「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
「どこから話したものでしょうか……」
アキハ先輩は、窓の外に広がる曇天に目を細めた。
幼少期に読んだきりの絵本を取り出して、久しぶりにページをめくるような、穏やかな横顔だった。
「私、両親とは仲が良かったんです。二人には幸せになってほしいと思っていました。ただ、父は恋多き人で。小学五年生の夏休みに、私はピアノ教室からの帰り道で、父が愛人と二人でいるところに出くわしてしまいました。父は慌てて愛人を帰らせ、私を個室のレストランへ連れて行って、『母には秘密にしてくれ』と言いました」
彼女はそこで言葉を切り、ティーカップを口へ運ぶ。紅茶を一口飲んでから、ほう、と息をついた。
「私は早めのディナーを食べながら、あれやこれやと考えました。私は父と母を愛していたので、二人が喧嘩別れしないようにと考えました。だから、父のアリバイを作ったんです。いつどこで何をしていたのか、矛盾せず、真相が露見しないようなエピソードを作って、父に伝えました」
アキハ先輩は、紅茶のカップのフチを指先でなぞりながら、くすりと笑う。
「それが楽しかったことを覚えています。ふふふ、そうすれば父に喜んでもらえると思っていたのですね」
一点の
「父は、信じられないものを見るような目で私を見ました。そして私を抱きしめて謝って、母に連絡を取り、その日は帰りました。私が見ているところでは何もなく、婚姻関係も続いていましたから、父は恐らく母と話し合ったのでしょうね」
アキハ先輩の声のトーンが、すぅっと下がった。
彼女はティーカップを机を置き、自分の二の腕を抱くようにして、身をすくめた。
「それ以来、両親は少しだけ、よそよそしくなったように思います。私たち三人は確かに愛し合っていたはずですが、その日までのような愛し方でなくなりました。なにか……触れ方の分からぬ腫れ物を扱うような……そんな手つきがありました」
彼女は自身の
ただ愛する両親を守りたかっただけの手。それなのに、その手で何かを壊してしまったという感覚だけが、抜けないトゲのように残り続けているのだろう。
「以来、私はずっと、大切な人との関わり方を間違えてきました」
アキハ先輩の目つきが、遠くを見るようになった。
「バイオリン教室の先生に褒めてもらえるのが嬉しくて、目ぼしい曲を全て覚えてきたんです。そしたら先生は私に何も教えてくれなくなりました。スケート教室の先生に見込んでもらえたのが嬉しくて、期待に応えようとアクセルジャンプを覚えたんです。そしたら、先生はスケートをやめてしまいました」
彼女の瞳から、ゆっくりと焦点が失われていく。
その視界に映っているのは、目の前にいる俺ではない。かつて彼女に畏怖して、彼女を拒絶し、向き合うことを諦めた人々の背中なのだろう。
アキハ先輩は、ただ自身の記憶の深淵を覗き込むような目で、虚空へ向かって言葉を紡いでいた。
「私が教室に残っていれば、先生方はきっと、稀代の名コーチとして名を馳せたはずです。父が母に真実を伝えなければ、私たち家族三人は円満に暮らしていけたはずです」
アキハ先輩の視線が移ろう。風景を眺めるような曖昧な目つきで、俺を見ている。
「……でも、そうはなりませんでした」
背後の窓の外、垂れ込める雨雲が分厚さを増す。
薄闇が室内に行き渡る。アキハ先輩の表情は、影に覆われてよく見えない。
俺は思う。
木南秋葉は優れているというより外れていて、傑物というより怪物で。
それを自覚しているからこそ、彼女は立ち止まることができない。
「私は、大切な人を大切にしたいんです。ただ、ずっといっしょに、幸せでいたいだけなんです。だから頑張っているのに、みんな私を嫌いになるんです。『操られるのは嫌だ』って」
暗がりに包まれたアキハ先輩の輪郭が、かすかに揺らいだ気がした。
「り、理解、できないんですよ」
