「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
「なるほど、私が最後ですか。なるほど、なるほど……」
アキハ先輩の声は、海の底から響くように、深く、重く、低い。
終わった。
俺は最早、何も言えない。
アキハ先輩は、幽鬼のようにたたずんでいる。月輪を背負う立ち姿は逆光になっていて、アキハ先輩の表情はうかがえない。
焦りが、じわじわと背筋を這い上がる。冷たい汗が目に入り、視界がボヤける。
寒気がするのは潮風のせいだけじゃない。部屋が薄暗く見えるのは、月に
俺は今、畏怖している。
アキハ先輩に。
アキハ先輩は、お茶目な先輩だ。毎週のように俺を連れ出して遊んでくれた。映画館、美術館、博物館、レストラン、普段は行かない場所の魅力を教えてくれた。
尊敬できる先輩だ。聡明で博識で丁寧で、何気ない言葉のひとつひとつに含蓄がある。勉強を教えてもらったことだって、二度や三度ではない。
俺の命の恩人だ。脳動静脈奇形の手術を拒んだ俺のために、医師の手配も、書類の準備も、何からまで全部一人で整えてくれた。
俺を支えてくれた人だ。空白の一週間による俺の不義理を、全てフォローしてくれた。綿密な計画に基づき、自ら悪者になることを選んだ。文化祭を成功させ、ナツキの演劇を実現させ、俺の記憶を取り戻すキッカケまで用意してくれた。
アキハ先輩は完璧超人だ。全知全能だ。
俺とナツキとコハルとの間にあったことも、当然、知っているはずだと思っていた。
しかし彼女は、たった今それを知ったのだ。
ヤバい。怒られる──いや違う!
怒るのはアキハ先輩のやり方じゃない。もっと静かに、もっと遠回しに、もっと深いところで何か深刻な罰を受ける!!!
「あ、あの、アキハ先輩」
俺はアキハ先輩の顔を、恐る恐るうかがう。
アキハ先輩は、うつむいていた。
長い黒髪が顔を覆い隠している。表情は、やはり読めなかった。
「アキハ先輩……」
返事がなかった。
俺はもう一度、声をかけようとした。
そのとき。
ぽた、と、床の上に何かが落ちた。
「……え?」
俺の声が、かすれた。
「ぅ」
アキハ先輩の喉から声が漏れた。
ぽたり、ぽたり、続けて落ちる雫。
涙だった。
アキハ先輩が、泣いていた。
「う、ウチが、うぅ、ひぐっ──」
大きな声を上げて、アキハ先輩は泣いた。
子どもが転んだときみたいに、わんわん泣いた。
俺は、自分の目と耳を信じられなかった。
あのアキハ先輩が泣くなんて、夢にも思わなかった。
光景は徐々に現実味を帯びて、気づけば俺はアキハ先輩の震える肩を抱いていた。
「あ、アキハ先輩! すみません、俺……」
「う、ウチがっ、ウチがっ」
泣きじゃくるアキハ先輩の口調は、京都弁だった。
今までずっと敬語だったのに。
声色だって、いつもと全く違う。頼りなくて弱々しい嗚咽だった。
「ウチがっ、最後、最後なんてっ、ひどい。ひどいわぁ、ウチかて、ウチかてっ──」
トーマさんのこと好きやのに!
叫びは俺の胸腔に響いた。
アキハ先輩の涙は、
「ウチ、ウチ……っ、が、がんばってっ、みんなでいっしょになれるようにっ、いっぱい考えてっ、みんなで幸せになれる思てっ、がんばったのにっ」
アキハ先輩の華奢な肩が、ふるふる震えている。
「今はフユミさんより先には行けんでもっ、せめて、せめて二番目ならと思ってたのにっ、最後って、最後なんてっ、ひどいっ。ひどいわ。ひどいわ──!」
「すみません」
「あやまらんといてください!」
叫び声の後、アキハ先輩は俺の胸元に額を押し付ける。そして、しばらくしゃくり上げていた。
やがて、アキハ先輩の指が俺のシャツを握った。ぎゅうと、布が引き絞られる。
それから、ふっと力が抜けた。
また、ぎゅうと握る。また、力が抜ける。
アキハ先輩の口が何かを言おうとするたび、指に力がこもっていた。
「……べ、別に」
ひっく、と喉が鳴った。
「別に、一番じゃなくても、良かったんです。でも、最後なんて、寂しくて……悔しくて……」
すすり泣きは止まない。
「頭では、わかってるんです。順番なんて、どうでもいいって。そもそも、それを言い出したのは、ウチですから」
俺には返す言葉もない。
「せやけど……」
アキハ先輩の息が乱れる。
「悔しい……」
アキハ先輩は言って、また黙った。
俺のシャツが、じんわりと湿っていく。
涙だった。
さっきのような、声とともに溢れる涙じゃない。ゆっくりと、静かに滴る涙だった。
俺は、アキハ先輩の背中を撫でた。
