「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。   作:会澤迅一

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第8話 木南秋葉という少女

「なるほど、私が最後ですか。なるほど、なるほど……」

 

 アキハ先輩の声は、海の底から響くように、深く、重く、低い。

 

 終わった。

 

 俺は最早、何も言えない。

 

 アキハ先輩は、幽鬼のようにたたずんでいる。月輪を背負う立ち姿は逆光になっていて、アキハ先輩の表情はうかがえない。

 

 焦りが、じわじわと背筋を這い上がる。冷たい汗が目に入り、視界がボヤける。

 

 寒気がするのは潮風のせいだけじゃない。部屋が薄暗く見えるのは、月に叢雲(むらくも)のせいだけじゃない。

 

 俺は今、畏怖している。

 

 アキハ先輩に。

 

 アキハ先輩は、お茶目な先輩だ。毎週のように俺を連れ出して遊んでくれた。映画館、美術館、博物館、レストラン、普段は行かない場所の魅力を教えてくれた。

 尊敬できる先輩だ。聡明で博識で丁寧で、何気ない言葉のひとつひとつに含蓄がある。勉強を教えてもらったことだって、二度や三度ではない。

 俺の命の恩人だ。脳動静脈奇形の手術を拒んだ俺のために、医師の手配も、書類の準備も、何からまで全部一人で整えてくれた。

 俺を支えてくれた人だ。空白の一週間による俺の不義理を、全てフォローしてくれた。綿密な計画に基づき、自ら悪者になることを選んだ。文化祭を成功させ、ナツキの演劇を実現させ、俺の記憶を取り戻すキッカケまで用意してくれた。

 

 アキハ先輩は完璧超人だ。全知全能だ。

 俺とナツキとコハルとの間にあったことも、当然、知っているはずだと思っていた。

 

 しかし彼女は、たった今それを知ったのだ。

 

 ヤバい。怒られる──いや違う!

 怒るのはアキハ先輩のやり方じゃない。もっと静かに、もっと遠回しに、もっと深いところで何か深刻な罰を受ける!!!

 

「あ、あの、アキハ先輩」

 

 俺はアキハ先輩の顔を、恐る恐るうかがう。

 

 アキハ先輩は、うつむいていた。

 長い黒髪が顔を覆い隠している。表情は、やはり読めなかった。

 

「アキハ先輩……」

 

 返事がなかった。

 

 俺はもう一度、声をかけようとした。

 

 そのとき。

 

 ぽた、と、床の上に何かが落ちた。

 

「……え?」

 

 俺の声が、かすれた。

 

「ぅ」

 

 アキハ先輩の喉から声が漏れた。 

 ぽたり、ぽたり、続けて落ちる雫。

 

 涙だった。

 

 アキハ先輩が、泣いていた。

 

「う、ウチが、うぅ、ひぐっ──」

 

 大きな声を上げて、アキハ先輩は泣いた。

 

 子どもが転んだときみたいに、わんわん泣いた。

 

 

 

 俺は、自分の目と耳を信じられなかった。

 あのアキハ先輩が泣くなんて、夢にも思わなかった。

 

 光景は徐々に現実味を帯びて、気づけば俺はアキハ先輩の震える肩を抱いていた。

 

「あ、アキハ先輩! すみません、俺……」

 

「う、ウチがっ、ウチがっ」

 

 泣きじゃくるアキハ先輩の口調は、京都弁だった。

 

 今までずっと敬語だったのに。

 声色だって、いつもと全く違う。頼りなくて弱々しい嗚咽だった。

 

「ウチがっ、最後、最後なんてっ、ひどい。ひどいわぁ、ウチかて、ウチかてっ──」

 

 トーマさんのこと好きやのに!

 

 叫びは俺の胸腔に響いた。

 

 アキハ先輩の涙は、(せき)を切ったように止まらない。泣き声は、「ひどい、ひどい」と繰り返す。

 

「ウチ、ウチ……っ、が、がんばってっ、みんなでいっしょになれるようにっ、いっぱい考えてっ、みんなで幸せになれる思てっ、がんばったのにっ」

 

 アキハ先輩の華奢な肩が、ふるふる震えている。

 

「今はフユミさんより先には行けんでもっ、せめて、せめて二番目ならと思ってたのにっ、最後って、最後なんてっ、ひどいっ。ひどいわ。ひどいわ──!」

 

「すみません」

 

「あやまらんといてください!」

 

 叫び声の後、アキハ先輩は俺の胸元に額を押し付ける。そして、しばらくしゃくり上げていた。

 

 やがて、アキハ先輩の指が俺のシャツを握った。ぎゅうと、布が引き絞られる。

 

 それから、ふっと力が抜けた。

 

 また、ぎゅうと握る。また、力が抜ける。

 アキハ先輩の口が何かを言おうとするたび、指に力がこもっていた。

 

「……べ、別に」

 

 ひっく、と喉が鳴った。

 

「別に、一番じゃなくても、良かったんです。でも、最後なんて、寂しくて……悔しくて……」

 

 すすり泣きは止まない。

 

「頭では、わかってるんです。順番なんて、どうでもいいって。そもそも、それを言い出したのは、ウチですから」

 

 俺には返す言葉もない。

 

「せやけど……」

 

 アキハ先輩の息が乱れる。

 

「悔しい……」

 

 アキハ先輩は言って、また黙った。

 

 俺のシャツが、じんわりと湿っていく。

 

 涙だった。

 さっきのような、声とともに溢れる涙じゃない。ゆっくりと、静かに滴る涙だった。

 