アキハ先輩の声が震える。
完璧なはずの笑みには、わずかな強張りが見え隠れしている。
「どうして幸せを拒むんですか?」
理知的な黒い瞳には、怯えの光が宿っていた。
「……先輩」
俺は、アキハ先輩に一歩踏み込む
「俺は、先輩を拒絶しませんよ」
アキハ先輩の瞳は俺へ向いている。焦点が、ゆっくりと俺に合わされる。
俺は続けて、一番確認しておきたかったことを口にした。
「一つだけ聞かせてください。……先輩は、俺やフユミ、コハルやナツキのことを、どう思っているんですか?」
ただの駒やオモチャだと思っているのか。
それとも、別の感情があるのか。
アキハ先輩は、目を瞬かせる。彼女の視界の中で、今確かに俺が像を結んだ。そんな気がした。
やがてアキハ先輩は、ゆったりした口調で答えた。
「……私は、トーマさんのことが好きです」
ストレートな告白に、たじろぎそうになる。アキハ先輩の言葉には、続きがあった。
「私の好きな人のことを、好きな人たちのことも、好きです。……
彼女は、まるで自明の事実を語るように、けれど確かな熱を込めて言った。
「三人ともトーマさんを愛している。そしてトーマさんも、彼女たちを大切に思っている。私にはそれだけで十分です」
「……そうですか」
俺は深く息を吐き出し、肩の力を抜いた。
「それを聞いて安心しました。俺にとって大事なのは、そこだけですから」
万々が一、アキハ先輩が人を人とも思わない独裁者だったらどうしようかと考えていた。
でも、なんてことはない。
アキハ先輩は、器用すぎて不器用なだけの愛情深い女の子だった。
「では、失礼します」
俺は背を向け、扉の方へ歩き出した。これ以上、掘り起こすことは何もない。
「――待ってください」
背後から、アキハ先輩の声が呼び止めた。
先ほどまでの虚ろさはなく、芯の通った声だった。
「記憶喪失の真相に、興味はないのですか?」
俺は足を止める。
「……私が、トーマさんの記憶喪失に関与しているとは思わないのですか? 私がトーマさんの記憶を奪った張本人だとは、疑わないのですか?」
試すような問いかけ。
俺は振り返らず、ドアノブに手をかけたまま答えた。
「疑いませんよ」
「……根拠は?」
「アキハ先輩が言わないってことは、言わない理由があるんでしょう。そして、アキハ先輩は理由なくヒドいことをするような人じゃないと、俺は信じてますから」
俺は言葉に力を込めた。
「無理に話さなくていいです。……こっちで勝手に思い出しますから」
「…………」
背後で、息を呑む気配がした。
しばしの沈黙。
コツ、コツ、とローファーの音が近づいてくる。
俺のすぐ後ろで、気配が止まった。
「……これ、返していただきますね」
かすかな物音。アキハ先輩が、机上に置かれたボディオイルの小瓶を手に取ったのだろう。
俺が振り返ると、そこにはいつもの――いや、いつも以上の笑みを浮かべたアキハ先輩が立っていた。
「最後に、一つだけ」
「え?」
問い返すヒマも無かった。
アキハ先輩が俺の袖を引き、抱き寄せる。
ふわりと香る、薔薇の匂い。
柔らかい感触が、全身に伝う。
そして、唇に唇に押し当てられ、舌が口中に差し込まれる。
不意打ちで頭が真っ白になって、呆気にとられているうちに、何秒経ったろうか。
濃厚なふれあいのあと、アキハ先輩は俺の唇を指でなぞり、
「これで、全員横並びですね?」
妖艶に微笑んだ。
「四天王の仲は良好。計画は最終段階に至りました。私に出来ることは全てやったつもりです」
アキハ先輩の手が、俺の顔を撫でる。俺の横髪を指で梳き、こめかみからアゴの先までを、指先で慈しむようになぞる。
「あとは、すべて、あなた次第です。どうか、あなたの望み通りになさって……」
では、と手を振るアキハ先輩。
俺は何かにいざなわれるようにして、ふらふらと生徒会室を出て行く。おぼつかない足取りで廊下を歩く。
薔薇の香りとアキハ先輩の体温に、ずっと包まれながら。