「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
教室への帰り道、廊下の空気は重く、湿っていた。
俺は自分の口元に指で触れる。
まだ、薔薇の香りが残っている気がする。
唇に残る柔らかな感触。あの妖艶な微笑。
『これで全員横並びですね』
『あとは、すべて、あなた次第です。あなたの望み通りになさって……』
アキハ先輩の言葉が、熱を持って脳髄に纏わりついている。
ガララ、と教室の引き戸を開ける。
昼休み中の教室は、ささやかな喧騒に包まれていた。談笑する声、教科書を用意する物音、ささやかな響きが重なり合って、雑多なBGMを作り上げている。
俺は自分の席に戻り、カバンを置いた。
「お帰り〜」
隣の席で、コハルがスマホをいじりながら振り返った。
いつものヘラヘラした笑顔。
さっきまでアキハ先輩と交わした会話が、まるで異世界の出来事だったかのように錯覚してしまう。
「……ただいま」
俺は短く返して、窓の外へ視線を逃がした。
何を話せばいいのか、どういう顔をすればいいのか、自分でもうまく整理がつかない。
そんな俺を、コハルは気にする様子もない。
それがかえって決まり悪い。
「あ、ナッちゃんは文芸部室に戻ったよ」
コハルがスマホを見たまま、補足するように言った。
「そうか……」
俺はとりあえず弁当を取り出し、なんとなく箸をつける。もそもそと食べる。
湿気を含んだ風が、カーテンを気怠げに揺らしている。ワイシャツが背中に張り付くような、不快指数が高まる季節。
世界全体が、薄い水槽の中に沈んでいるような、息苦しくも静かな、梅雨の午後だった。
ふと、視線に気づく。コハルは頬杖をつき、じっと俺を見つめていた。
「トーマさぁ」
「ん?」
「いま、『なんかあったの』って聞かれても困るけど、聞かれなくてもそれはそれで気まずいなぁ〜、って顔してるよ」
コハルは、いたずらっ子のようにケラケラと笑った。
「……なんだそれ。器用な顔だな、俺」
「器用だよ。わかりやすくて、めんどくさくて、ちょー人間くさい顔」
コハルは俺の方へ身を乗り出す。
ふわり、と甘ったるいココナッツの香りがした。アキハ先輩の薔薇とは違う、親しみやすくて、少しだけ切ない匂い。
「いーのいーの。無理に言わなくて」
彼女は長い爪の先で、俺の手の甲をトン、と突いた。
「話したいときに話せばいいし、自分の気持ちがわからなかったら『わからないなぁ』って思ってればいいんだよ」
「……わからないままじゃ、ダメじゃないか」
「いーの。アタシたち、まだオトナじゃないし。グレーなままフワフワ漂ってるのも、子どもの特権ってことで」
コハルはウィンクして、またスマホに視線を戻した。
その適当な優しさが、今の俺には救いだった。
ただそこにいて、俺の煮えきらなさを肯定してくれる。
ポツ、と窓ガラスに雨粒が当たった。
それを合図に、サーッという静かな雨音が校庭を包み込んでいく。
雨の匂いが濃くなる。
俺は息を深く吐き出し、ぼんやりと雨空を見上げた。
口の中に残っていた薔薇の味は、いつの間にか、雨の匂いに溶けて消えていた。
しとしとと降り続く雨が、校舎を灰色のカーテンで包み込む。
だが、校内の熱気は湿気になど負けていなかった。7月の文化祭に向け、準備期間が正式にスタートしたからだ。
◆◆
数日後、放課後の第2会議室。
雨音だけが響く静寂の中、ナツキが冊子を3冊、テーブルに積み上げた。
「脚本、完成しました」
それは、台本としてはかなり薄いものだった。
表紙には明朝体で『新訳・パリスの審判』と印字されている。
「……ずいぶんとコンパクトね」
フユミがパラパラとページをめくる。
「ええ。セリフ量は最小限にしました」
「え、どして?」
コハルが不思議そうに小首をかしげる。するとナツキは得意げな表情になった。