 俺は、アキハ先輩の背中を撫でた。

 

 震えている。

 頼りなく揺れる体を抱きしめて、俺は自分の思い違いに気づいた。

 

 アキハ先輩は、普通の女の子なんだ。

 

 俺は、この人のことを、なんだと思っていたんだろう。

 

 完璧超人。命の恩人。畏敬の対象。

 

 そんな枠組みの中にアキハ先輩を押し込んで、彼女が時どき見せる無邪気さに触れただけで、彼女を知ったつもりになっていた。

 

 違った。

 

 アキハ先輩は、普通の女の子だった。

 

 優しくて、寂しがり屋で、可愛らしくて、笑って、泣いて、恋をして。

 

 俺やフユミやコハルやナツキと同じ、普通の高校生なんだ。

 

 そんな当たり前のことに、俺は今の今まで気づけていなかった。

 

 しばらくして、アキハ先輩が、深く息を吐いた。

 

 少しずつ、呼吸が整っていく。

 

 アキハ先輩は、俺のシャツを握っていた指を、そっとほどいた。

 

「……かっこ悪いですね、私」

 

 いつもの静かで穏やかな声だった。

 いつも通りの、完璧な微笑だった。

 涙の跡はまだ頬に残っている。涼やかだった目元は、泣き腫らして赤らんでいる。長い睫毛(まつげ)は涙に束ねられ、月下にきらめく。

 それでも背筋をスッと伸ばし、黒髪を片手で耳にかける所作には、いつもの気品が戻っていた。

 さっきまで泣いていた少女と、今ここにいるアキハ先輩が、同一人物だと信じられないほどだった。

 

 その切り替えの早さが痛々しい。

 ずっとこうやって感情を畳み込んで生きてきたんだろうか。

 アキハ先輩は今まで泣いたことが無いんじゃなくて、泣き方を知る前に大人になってしまっただけなんじゃないか。

 

 そう思うとジッとしていられなくて、俺はアキハ先輩を抱きしめた。

 

「きゃ──!」

 

 愛らしい声を上げるアキハ先輩を、息がかかるほどの距離で見つめる。

 

「な、なんですか。急に。何を言うつもりですか」

 

 アキハ先輩は、ふいと視線を逸らした。

 長い睫毛は伏せられて、頬に細々と影を落とす。きゅっと結ばれた唇は、まるで()ねた子どもみたいだ。

 

「アキハ先輩は、かっこいいですよ」

 

「……嘘です」

 

「嘘じゃないですよ」

 

「嘘ですよ。あなたはいつも、そうやって耳触りの良い言葉を並べ立てて」

 

 アキハ先輩の声に、ひび割れのような震えが混じる。

 

「心の隙間に指を差し込んで私を手玉に取るくせに、いつも他の女の子の話ばかりで、私だけのものにはなってくれなくて……!」

 

 少しずつ湿って涙声になる。黒い瞳がまた潤む。

 

「イヤや、もう……情けない。自分勝手で、子どものまんま……ほんに、はしたない……」

 

 俺は、何も言えなかった。

 言葉が見つからないんじゃない。 言葉だけじゃ足りないと思った。

 

 俺はアキハ先輩の顔を、両手でそっと包む。涙で濡れた頬が、手のひらに少し熱かった。

 

 アキハ先輩は不思議そうに俺を見上げた。

 

「もっと、そういうところ見せてください。もっと泣いたり笑ったりしてください。もう恋人なんですから、俺の前ではカッコつけないでください」

 

 アキハ先輩の目が、見開かれた。

 

 俺の手のひらの中で、頬が少しずつ熱を上げていく。涙で濡れた肌が、体温でじわじわ乾いていく。

 

 薄薔薇色の唇が震える。

 

「……っ」

 

 何か言おうとして、言えずに、また閉じた。

 

 アキハ先輩の目が、俺の目を見ていた。

 

 涙で濡れた黒瞳の奥、いくつもの感情が揺らめく。困惑。照れ。戸惑い。安堵。

 

 しばらく、二人とも黙っていた。

 波の音だけが、やけに大きく響いていた。

 

 やがて、

 

「……ずるい」

 

 アキハ先輩が、小さく呟いた。

 

「ずるいです」

 

 アキハ先輩の目が、すぅっと細められた。

 

「私がトーマさんのこと嫌いになれないって知ってるのに、またそんなこと言って、私、もっとあなたのことを、す、す……好きに、なってしまって……」

 

 語尾がフェードアウトする。

 

 そして、アキハ先輩は、俺の目をまっすぐに見た。

 

 さっきまで揺れていた黒瞳が、今は確かに定まっている。

 

「……あなたの前では、格好つけていたいんです。……可愛く甘えられない私でも、いいですか?」

 

「カッコつけてもカッコつけなくても、俺はアキハ先輩が好きですよ」

 

 アキハ先輩は俺を見据えたまま少しだけ目を見張る。そして、ふっと息を吐く。

 

 張り詰めていた糸が、ゆっくりと緩むようだった。

 

 切れ長の瞳が、より鋭く妖艶に細められる。

 

「……この二ヶ月で、すっかり悪い男になってしまわれましたね。誰に似たんでしょうか」

 

 それはもちろんアキハ先輩と、フユミと、コハルと、ナツキと──俺はきっと、四人全員の影響を受けていた。

 

 アキハ先輩は再び息を吐く。今度は大きなため息だった。

 

 そして、目を閉じて少し上を向く。

 

 昼間の海辺と同じシチュエーション。

 重ねた唇は、涙で少し塩辛かった。

 

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