震えている。
頼りなく揺れる体を抱きしめて、俺は自分の思い違いに気づいた。
アキハ先輩は、普通の女の子なんだ。
俺は、この人のことを、なんだと思っていたんだろう。
完璧超人。命の恩人。畏敬の対象。
そんな枠組みの中にアキハ先輩を押し込んで、彼女が時どき見せる無邪気さに触れただけで、彼女を知ったつもりになっていた。
違った。
アキハ先輩は、普通の女の子だった。
優しくて、寂しがり屋で、可愛らしくて、笑って、泣いて、恋をして。
俺やフユミやコハルやナツキと同じ、普通の高校生なんだ。
そんな当たり前のことに、俺は今の今まで気づけていなかった。
しばらくして、アキハ先輩が、深く息を吐いた。
少しずつ、呼吸が整っていく。
アキハ先輩は、俺のシャツを握っていた指を、そっとほどいた。
「……かっこ悪いですね、私」
いつもの静かで穏やかな声だった。
いつも通りの、完璧な微笑だった。
涙の跡はまだ頬に残っている。涼やかだった目元は、泣き腫らして赤らんでいる。長い
それでも背筋をスッと伸ばし、黒髪を片手で耳にかける所作には、いつもの気品が戻っていた。
さっきまで泣いていた少女と、今ここにいるアキハ先輩が、同一人物だと信じられないほどだった。
その切り替えの早さが痛々しい。
ずっとこうやって感情を畳み込んで生きてきたんだろうか。
アキハ先輩は今まで泣いたことが無いんじゃなくて、泣き方を知る前に大人になってしまっただけなんじゃないか。
そう思うとジッとしていられなくて、俺はアキハ先輩を抱きしめた。
「きゃ──!」
愛らしい声を上げるアキハ先輩を、息がかかるほどの距離で見つめる。
「な、なんですか。急に。何を言うつもりですか」
アキハ先輩は、ふいと視線を逸らした。
長い睫毛は伏せられて、頬に細々と影を落とす。きゅっと結ばれた唇は、まるで
「アキハ先輩は、かっこいいですよ」
「……嘘です」
「嘘じゃないですよ」
「嘘ですよ。あなたはいつも、そうやって耳触りの良い言葉を並べ立てて」
アキハ先輩の声に、ひび割れのような震えが混じる。
「心の隙間に指を差し込んで私を手玉に取るくせに、いつも他の女の子の話ばかりで、私だけのものにはなってくれなくて……!」
少しずつ湿って涙声になる。黒い瞳がまた潤む。
「イヤや、もう……情けない。自分勝手で、子どものまんま……ほんに、はしたない……」
俺は、何も言えなかった。
言葉が見つからないんじゃない。 言葉だけじゃ足りないと思った。
俺はアキハ先輩の顔を、両手でそっと包む。涙で濡れた頬が、手のひらに少し熱かった。
アキハ先輩は不思議そうに俺を見上げた。
「もっと、そういうところ見せてください。もっと泣いたり笑ったりしてください。もう恋人なんですから、俺の前ではカッコつけないでください」
アキハ先輩の目が、見開かれた。
俺の手のひらの中で、頬が少しずつ熱を上げていく。涙で濡れた肌が、体温でじわじわ乾いていく。
薄薔薇色の唇が震える。
「……っ」
何か言おうとして、言えずに、また閉じた。
アキハ先輩の目が、俺の目を見ていた。
涙で濡れた黒瞳の奥、いくつもの感情が揺らめく。困惑。照れ。戸惑い。安堵。
しばらく、二人とも黙っていた。
波の音だけが、やけに大きく響いていた。
やがて、
「……ずるい」
アキハ先輩が、小さく呟いた。
「ずるいです」
アキハ先輩の目が、すぅっと細められた。
「私がトーマさんのこと嫌いになれないって知ってるのに、またそんなこと言って、私、もっとあなたのことを、す、す……好きに、なってしまって……」
語尾がフェードアウトする。
そして、アキハ先輩は、俺の目をまっすぐに見た。
さっきまで揺れていた黒瞳が、今は確かに定まっている。
「……あなたの前では、格好つけていたいんです。……可愛く甘えられない私でも、いいですか?」
「カッコつけてもカッコつけなくても、俺はアキハ先輩が好きですよ」
アキハ先輩は俺を見据えたまま少しだけ目を見張る。そして、ふっと息を吐く。
張り詰めていた糸が、ゆっくりと緩むようだった。
切れ長の瞳が、より鋭く妖艶に細められる。
「……この二ヶ月で、すっかり悪い男になってしまわれましたね。誰に似たんでしょうか」
それはもちろんアキハ先輩と、フユミと、コハルと、ナツキと──俺はきっと、四人全員の影響を受けていた。
アキハ先輩は再び息を吐く。今度は大きなため息だった。
そして、目を閉じて少し上を向く。
昼間の海辺と同じシチュエーション。
重ねた唇は、涙で少し塩辛かった。