「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
春の長雨で外は冷えているようだが、室内は熱気に包まれている。
すりガラスの小窓は、真っ白に曇っていた。
乱れに乱れたベッドシーツの上。
「……大丈夫?」
俺は、隣に座るフユミの頭に手を伸ばす。
金髪は汗に濡れ、額や首筋に張りついている。融かした黄金のような華やかさと、透けるように白い肌のコントラストは、目に焼き付くようだった。
フユミは肩で息をしながら答える。
「大丈夫なわけ、ないでしょ、バカ」
ひとこと一言の合間に、深呼吸が挟まっていた。
「……あちこち、ヘンな、感じよ」
フユミはシーツを巻きつけたまま立ち上がる。
クローゼットへ向かうその足取りは、ひどくつたない。
生まれたての子鹿のように震え、一歩踏み出すたびに顔をしかめている。そのぎこちない歩き方が、
俺はやり場のない視線を、部屋の中へと彷徨わせる。
フユミの部屋に入るのは、小学生以来だった。
白を基調とした、整理整頓されたシンプルな内装。表彰状や参考書が整然と並んでいる様は、彼女の几帳面さと潔癖さを表している。
だが、その隙間には少女趣味が隠されていた。
パステルカラーのクッションや、可愛らしい装飾のフォトフレーム。
そして、ベッドのヘッドボードに並べられた数体のぬいぐるみたち。
くまも、うさぎも、猫も。
すべてのぬいぐるみが、なぜか壁の方を向き、俺たちに背を向けて並べられている。
部屋に入ったとき、フユミが真っ先にやったことはこれだった。
幼い頃から慣れ親しんだぬいぐるみに、自分の乱れた姿を見られたくなかったのか。
そのあどけない羞恥心に、胸が締め付けられる。
ふと、サイドテーブルに視線を落とす。
そこには、役目を終えたゴムの個包装が置かれていた。
……フユミが、用意してくれたものだ。
思考の隅に、黒いインクのような疑問が滲む。
なぜ、フユミはこれを持っていた?
フユミほどの容姿と才覚があれば、彼氏がいたとしても不思議ではない。いや、いて当然だ。俺が勝手に疎遠になっていた間に、フユミには別の誰かがいたのかもしれない。
想像しただけで、腹の底から胸を通って焼けつくような嫉妬が、喉元にまでこみ上げる。
だが、事が終わった直後にそんなことを聞くのは、あまりにも無粋だし、卑怯だ。
俺は疑念と自己嫌悪の板挟みに、小さく息を吐いた。
「……なに?」
吐息が聞こえてしまったのか、フユミが肩越しにこちらを見た。フユミはクローゼットの前で立ち尽くし、手には着替えを持っている。
「あ、いや、なんでも」
俺が首を振ると、フユミはふんと小鼻を鳴らし、手にしたルームウェアを広げた。
いつものジャージではない。フリルのついた、淡いピンク色のキャミソールとショートパンツ。ジェラートピケの新作だろうか。誰かに見せることを意識した愛らしいデザインだ。
「……親の部屋から持ってきたのよ」
ゴムのことだ。
「アンタががっつくから、必要だと思って」
俺の疑問を先読みしたフユミは、ぶっきらぼうに言い放つ。
「ありがとう」
「ありがとうって、アンタほんっと、はぁ……」
フユミは呆れたようにため息をつき、着替え始めた。
俺はぼんやりと天井を見上げる。
親の部屋から持ってきた、か。
……いや、待てよ。
違和感が、パズルのピースのようにカチリとハマる。
俺たちはリビングで抱き合い、キスをして、そのままなし崩し的にフユミの部屋へ雪崩れ込んだ。
トイレに行く暇さえなかった。
フユミが両親の寝室へ行き、何かを取りに行くタイミングなど、一度として存在しなかったはずだ。
以前から親の部屋にあったものを、自分の部屋に移しておいた?
そんなことあるわけない。
彼氏がいた?
いや、フユミに限ってそれはない。フユミが誰かと付き合っていれば、学園中の噂になる。それに、この真面目で不器用な幼なじみが、恋人の存在などという重大事を隠し通せるわけがない。
だとすれば、答えは一つだ。
フユミは、持っていたのだ。
ずっと前から、自分の部屋に。
いつか、俺とこうなるかもしれないと予期してい た。
疎遠だった数年間も、彼女はずっと、俺を受け入れる準備をしていたことになる。
そんなことありえるのか?