「間や余韻で魅せたいんですよ。物語というのは言葉よりも情緒です。皆様なら……もとい、
いつになく真剣なナツキの声色に、フユミもコハルもアキハ先輩もうなずいた。2週間の合宿で、四人の絆は確かに結ばれたらしい。
「さて、演出プランについては後日、カメラマン兼・舞台監督である先輩を交えて会議を行います」
俺かよ。
部屋の隅で聞き耳を立てていた俺は、これから始まるハードでタイトな練習日程を予感して、天を仰いだ。
◆
そして、6月中旬。
生徒会による「文化祭告知PV」の撮影も、俺が担当することになった。
放課後の生徒会室。
ほとんど来たことのない場所。モダンでシンプル、ハイセンスな内装。
緊張する。
「カメラ、回りました」
俺の合図と共に、デスクで書類に目を通していたアキハ先輩が顔を上げる。
その周囲には、制服をビシッと着込んだ体格の良い女子生徒たち。全員が全員、木南家の手の者らしい。
「――全校生徒の皆さん」
アキハ先輩が、レンズ越しに冷静かつ知的な視線を向ける。
「今年の文化祭のテーマは『革新』です。伝統を守りつつ、新たな価値を創造する。我々生徒会は、そのための環境を全力で提供します」
彼女が短く指示を出すと、背後のスタッフたちが手際よく資料を整理し、タブレットを操作する。
過剰な演出はない。
ただ淡々と、プロフェッショナル集団としての画《え》がそこにあった。
撮影終了後、データは即座に回収された。
木南ホールディングスが抱える映像編集チームに送り、プロの技術で仕上げるのだという。
数日後、完成したPVがコハルのチャンネルで公開された。
俺と四天王の5人は、その映像を第に会議室で観た。
その映像は、高校の文化祭PVとは思えないほど洗練されていた。無駄な装飾を削ぎ落とした、スタイリッシュなカット割り。
テロップのフォント一つとっても、一流企業のような品格がある。
『最高の瞬間を、あなたに』
画面の中で、アキハ先輩が廊下を歩く。
その後ろを、スーツの女性たちが整然と従う。
まるでCMから抜け出してきたような、凛としたリーダーの姿がそこにあった。
「か、かっこい〜……」
観終わったコハルが、感嘆の息を漏らした。
「風格があったわね」
フユミは紅茶をすすりつつ、澄まし顔で言った。
「まるでショムニみたいですね」
ナツキが、昔のテレビドラマにたとえる。コイツの
◆
そして、もう一本のPV。
コハルを主役にしたダンス動画もまた、別のベクトルで学校を揺るがしていた。
「やっば! 火伏さんマジ女神じゃん!」
「この躍動感……いつもの親しみやすい雰囲気と全然違う……」
各々のスマホ画面に映し出される、別荘のウッドデッキで踊るコハルの姿。
陽光を浴び、キレキレの踊りを披露する彼女の美しさに、男子も女子もため息を漏らしている。
だが、すぐに一つの議論が巻き起こった。
「ていうかさ、このカメラワークすごくない?」
「わかる。被写体への愛が溢れてるっていうか……」
「誰が撮ったんだろ」
教室の隅で、俺はヒヤリと冷や汗を流す。
生徒会のPVも、コハルのPVも、撮影したのは俺だ。
もしここでバレたら、「なぜオマエごときが火伏琥春のプライベート映像を?」「なぜオマエごときが生徒会の極秘撮影を?」と尋問されてしまう。
どう釈明しようと「情状酌量の余地なし」として極刑を下されてしまう!
「ま、こんな映像撮れるのって言ったら……」
男子生徒の一人が、納得したように言った。
「月澄さんしかいないよな」
「あー、確かに!」
「月澄さんなら機材とか凝りそうだし」
「親友の可愛いところを一番わかってるって感じ?」
学園内の空気が「撮影者=フユミ」で固まっていく。
……助かった。
俺は胸を撫で下ろした。
こうして、文化祭への期待は最高潮へ達しようとしていた。
俺だけが、胃の痛くなるようなプレッシャーを抱えながら。