「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
分厚い布が、熱狂する観客席と舞台とを物理的に遮断する。
嵐のような拍手喝采は、一枚隔てた向こう側で、遠雷のように響いていた。
舞台袖。
外の熱狂と対照的な、凍てつく静寂。
「……やってくれましたね、ナツキさん」
沈黙を破ったのは、知恵の女神の衣装を纏ったアキハだった。
その声音は氷点下の冷たさだった。しかしながら、どこか諦観と感心を含んでいる。
「シナリオにはない展開です。予想だにできなかった。私の計算をここまで狂わせたのは、貴女が初めてですよ」
「お褒めに預かり光栄です」
ナツキは涼しい顔で、客席の方を──緞帳の隙間から見え隠れする最前列を見やった。
そこでは、数名の
「……サクラですか」
鋭いアキハの指摘に、
「ええ。編集部の担当さんたちです」
ナツキは首肯で返す。
ナツキは作家としてのコネクションをフル活用し、編集者たちに『女子高生に扮して、ここぞという場面で喝采を上げろ』と指示していたのだ。
「制服を着るのは無理があるかと思っていたんですが、案外サマになっていますね」
この大喝采すらも、ナツキが演出した盤面だった。
「ナッちゃん!」
コハルが詰め寄る。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「抜け駆けナシって言ったのに! みんなで協力して劇を成功させようって! 裏切りだよこんなの!」
「ええ、裏切りました。紳士協定も暗黙の了解も破ります。愛はルール無用と教えてくれたのはアナタですよ、コハルさん」
ナツキは悪びれもせず、コハルを見返す。
「貴女の素直さが、うらやましかったんです。欲しいものを欲しいと言い、なりふり構わず手を伸ばす。その欲深さと計算高さに、私は感服しました。……だから、真似させてもらいました」
コハルは虚を突かれたように息を呑み、
「だよね! さすがナッちゃんだよ! アタシ、もー嬉しくて嬉しくて……」
泣いた。
大粒の涙を、細い指でぬぐっている。
「恋敵の抜け駆けに感動して泣いてるんですか……」
コハルのあまりの変人ぶりに、さしものナツキもドン引きする。
しかし、
「親友が自分を真似て成長して、自分より強くなったんだよ! サイコーじゃん!」
コハルは天真爛漫に微笑み、ナツキを抱きしめた。
「脳ミソがバトル漫画すぎますよ、コハルさん……」
ナツキは戸惑いながらも頬を緩め、抱擁を返す。胸に伝う温もりは、トーマとキスしたときの焦げ付くような熱と比べると、落ち着きのあるものだった。
ナツキは視線を巡らせる。
最後にフユミと目を合わせる。
フユミは何も言わない。ただ、静かにナツキを見つめている。その青い瞳には、海淵よりも深い、透き通るような底なしの闇があった。
「……そして、フユミさん」
ナツキの腕の中から、コハルが離れる。
ナツキは一歩、フユミへ踏み込む。
二人だけで向き合う。
「フユミさん、貴女には勝てません」
ナツキの清々しげに言い放った。
「勉強合宿で思い知らされました。その包容力、芯の強さ、積み重ねた記憶、。……トーマ先輩が誰かを一番に選ぶなら、きっと貴女のはずです」
ナツキは知っていた。
アキハから聞いた『空白の一週間』の真実。
脳の血管奇形。手術。記憶喪失。
人はいつ死ぬかわからない。明日、世界が終わるかもしれない。
そして、もし世界が続いたとして、トーマの隣に立つのは、おそらく自分ではない。
「だから、私は一番にはなれません。『正妻』の座なんて狙いません」
ナツキは胸に手を当て、晴れやかに微笑む。
「ただ、この文化祭のときだけ。この劇という『物語』の中だけでもいい。せめて一瞬くらいは『一番』になりたかった。……それだけです」
それは、潔い敗北宣言であり、同時に高らかな勝利宣言でもあった。
そのときだ。
ガタリ、と舞台袖のパイプ椅子が倒れる音がした。
「……あ」
全員が振り返る。
そこには、幽鬼のような顔色をしたトーマが立っていた。
ふらふらと覚束ない足取り。
焦点の合わない瞳。
大量の脂汗。
彼は、見ていた。
聞いていた。
そして何より――思い出していた。
「トーマ……?」
フユミが駆け寄ろうとする。
だが、トーマの脳内は、今まさにオーバーフローが起きていた。
四月三十日。フユミとの仲直りと涙。
五月一日。アキハとの共犯関係。
コハルとの情熱。本能の解放。ナツキとの悪戯。過ち。一線を超えた禁断の領域。
全ての記憶が繋がり、重なり、混ざり合い――
「俺は……俺は全員と……」
逃れようのない罪悪感と、それらを上回る四人分の愛の重み。
トーマの視界は、ぐにゃりと歪む。
目の前には、ウェディングドレスのフユミ、甲冑のアキハ、踊り子のコハル、そして古代衣装のナツキ。
四人の女神が、心配そうに、あるいは愛おしそうに、あるいは「逃がさない」という光と闇の籠った瞳で、こちらを覗き込んでいる。
キャパオーバーだ。
トーマの貧弱な脳みそと心臓は、この致死量のラブコメに耐えきれない。
「俺、は……」
トーマの口から、間の抜けた音が漏れた。
ガクン。
糸が切れた操り人形のように、トーマの膝が折れる。
「「トーマ!?」」
「トーマさん!?」
「先輩、先輩!」
四人の悲鳴が遠のいていく。
視界がホワイトアウトする。
薄れゆく意識の中で、トーマは思った。
(目覚めたときには、どうするか決めないと……)
鈍い音を立てて、トーマは床に突っ伏した。
かくして『パリスの審判』は、舞台裏まで含めて、ひとまずの幕を下ろしたのであった。
しかし。
劇が終わろうと、役者たちの日々は続く。
トーマと四天王の五角関係は、いよいよクライマックスに向かっていた。