──ありえる。
お互いの気持ちを伝え合った今なら確信できる。
「……あ」
結論にたどり着いた瞬間、熱量の塊が喉元までこみ上げ、思わず声が漏れた。
「今度はなによ」
着替えの途中、背中を向けたままフユミが問う。
「いや、その……ありがとう、ほんとに」
「はぁ? アンタなにいって……」
キャミソールの肩紐を直しながら、フユミが振り返る。
俺と目が合った。
瞬間、フユミの碧眼が大きく揺らいだ。
フユミの聡明な頭脳が、俺の思考をトレースし、自分のついた嘘の違和感に気づいたのだろう。
またたく間の理解。
フユミの顔が、小さな耳まで朱に染まる。
彼女は弾かれたように再び背を向けた。
ショートパンツに足を通す動作が、わざとらしいほどゆっくりになる。
どう見ても、クールダウンのための時間稼ぎだ。
愛おしさが、爆発する。
「フユミ」
「ヤだ」
「フユミ」
「うっさいバカ、話しかけないで!」
俺はベッドから降り、歩み寄っていく。
「フユミ!」
「こっち来ないで、寄るな、見るな!」
フユミは背を向けたまま、両手で顔を覆ってしまった。
俺はフユミの顔を隠すその腕を、できるだけ優しく掴んだ。
驚くほど細い手首。
フユミは必死に振りほどこうとするが、俺との力の差は大きい。普通の女の子なのだ、フユミも。そんな当たり前のことにすら、俺は気づけていなかった。
少し強引に腕をどける。
フユミは、涙目で真っ赤になっていた。
悔しさと、恥ずかしさが入り混じった瞳。脆く青いベネチアングラス。
フユミは俺を睨みつけ、こらえきれず、ふいと視線を逸らした。
「……見ないでってば、バカ」
弱々しく震える声に、拒否感の色はなかった。
俺はフユミの顎に手を添え、再び唇を重ねる。
先程よりも深く、濃密に。長いキスの後、唇が離れる。俺は彼女の華奢な肩に手をかけ、ゆっくりと押し倒す。
「ちょ、ちょっと、いま着替えたばかりなのに──」
◆
「バカ、ほんとバカ、ほんっと……!」
乱れた呼吸を整えることもせず、フユミが抗議の声を上げる。
一度火がついた激情は、一度や二度で収まるものではなかった。
息も絶え絶えになりながら、必死に睨みつけてくる幼なじみに対し、俺はベッドの上で平身低頭する。
「ごめん、マジごめん、ほんとごめん、我慢できなかった」
「もぉ〜〜!!」
フユミはシーツの上で身をよじると、自分の白い肩口を確認するよう首をひねる。
そこには、花びらのように小さな内出血の痕があった。
「キスマークなんてつけてくれちゃって……どうしてくれんのよ。マーキングか何かのつもり? はー、まったく、独占欲の強いやつ……」
言葉としては文句を言っているが、その声色はどこか弾んでいる。
鏡もないのに何度もその箇所を指でなぞり、微笑みながら確かめていた。
……俺の体には、フユミがつけたキスマークと、興奮のあまり立てられた爪痕、さらには歯型までもが全身にくまなく刻まれているのだが、今の彼女にそれを指摘するのは野暮というものだろう。
俺は賢明に(あるいは懸命に)沈黙を守った。
フユミはひとしきり愚痴をこぼすと、満足したように伸びをした。
事後の余韻が抜け、急に空腹感が襲ってきたらしい。
「そろそろ夜ご飯にしましょうか。もうスーパーは閉まっちゃってるから、コンビニ行くわよ」
「了解。そしたら、ちょっと家からいろいろ持ってくるわ」
「ん。一人で大丈夫?」
フユミの碧眼が、俺の顔色を気遣うように揺れる。倒れたばかりの俺を案じているのだ。
「大丈夫だよ。じゃ、ちょっとだけ待ってて」
俺は名残惜しさを振り切り、フユミの部屋を後にした。
◇
玄関のドアを開けると、冷たく澄んだ夜気が頬を撫でた。
雨はいつの間にか上がっていた。
4月末の夜。雨上がりの空気は、洗われたように澄み切っている。
アスファルトの匂いと、湿った土の匂い。
水たまりが街灯を反射し、世界をキラキラと輝かせていた。
見上げれば、雲の切れ間から月が顔を出している。
満月に限りなく近いが、ほんのわずかに足りていない。
かすかに欠けたその形が、未完成な俺たちを見守るように、青白い光を落としていた。
嵐の日の終わり、世界は嘘のように静まり返っている。
俺は隣の自宅へ戻り、必要最低限のものだけを手に取る。
財布と、上着。
自分の部屋の現状を確認する暇もなく、俺は再び外へと飛び出した。
門の前。
そこにはすでに、支度を終えたフユミが立っていた。
月明かりの下、金色の髪が蛍のように淡く光っている。
「おまたせ」
俺は持ってきた薄手のマウンテンパーカーを広げ、フユミに手渡した。
「着といて。風邪ひいたら大変だから」
「アンタが風邪ひいちゃ意味ないじゃない」
フユミは呆れたように柳眉を寄せるが、拒みはしなかった。
「フユミも知っての通り、俺はバカだから。風邪なんか引かないよ〜ん」
「あーも、ほんっとバカ」
フユミは小さく笑い、俺のマウンテンパーカーに袖を通した。
俺のサイズだ。彼女の細身の体にはあまりにも大きすぎる。肩のラインは落ち、指先まですっぽりと袖に隠れてしまった。
いわゆる彼シャツである。シャツじゃなくてパーカーだけど。
フユミは余った萌え袖を口元へ持っていくと、くん、と鼻を鳴らした。
「え゙、臭《にお》う?」
俺がギョッとして尋ねると、フユミは何も答えず、ぷいと顔を背けて歩き出した。
その足取りは軽やかで、袖口に顔を埋めたままだ。
「ちょ、フユミ!」
俺は慌ててその後ろ姿を追う。
「アンタが悪いのよ、クサいことやるから」
数歩先で、フユミはくるっと振り返った。
月下、ぶかぶかの袖を広げて、あどけなく微笑む。
長年のわだかまりが溶けたフユミの笑顔は、天使のようだった。