「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
「洗面台の鏡の裏に、アキハ先輩のボディオイルがあるから。今度会ったときに返してあげて」
フユミにそう言われ、俺は目当てのものを回収した。
何気なくキャップを開けると、甘く上品な薔薇の香りが広がる。
その瞬間、俺の脳裏に呼び起こされた記憶。
◆
『プルースト効果と言いまして』
アキハ先輩の声。
いつもよりしっとりとしている。
俺の心音を聞くようにして身を預けている。
『特定の香りを嗅いだとき、その香りにヒモづけられた記憶を、鮮やかに思い出すことがあるんです』
『……それで?』
問い返す俺の声。
『だから今、マーキングしているんです』
アキハ先輩は顔を上げ、濡れた瞳で上目遣いに微笑む。そして、自身の艶やかな髪を、俺の胸板にぐりぐり押し付けた。薔薇の香りが、俺の肌に染み込んでいく。
『ちょ、髪乱れちゃいますよ。せっかく風呂上がりにセットしたのに』
『いいんですよ。私、できることは全部したいので』
アキハ先輩は笑った。
そして、ふと寂しげに瞳を伏せる。
『多分、今日のことも、トーマさんは忘れてしまいますから。でも、私が覚えています。私は全部覚えています。できることも、全部します』
そう言った。
『……忘れませんよ』
俺の言葉に、
『忘れますよ』
アキハ先輩は眉尻を下げて微笑む。
『忘れたとしても、思い出します』
『まあ、頼もしい』
アキハ先輩は冗談めかして手を打った。
『では、もし思い出せたら……』
しなやかな両腕が俺の首を抱え、逃げ道を奪う。
『必ず私を、迎えに来てくださいね』
そう言って、唇を重ねた。
◆
「……いつだ?」
モヤのように噴き出た記憶。その出処がわからない。
きっと妄想ではない。肌の温もりも、香水の匂いも、唇の感触も、確かにあった過去だ。
だが、それがいつだったかはまるで思い出せない。
肝心要の部分には、まだまだ
「くそ──!」
悪態をつくが、記憶は戻らない。
ただ、あの時のアキハ先輩の「できることは全部する」という言葉だけが、呪いのように耳に残っていた。
結局、その日はベッドに入っても一睡もできなかった。
翌朝。
6月2日の火曜日。
フユミは特進の朝学活で、先に登校している。
俺は、一つの仮説にたどり着いていた。
……確かめなくてはいけない。
静まり返った自宅のリビングで、俺は一つの確信に至り、アキハ先輩にLINEを送った。
『薔薇の匂いで一つ思い出しました。質問したいことがあります。お時間よろしいですか?』
アキハ先輩からの返事は、数秒で来た。
『是非』
その後の授業は、ほとんど上の空だった。
コハルと何か会話したことは覚えている。が、内容は全く頭に入らなかった。コハルには申し訳ないことをした。しかし、アキハ先輩が何を言うか考えていると、他のことを考える余裕はなかった。
「トーマ、今日もナッちゃんと一緒にお昼でい〜い?」
コハルの声で我に返ると、もう昼休みだった。
「あー、今日は俺、アキハ先輩と話すことがあって。ごめん、二人で弁当にして」
「りょ!」
コハルは敬礼のジェスチャーで応じてくれた。俺は軽く会釈する。
教室の引き戸を開ける。
「あ、先輩──」
ナツキと鉢合わせた。
何か言いかけた彼女に、
「悪い、今日は急用があって。また明日以降!」
俺は手刀を切って詫びを示し、立ち止まることなくアキハ先輩のもとへ――生徒会室へと足を早めた。
◆
「で、お話というのは何でしょうか?」
アキハ先輩は、窓からの強い逆光を背負ってそう言った。表情は影になっていて読めない。
俺は後ろ手で鍵を閉め、カチリという金属音を確認してから、呼吸を整えて言った。
「ウチに来たときから、全部計算ずくだったんですね?」
「計算ずく、というのは?」
俺はポケットから取り出したボディオイルをテーブルに置く。コト、と乾いた音が響く。
アキハ先輩は眉一つ動かさなかった。
「これを置いてった理由は、俺でも簡単に分かりました。フユミへの当てつけですよね」
「ええ。その通りです。それを咎めに来てくれたんですか?」
「そうじゃありません。『それ以降の展開のために、それをやったのか?』と聞きたいんです」
俺はアキハ先輩を真っ直ぐに見据えた。
「……続けてください」
「このオイルを見て、フユミは焦った。煽られた彼女が過激な服装でアピールに走り、その現場に偶然ナツキが居合わせる。……それも計算通りですか?」
俺は一歩踏み出す。
「ナツキがフユミの暴走をコハルに伝え、コハルがフユミの次のアプローチを予測する。それを俺に突きつけ、ナツキと2人がかりで俺を文芸部室に追い込む。……それも、想定内だったんですか?」
アキハ先輩は沈黙を守っている。
「部室での騒動がキス止まりで終わり、それが翌朝フユミに露見して修羅場となる。その結果、『今のままでは勉強に集中できない』という空気が生まれ、解決策として『全員での合宿』が必要になる」
俺は結論を突きつけた。
「ぜんぶぜんぶ、あの勉強合宿を開催するための布石だったんですか?」
「……少々、飛躍した推理に思えますね」
アキハ先輩は、紅茶のカップを優雅に傾けた。
「事実を整理しましょう。『トーマさんの自宅に私物を置いていった』。『ナツキさんとコハルさんからの申請を受け、トーマさんと3人で文芸部室に宿泊する許可を出した』。私が勉強合宿の決定前にしたことは、このたった2つです。トーマさんはこの2つをもって、私が皆さんを誘導したのではないか? と考えていらっしゃるのですね」
「はい。自分でも非現実的だと思います。人の心を、そんなに簡単に操れるなんてありえない──でも、確信があるんです」
俺は、昨晩よみがえった記憶に基づき、アキハ先輩への印象を言語化する。
「俺、少しだけ思い出しました。アキハ先輩が『できることは全部したい』って言ってたこと。そのときの表情も。……だから、アキハ先輩なら、そこまでやったんじゃないかって思ったんです」
部屋は、張り詰めた沈黙に満たされた。
背後の窓に映る空は、いつしか雲に埋め尽くされていた。
鈍色の雲が垂れ込め、部屋は薄闇に包まれる。アキハ先輩の輪郭がぼやける。まるで水墨画の世界だ。
やがて。
「ふふふ……。『犯人の所信表明を思い出したから』、だなんて、とんだ名推理もあったものですね」
アキハ先輩が、ゆっくりと立ち上がった。
薄闇の中から、あの時と同じ、悪戯な笑みが浮かび上がる。
「お察しの通りです。私は、現状に至るための計画として、トーマさんのお家に私物を置いてきました」