「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
舞台中央。
黄金の林檎を模した金色のボールに、四つの手が伸びていた。
フユミが掴み、アキハが抑え、コハルが引っ張り、ナツキが支える。
四人の指先がボールの上で交錯し、奇妙な力学的均衡を保っている。
観客席からは、コミカルな奪い合いに見えているだろう。
だが、その実態は異なる。
誰か一人が力を強めても緩めても、バランスは崩れ、林檎は誰かの手に渡るか、あるいは床に落ちる。
逆に、誰か一人が強引に奪おうとすれば、他の三人が即座に反応し、その手を弾くだろう。
互いが互いの動きを完全に牽制し合う、ナッシュ均衡。あるいはチェスで言うツークツヴァンク。
動けば状況が悪化するが、動かざるを得ない局面。
スポットライトの光の下、四人の少女の思考は深まり、脳裏の闇の隅々まで張り巡らされる。
会場との熱気とは裏腹に、少女たちの計算はコンピュータのごとく冷徹だった。
◇
(この後の脚本は、決まっている)
不和の女神エリスを演じるナツキは、黄金の林檎の感触を確かめながら思考する。
台本通りの展開ならば、この奪い合いの末、林檎は誰の手にも収まらず、舞台袖へと吹っ飛んでいく。
女神は誰も選ばれない。
プライドを傷つけられた女神たちは激怒し、その怒りの矛先を人間界へ向ける。
そして世界は混乱し、トロイア戦争へと突入する――。
原作たる【パリスの審判】と同じ、破滅的なオチ。
それがナツキの書いた
このまま膠着が続いても、誰かが手を滑らせても、物語は混沌の結末を迎える。
(構いませんよ、私は)
ナツキは冷めた目で、最前列のトーマを見下ろした。
◇
(……ここまでやったんだ)
美の女神アフロディーテを演じるコハルは、流れる汗を拭おうともせず、林檎を握りしめている。
確信がある。
客席のトーマの顔色は、明らかに演技に圧倒されているだけではない。
蒼白な顔。脂汗。焦点の合わない瞳。
トーマはもう、全てを思い出したのだ。
空白の一週間。あの熱帯夜の記憶。
(悔いはない。覚悟は決まってる)
誰が選ばれてもいい。
たとえ、アタシが選ばれなくても。
あの日、トーマがアタシを求めてくれた事実は消えない。
アタシは十分に幸せだった。
(でも、もし神様がいるなら)
ずーっと、いっしょにいたいなぁ……なんて。
(神様がいないから、アタシたちがこんなこと演ってるんだけどさぁ)
コハルは心の中で、自嘲的に笑って舌を出す。
そして、祈るように指に力を込めた。
◇
(トーマは間違いなく私を選ぶ)
結婚の女神ヘラを演じるフユミは、揺るぎない確信の中にいた。
焦る必要はない。無理に力を込める必要もない。
空白の一週間の初日、四月三十日。
記憶を失ったトーマが、本能のままに最初に選んだのは私だった。
空白の一週間の最終日、五月七日。
前向性健忘を抱えたままのトーマが再び選んだのも、私だった。
そして、記憶を取り戻しつつある今、最後に選ぶのは誰なのか。
(私よ。私しかいない)
いま私がすべきは、見苦しく攻めることじゃない。
ただ、堂々と待つこと。
渡り鳥が帰巣本能を持ち、必ず元巣に戻るように。トーマは必ず、私の元へ帰ってくる。
(待ってるからね、トーマ)
フユミは慈愛に満ちた眼差しで、ボールを優しく、しかし絶対に離さない強さで包み込んでいた。
◇
(……出来ることは、全てやりました)
知恵の女神アテナを演じるアキハは、舞台上の空気を支配していた。
理想の展開だ。
四天王同士に、決定的な敵意はない。暴力沙汰には発展していない。刃物が出てくるようなことも、もうありえないだろう。
全員がトーマを愛している。
全員がトーマに愛されようとしている。
そしてきっと。
全員
その前提を踏まえての序列争い。
(私の計画通りです)
憎しみ合って決裂すれば血が流れる。トーマの心は壊れてしまう。
だからこそ、共犯関係を作り上げた。
全員でトーマを共有し、その上で誰が一番かを決めるシステム。
(なればこそ、勝つのは私です)
このシステムを構築したのは私。
この舞台を用意したのも私。
ゲームにおいて最強はゲームマスターである。
ギャンブルにおいても、胴元は必ず勝つ。
この私が勝者たるのは自明の理。
アキハは薄く微笑み、林檎を見つめる。
四者四様の思惑が交錯する中、舞台上の時間は永遠のように引き伸ばされていた。
誰も動けない。
誰も引けない。
均衡を破れるのは、舞台上の女神たちではない。
ただ一人。
客席で青ざめている、羊飼いの青年。
トーマは、震える膝を両手で握りしめ、立ち上がる。
予期せぬ挙動。
その瞬間、女神たちはトーマに集中する。
ただ一人を除いて。
(このときを待っていました)
ナツキは小さくほくそ笑む。
女神たちはトーマを見ている。
林檎に加わる握力が弱まっている。
「おっと!」
ナツキは偶然を装い、林檎を観客席へ投げ出す。
放物線を描く林檎は、たった今立ち上がったトーマのもとへ。
トーマは反射的に、林檎を手にした。
「おお、感謝します。羊飼いよ」
ナツキは朗々と感謝を述べ、壇上から手を差し伸べる。トーマから林檎を受け取る──フリをして、ステージから降りる。
トーマの手をグイっと引っ張り、
「私は嘘をつきました」
屈んだトーマの耳元で囁く。
「今から
トーマが反応する間もなく。
唇が重ねられた。
超満員の体育館が、水を打ったように静まり返る。
ステージの上の女神たちも、魂を抜かれたように呆然としている。
今、会場は、世界は、ナツキとトーマの独擅場である。
耳が痛くなるほどの静寂だった。
永遠にも似た数秒間。
二人の唇が離れた。
耳が痛くなるほど───
「おおおおおおおおおおおおお!!!!!!!」
沸いた!!
嵐のような大歓声と万雷の拍手喝采。体育館は狂騒に揺るがされる。
トーマは椅子にへたり込み、放心状態で唇に触れる。
ナツキは壇上へ戻り、高らかに謳い上げる。
「これが私の愛し方! これが不和の女神のやり方なのです! 愛は語るでも考えるでも感じるでもなく! 目的のために手段を選ばぬことなのです!」
ナツキは両手を広げ、舞台の中央で威風堂々と立つ。
華奢で小柄な体が、神々しいまでの雄大さを誇っている。
「愛とは言葉を離れた結果のこと! 実を結んだ
照明が落ちる。カーテンが降りる。
フィナーレの曲が大音響で流れる。アップテンポのクラシックが響き渡る中、嵐のような大歓声と万雷の拍手喝采が続く。
隣席の男子生徒がトーマの肩を叩く。
「おまっ、スゲーな!! 最高じゃんこれ!!」
後の席の者も身を乗り出す。
「神演出だったわ! これオマエが考えたの!?」
「ってか、彼女だったんかあの子!!」
「チョー美少女じゃねえかよ! うらやましい!!」
「これ学園が誇るベストカップルだろ!!」
「写真撮っときゃよかった〜!!」
トーマは答えない。答えられない。
ただ、自らに起こった事に圧倒され、虚ろな瞳で唇に触れる。
パリスの審判は、ナツキの大勝利にて幕を閉じた。