「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。   作:会澤迅一

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第7話 ☆フユミ、真相を知る。コハルは……

「会って話すつもりはないわ。手が出そうだから」

 

 フユミは吐き捨てるように呟いてから、アキハとの通話を切った。

 

 ため息も出ない。

 

 六月二十四日。

 黄昏時の公園には、フユミをおいて誰もいない。

 

 コハルはまだ来ない。

 ぬめるような黒南風が、錆びついたブランコを揺さぶる。鎖の軋む耳障りな高音が、かえって静寂を引き立てる。

 

 木南(きなみ) 秋葉(あきは)からメッセージを受信して数分。

 

 フユミはスマホを握りしめ、画面をスクロールし続けている。

 文章はもう読み終えている。だが、心はまだこの事実を飲み込みきれていない。

 

 何分経っただろうか。

 太陽は、すでにその全貌を地平線の下に沈めている。残光が、辺り一面を黄金(こがね)色で満たしている。

 

『きれーだよな。レモンの色に似てるだろ』

 

 幼き日のトーマの、得意げな声を思い出す。

 

『マジックアワーって言うんだって。フユミの髪の色とも似てるね』

 

 トーマがそう言ってくれたから、悪目立ちする金髪を自慢に思えるようになった。

 

『フユミの目の色は空より濃い青だよな。群青(グンジョー)って言うんだっけ? 前髪で隠しちゃうのもったいなくね?』

 

 トーマがそう言ってくれたから、光に弱い碧眼も自慢に思えるようになった。髪型だって、ツーサイドアップに変えた。トーマは、いつまでもツインテールと混同しているけれど。

 

 公園でノラネコを見つけて、二人でこっそり世話をしていたこと。

 ブランコの立ちこぎから大きくジャンプしたトーマが、着地失敗で足をヒネって泣いていたこと。

 

 いくつも、いくつも、トーマとの思い出がある。

 

 たくさんの初めてを覚えている。

 

 でも、最も新しいものは。最も大きかった()()()()は……

 

「…………もう、意味がないのね」

 

 唇から漏れ出たのは、問いかけですらなかった。

 画面のブルーライトが、血の気の引いたフユミの顔を青白く照らしていた。

 

「あの言葉も、あの手紙も、抱きしめてくれたことも、全部、全部、ぜんぶぜんぶ……」

 

 全部、忘れちゃったのね。

 

 指先が震え、画面の文字が滲む。

 怒りよりも先に、足元が崩れ落ちるような虚脱感があった。今まで積み上げてきた日々が、当たり前だと思っていた現実が、はじめから存在しなかったと気付いてしまった虚無感。

 

 フユミの胸の内から喉の奥へ、熱く尖ったものがこみ上げる。

 

「なんで、言ってくれなかったのよ……。幼なじみなのに。一番最初から、一番近くにいたのに」

 

 命に関わる大病。記憶を失う恐怖。

 そんな重荷を一人で抱え込んでいたトーマを想うと、悔しさと情けなさで胸が押し潰されそうになる。

 

「こんなに、こんなに好きなのに。ずっと好きなのに。どうして、頼ってくれなかったのっ……」

 

 フユミはうつむき、膝の上で拳を握りしめる。爪が掌に食い込む痛みだけが、現実への手掛かりだった。

 

 チャリン、と硬貨の音が響く。

 公園の入り口近くにある自動販売機が唸る。

 

 ガコン、という重たい落下音。

 

 足音が近付いてくる。

 

「おまたせ」

 

 コハルだった。

 手には二本の缶。表情は、影にまぎれて読み取れない。ただ、いつも通りの気怠げな足取りで近づいてくる。

 

「いやー、ジメジメしてんねぇ」

 

 いつも通りの、明るい声。

 フユミが応じる間もなく、コハルは隣に腰掛けた。

 

 プシュ、とプルタブを開ける金属的な音が響く。

 コハルはカフェオレを一口あおり、宵闇の迫る空を見上げる。

 

 沈黙は、どれほど続いたか分からない。

 フユミは身を縮こまらせて、ずっと考え込んでいた。

 コハルはベンチの背もたれに身を預け、手を頭の後ろで組み、ただ空を眺めていた。

 

