「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
「では日村さん。ちょっとした宣戦布告をしましょうか」
「宣戦……布告?」
「次にあなたが気絶して目覚めた後、あなたは月澄さんとのことを忘れているでしょう。私への警戒心も、この会話も、すべてリセットされています」
先輩は俺の手を取り、ぎゅっと力を込めた。
「そのとき、私はあなたを誘惑します。色仕掛け、泣き落とし、ありとあらゆる手段を使って、あなたを籠絡《ろうらく》します」
言いながら、先輩が顔を近づける。
薔薇の香りが広がる。
頭の奥が甘く痺れる。
先輩は俺を見つめている。
黒曜の瞳は光を吸い込んでどこまでも深く、俺の姿を閉じ込めて離さない。映り込んだ虚像の俺は、呆けた顔で固まっている。
さらり、濡鴉《ぬれがらす》色の長髪が、俺の顔を覆う。小さな夜の帳のように、俺を朝日から隠す。
「すべて私が悪いのです。私があなたの尊厳を無視して手術を強制しました。私のせいであなたは前向性健忘になりました。……そして、私のせいで、あなたは不義を働くことになる」
先輩の囁き声は、甘く苦い毒のように俺の脳を侵す。
「あなたは記憶を失っているのですから、何も悪くありません。罪悪感を抱く必要もない。すべて私が悪いのです。私が、我慢できないから……いかに卑しい手段を使ってでも、あなたを手に入れたい」
先輩は、俺の唇に指先を添えて微笑んだ。あるいは天使のように、あるいは悪魔のように。
「だから安心してください。あなたはただ、私に愛されてくれればいいのです」
俺と木南先輩の世界が影に包まれる。
逆光を背負った先輩の身体が、ゆっくりと俺に覆いかぶさってくる。
逃げ場はない。
逃げるつもりもない。
俺はシーツを握りしめていた手を離し、先輩の華奢な腰に手を回した。
「きゃ──」
先輩の口から、気の抜けた悲鳴が漏れる。
俺は腕に力を込め、体勢を反転させた。
衣擦れの音。
視界が180°回転し、次の瞬間、俺は先輩を見下ろす形になっていた。
バサ、と乾いた音がした。
木南先輩の黒髪が、純白のシーツの上に広がる。
それはまるで、キャンバスに撒かれたインクのようで、あるいは咲き乱れる黒薔薇のようでもあった。
その中心で、木南先輩は目を丸くしている。
先ほどまでの妖艶さも、人並み外れた凄みも霧散した。
そこにはただ、予期せぬ出来事に対する無垢な驚きがあった。
「悪いのは、俺です」
俺は先輩の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「手術を嫌がった俺の気持ちは、本当です。うちは母子家庭で、母はワーカホリックで……俺が家に帰ってもいつも誰もいなくて、ずっと一人でした。そんな俺の話し相手は、隣に住んでいたフユミだけでした」
ぽつり、ぽつりと、記憶の欠片を吐き出す。
いつまでも鮮明に残っている、大切な過去の残滓。
「フユミとは中学入る前に疎遠になっちゃったんですが、どうしても同じ高校に行きたくて、必死で勉強して、なんとか七曜学園に滑り込みました。そのおかげで、先輩や、シミズや、火伏さんや、その他にもたくさんの人と知り合えたんです。……それが俺の全てだったんです」
学園での日々。
放課後の教室の匂い。中庭から見上げた空の色。下らない冗談で笑い合った時間。
そういうのの全てが、孤独だった俺を救ってくれた。
「だから、そんな過去を失うくらいなら、未来なんて要らないと思っていました。……でも」
俺は言葉を区切る。
脳裏に、一つの「もしも」が過《よ》ぎる。
もし手術を受けていなければ。
あるいは、脳血管の奇形もなければ。
俺はフユミと、一生仲直りできなかったかもしれない。
途切れてしまった縁を、つなぎなおせないままだったのかもしれない。
だから木南先輩に感謝している。
けれど、それを口にすることは、何よりも深く木南先輩を傷つける。
先輩のおかげでフユミと仲直りして結ばれることができました、なんて。
俺を好きになってくれて、俺の命を救うために罪を被った木南先輩に対して、あまりにも残酷で不誠実だ。
だから俺は、その言葉を口の中で噛み殺した。
「先輩が、俺の命を助けてくれたんです」
先輩の瞳が揺れる。
俺の言葉を拒むように、あるいは縋《すが》るように。
「俺は、今あるこの命が間違ってるだなんて思いません。先輩は俺の命の恩人です。だから、これは俺のせいです。俺が弱かったせいで、先輩に罪の意識を背負わせてしまった」
木南先輩は何も言わなかった。
ただ、その表情は万華鏡のように移ろう。
苦しみと喜び。罪悪感と安堵。嫉妬と愛情。
抑制された激情が見え隠れする。さざなみのように、寄せては返す。
やがて、先輩の白魚のような手が持ち上がる。
ひんやりとした掌が俺の頬を包み込み、細い親指が目尻をなぞった。
「……あなたは、本当に……」
熱っぽい溜息と共に、その手が俺のうなじへと滑る。
肌が粟立つ。
先輩は俺の首に腕を絡ませ、抗いがたい力でゆっくりと引き寄せた。
吐息が触れ合う距離。
黄金色の朝日は俺の背中に遮られ、二人の間に濃密な影だけが落ちている。
「……二つ、お願いがあります」
先輩の潤んだ瞳が、俺だけを映している。
「今だけで良いですから、名前で呼んでください。……私、自分の姓は好きではないので」
俺に頷く隙も与えず、先輩は続ける。ゆっくりと、顔を近づける。
「そして、もし、すべての記憶を思い出したら。……そのときは、どうか私に────」
視界が先輩でいっぱいになる。
雑音が消え、背景が消え、ただ目の前にある薔薇色の唇だけが鮮烈に焼き付いた。
言葉を紡ごうと震えるその形に、俺は魅入られていた。
「世界一嫌いだと言ってください」
薔薇はすぐに見えなくなった。