありませんが」
俺はフユミのことを思い出しつつ、そう返した。
中学に入る直前から疎遠になって、あんまり遊ばなくなった。会うと気まずいし、仲直りできる気もしなかった。それでも俺はフユミのことが好きだったし、フユミに感謝していたし、フユミを忘れたくなかった。
アキハ先輩はしばらく黙っていた。
寄せては返す波の音だけが響いていた。潮の香りが急に立ち込めたように感じたのを覚えている。アキハ先輩の考え込む顔は、月光に淡く照らし出されて、人形みたいに綺麗だった。
人形は不意に俺を見た。
「苦い記憶でも、捨てたくないですか。本当に?」
アキハ先輩は、俺の言葉を確かめるように、ゆっくりと問い返した。
「はい。捨てたくないです。記憶が俺の全部ですから」
俺の答えに、アキハ先輩は笑った。涼やかな眉の端を下げ、困ったように微笑んだ。
「……私は、どうも色々と足りていないようです。過去や記憶や苦しみに、未だ価値を感じられません。思えば私は、泣いたこともありません」
「生まれたときくらい、ですかね?」
俺の問いに、アキハ先輩はゆるゆると首を横に振る。
「生まれたときも、静かに呼吸を始めたそうです」
俺は思わず黙った。産声を上げずに、すうすうと息をするアキハ先輩を思い浮かべる。嫌に想像できてしまう。アキハ先輩は、それほど超人的だった。
「俺、先輩が余裕を無くすところを想像できないです」
俺は正直にそう言った。
「ふふ、私も想像できません」
アキハ先輩は笑った。大人が子どもの冗談に笑みをこぼすような、年不相応な笑い方だった。
「けれど、興味はありますよ。泣いたり笑ったり、恋をしたり……」
「笑うことはあるじゃないですか」
「ふふ、そうですね。恋をすることも、あるかもしれませんよ?」
アキハ先輩は顔を寄せ、俺の顔を覗き込む。肩が触れる距離。先輩の黒瞳は月光と海の照り返しを受けて、星空のように煌めく。
「か、からかわないでください」
俺は思わず顔を背けた。
アキハ先輩はしばらく、くすくすと笑い続けた。
◇
そして、現在。
俺たちは去年と同様に、波打ち際で肩を並べている。陽射しが強い。暑い。水着を持ってくるべきだった、と思ってしまうほどだ。
ハンカチで汗を拭いつつ横を見ると、アキハ先輩はいつも通りの涼しい顔をしていた。
「今になって思うと」
アキハ先輩はサングラス越しに俺を見ながら言う。
「あのときの私の台詞は、フラグでしたね」
「フラグって、そんなチープな……」
俺のツッコミに、
「いつだってチープですよ。ラブストーリーというものは」
アキハ先輩は訳知り顔で答えて、笑った。
そして、サングラスを外して、俺の肩に頭を預ける。アキハ先輩は、二人きりのときは遠慮なく甘えてくる。
「思えばアレは、私の人生において最初で最後で、最大のワガママだったのかもしれません。あなたに恋をして、あなたを失いたくなくて、フユミさんともコハルさんともナツキさんとも仲良くなりたくて……。皆を焚き付けて、皆を巻き込んで、こんな大騒ぎにしてしまいました」
怒ってますか、と。
アキハ先輩は問うた。
表情は長い髪に隠れて見えない。
アキハ先輩の声が震えていたように感じたのは、俺の錯覚かもしれない。
俺はつとめて、静かに答えた。
「怒ってませんよ。少なくとも、俺は。フユミやコハルやナツキは……まあ……怒ってるかもしれませんね」
「うぅ、やっぱりそうですよね」
アキハ先輩の声は、弱々しかった。今度は錯覚じゃない。
アキハ先輩は深呼吸をしてから、静かに語り出した。
「……私、トーマさんを好きになってから、すっごく弱くなった気がします」
予想外の言葉に、俺は黙り込んだ。
アキハ先輩は続ける。
「あなたを失うのが怖いです。あなたに忘れられるのが怖いです。あなたを誰かに取られるのが怖いです。あなたに嫌われるのが、怖いです」
ささやくような声量に込められた、大きな大きな感情。受け止めるのに時間がかかって、俺は言葉を見つけられない。
アキハ先輩は続ける。
「あなたは私だけのものではありません。それはわかっています。私が始めたことですから。
私は、フユミさんも、コハルさんも、ナツキさんも、大好きです。三人とも、素敵な人です。あなたを奪って去るようなことはしないでしょう。それもわかっています。
だから、私が何かを恐れる必要はありません。
……それなのに、不安で不安で仕方がないんです」
アキハ先輩は俺の顔を両手で包む。そして俺と目を合わせた。
「私は私がわかりません。私は、私はなんで不安なんでしょう。私は何故あなたが好きなのでしょうか? あなたは何故、私を好きでいてくれるのでしょうか?」
アキハ先輩は俺を見つめる。
黒い瞳の奥で、いくつもの感情の影が、