「……コハルは」

 

 フユミの声は、絞り出したように細かった。

 

「コハルは、いいの? トーマに忘れられちゃったこと、トーマが隠してたこと、アキハ先輩の計画通りに動かされてたこと」

 

「いいよ、アタシは」

 

 フユミは息を呑み、振り向いてコハルの表情を確認する。コハルはただ、空を見上げている。コハルの大きな瞳には、暮れなずむ日の茜色が映し出されていた。

 

「トーマが生きてるなら、なんだっていい」

 

 短く、投げやりな声。

 しかしその響きには、揺るぎない実感がこもっていた。

 

「記憶がないとか、隠してたとか、乗せられてたとか、まー気になるは気になるけどさ。……トーマが死んでいなくなっちゃうよりは、ずっとマシ」

 

 その言葉は、フユミに向けたもののようにも、コハルが自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

 

 コハルはもう一本の缶を、フユミに差し出した。

 

「ん」

 

「……ありがとう」

 

 受け取った掌に、冷たい結露が張り付く。レモンティーのロング缶。フユミの手が止まる。

 

「……これ」

 

「レモンティー、いつも飲んでたでしょ」

 

 コハルはこっちを見もしない。

 

「勉強合宿のとき。起き抜けと寝る前に、いつも」

 

 フユミはあっけにとられている。

 

 一ヶ月前の、何気ない日々の記憶。

 特に明言したわけでもない。ただ、フユミが生活習慣として、好みの飲み物を飲んでいただけの光景。

 

「トーマが言ってたの。『昔からレモンが好きなんだ』って」

 

 フユミは、おずおずと、缶を受け取る。

 冷たいアルミの感触。手のひらに張りつく結露。

 

 チクリと胸の奥が痛んだ。

 些細な日常の欠片が、フユミの心をつついた。

 

 ……ああ。

 

 フユミの視界が、不意に滲んだ。

 アキハからのメッセージにあったトーマの言葉の引用が、せきを切ったように湧き上がってくる。

 

『フユミや皆との記憶を失うのは嫌だ』

『思い出が消えるくらいなら、爆弾を抱えたまま生きる』

 

 トーマが命を懸けて守ろうとしたもの。

 それは、ドラマチックな物語でも、感動的なイベントでもない。

 飲み物や食べ物の好みだとか、放課後の何気ない景色だとか、他愛ないおしゃべりだとか、気まぐれなプレゼントだとか。

 

 そういう「どうでもいいこと」の積み重ねだったんだ。

 

 そんな「どうでもいいこと」を忘れたくなくて。

 

 私を、私たちを忘れたくなくて。

 

 ただそれだけのために、日村(ひむら) 斗真(トーマ)は命を懸けようとした。

 

「……ばっかじゃないの」

 

 フユミの目尻に、澄んだ光が浮かぶ。

 

「死んだら、なんにも思い出せなくなっちゃうじゃない……バカよ、ほんとに」

 

 フユミは缶を胸に抱きしめた。冷たさが服越しに伝わる。

 

 空白の一週間。

 四月三十日、記憶をなくしたトーマが、真っ先に自分を選んで走ってきてくれたこと。

 

 そして、五月七日にもう一度、自分を選んでくれたこと。

 

 その事実が、今はただ、痛いほどに愛おしい。

 

 あふれる涙は、まぶたの上では熱いのに、頬を伝うとやたら冷たい。

 

 たくさんの言葉でつかえた喉の隙間から、嗚咽が漏れる。

 

 一粒こぼれると、もう止められなかった。

 静まり返っていた公園に、子供のような泣き声が響く。

 

 コハルは黙って、フユミの肩を抱える。

 

 言葉はなかった。

 ただ、体温が伝わった。

 

 日はとうに落ち、空は夜の黒に塗りつぶされる前の、深く透き通った群青(ぐんじょう)に染まっていた。

 

 ブルーアワー。

 世界が青一色に沈むその(とき)、寄り添う二人の輪郭だけが淡く浮かび上がる。

 

 まるで深海の底にいるかのように、その場所だけが世界から切り離され、ただ静寂だけが満ちていた。

 

 

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