「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
「会って話すつもりはないわ。手が出そうだから」
フユミは吐き捨てるように呟いてから、アキハとの通話を切った。
ため息も出ない。
六月二十四日。
黄昏時の公園には、フユミをおいて誰もいない。
コハルはまだ来ない。
ぬめるような黒南風が、錆びついたブランコを揺さぶる。鎖の軋む耳障りな高音が、かえって静寂を引き立てる。
フユミはスマホを握りしめ、画面をスクロールし続けている。
文章はもう読み終えている。だが、心はまだこの事実を飲み込みきれていない。
何分経っただろうか。
太陽は、すでにその全貌を地平線の下に沈めている。残光が、辺り一面を
『きれーだよな。レモンの色に似てるだろ』
幼き日のトーマの、得意げな声を思い出す。
『マジックアワーって言うんだって。フユミの髪の色とも似てるね』
トーマがそう言ってくれたから、悪目立ちする金髪を自慢に思えるようになった。
『フユミの目の色は空より濃い青だよな。
トーマがそう言ってくれたから、光に弱い碧眼も自慢に思えるようになった。髪型だって、ツーサイドアップに変えた。トーマは、いつまでもツインテールと混同しているけれど。
公園でノラネコを見つけて、二人でこっそり世話をしていたこと。
ブランコの立ちこぎから大きくジャンプしたトーマが、着地失敗で足をヒネって泣いていたこと。
いくつも、いくつも、トーマとの思い出がある。
たくさんの初めてを覚えている。
でも、最も新しいものは。最も大きかった
「…………もう、意味がないのね」
唇から漏れ出たのは、問いかけですらなかった。
画面のブルーライトが、血の気の引いたフユミの顔を青白く照らしていた。
「あの言葉も、あの手紙も、抱きしめてくれたことも、全部、全部、ぜんぶぜんぶ……」
全部、忘れちゃったのね。
指先が震え、画面の文字が滲む。
怒りよりも先に、足元が崩れ落ちるような虚脱感があった。今まで積み上げてきた日々が、当たり前だと思っていた現実が、はじめから存在しなかったと気付いてしまった虚無感。
フユミの胸の内から喉の奥へ、熱く尖ったものがこみ上げる。
「なんで、言ってくれなかったのよ……。幼なじみなのに。一番最初から、一番近くにいたのに」
命に関わる大病。記憶を失う恐怖。
そんな重荷を一人で抱え込んでいたトーマを想うと、悔しさと情けなさで胸が押し潰されそうになる。
「こんなに、こんなに好きなのに。ずっと好きなのに。どうして、頼ってくれなかったのっ……」
フユミはうつむき、膝の上で拳を握りしめる。爪が掌に食い込む痛みだけが、現実への手掛かりだった。
チャリン、と硬貨の音が響く。
公園の入り口近くにある自動販売機が唸る。
ガコン、という重たい落下音。
足音が近付いてくる。
「おまたせ」
コハルだった。
手には二本の缶。表情は、影にまぎれて読み取れない。ただ、いつも通りの気怠げな足取りで近づいてくる。
「いやー、ジメジメしてんねぇ」
いつも通りの、明るい声。
フユミが応じる間もなく、コハルは隣に腰掛けた。
プシュ、とプルタブを開ける金属的な音が響く。
コハルはカフェオレを一口あおり、宵闇の迫る空を見上げる。
沈黙は、どれほど続いたか分からない。
フユミは身を縮こまらせて、ずっと考え込んでいた。
コハルはベンチの背もたれに身を預け、手を頭の後ろで組み、ただ空を眺めていた。
「……コハルは」
フユミの声は、絞り出したように細かった。
「コハルは、いいの? トーマに忘れられちゃったこと、トーマが隠してたこと、アキハ先輩の計画通りに動かされてたこと」
「いいよ、アタシは」
フユミは息を呑み、振り向いてコハルの表情を確認する。コハルはただ、空を見上げている。コハルの大きな瞳には、暮れなずむ日の茜色が映し出されていた。
「トーマが生きてるなら、なんだっていい」
短く、投げやりな声。
しかしその響きには、揺るぎない実感がこもっていた。
「記憶がないとか、隠してたとか、乗せられてたとか、まー気になるは気になるけどさ。……トーマが死んでいなくなっちゃうよりは、ずっとマシ」
その言葉は、フユミに向けたもののようにも、コハルが自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
コハルはもう一本の缶を、フユミに差し出した。
「ん」
「……ありがとう」
受け取った掌に、冷たい結露が張り付く。レモンティーのロング缶。フユミの手が止まる。
「……これ」
「レモンティー、いつも飲んでたでしょ」
コハルはこっちを見もしない。
「勉強合宿のとき。起き抜けと寝る前に、いつも」
フユミはあっけにとられている。
一ヶ月前の、何気ない日々の記憶。
特に明言したわけでもない。ただ、フユミが生活習慣として、好みの飲み物を飲んでいただけの光景。
「トーマが言ってたの。『昔からレモンが好きなんだ』って」
フユミは、おずおずと、缶を受け取る。
冷たいアルミの感触。手のひらに張りつく結露。
チクリと胸の奥が痛んだ。
些細な日常の欠片が、フユミの心をつついた。
……ああ。
フユミの視界が、不意に滲んだ。
アキハからのメッセージにあったトーマの言葉の引用が、せきを切ったように湧き上がってくる。
『フユミや皆との記憶を失うのは嫌だ』
『思い出が消えるくらいなら、爆弾を抱えたまま生きる』
トーマが命を懸けて守ろうとしたもの。
それは、ドラマチックな物語でも、感動的なイベントでもない。
飲み物や食べ物の好みだとか、放課後の何気ない景色だとか、他愛ないおしゃべりだとか、気まぐれなプレゼントだとか。
そういう「どうでもいいこと」の積み重ねだったんだ。
そんな「どうでもいいこと」を忘れたくなくて。
私を、私たちを忘れたくなくて。
ただそれだけのために、
「……ばっかじゃないの」
フユミの目尻に、澄んだ光が浮かぶ。
「死んだら、なんにも思い出せなくなっちゃうじゃない……バカよ、ほんとに」
フユミは缶を胸に抱きしめた。冷たさが服越しに伝わる。
空白の一週間。
四月三十日、記憶をなくしたトーマが、真っ先に自分を選んで走ってきてくれたこと。
そして、五月七日にもう一度、自分を選んでくれたこと。
その事実が、今はただ、痛いほどに愛おしい。
あふれる涙は、まぶたの上では熱いのに、頬を伝うとやたら冷たい。
たくさんの言葉でつかえた喉の隙間から、嗚咽が漏れる。
一粒こぼれると、もう止められなかった。
静まり返っていた公園に、子供のような泣き声が響く。
コハルは黙って、フユミの肩を抱える。
言葉はなかった。
ただ、体温が伝わった。
日はとうに落ち、空は夜の黒に塗りつぶされる前の、深く透き通った
ブルーアワー。
世界が青一色に沈むその
まるで深海の底にいるかのように、その場所だけが世界から切り離され、ただ静寂だけが満ちていた。