「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。   作:会澤迅一

92 / 95
第5話 アキハ「世界一嫌いだと言ってください」(後編)

「では日村さん。ちょっとした宣戦布告をしましょうか」

 

「宣戦……布告?」

 

「次にあなたが気絶して目覚めた後、あなたは月澄さんとのことを忘れているでしょう。私への警戒心も、この会話も、すべてリセットされています」

 

 先輩は俺の手を取り、ぎゅっと力を込めた。

 

「そのとき、私はあなたを誘惑します。色仕掛け、泣き落とし、ありとあらゆる手段を使って、あなたを籠絡《ろうらく》します」

 

 言いながら、先輩が顔を近づける。

 薔薇の香りが広がる。

 頭の奥が甘く痺れる。

 

 先輩は俺を見つめている。

 黒曜の瞳は光を吸い込んでどこまでも深く、俺の姿を閉じ込めて離さない。映り込んだ虚像の俺は、呆けた顔で固まっている。

 

 さらり、濡鴉《ぬれがらす》色の長髪が、俺の顔を覆う。小さな夜の帳のように、俺を朝日から隠す。

 

「すべて私が悪いのです。私があなたの尊厳を無視して手術を強制しました。私のせいであなたは前向性健忘になりました。……そして、私のせいで、あなたは不義を働くことになる」

 

 先輩の囁き声は、甘く苦い毒のように俺の脳を侵す。

 

「あなたは記憶を失っているのですから、何も悪くありません。罪悪感を抱く必要もない。すべて私が悪いのです。私が、我慢できないから……いかに卑しい手段を使ってでも、あなたを手に入れたい」

 

 先輩は、俺の唇に指先を添えて微笑んだ。あるいは天使のように、あるいは悪魔のように。

 

「だから安心してください。あなたはただ、私に愛されてくれればいいのです」

 

 俺と木南先輩の世界が影に包まれる。

 逆光を背負った先輩の身体が、ゆっくりと俺に覆いかぶさってくる。

 

 逃げ場はない。

 逃げるつもりもない。

 俺はシーツを握りしめていた手を離し、先輩の華奢な腰に手を回した。

 

「きゃ──」

 

 先輩の口から、気の抜けた悲鳴が漏れる。

 俺は腕に力を込め、体勢を反転させた。

 

 衣擦れの音。

 視界が180°回転し、次の瞬間、俺は先輩を見下ろす形になっていた。

 

 バサ、と乾いた音がした。

 木南先輩の黒髪が、純白のシーツの上に広がる。

 それはまるで、キャンバスに撒かれたインクのようで、あるいは咲き乱れる黒薔薇のようでもあった。

 

 その中心で、木南先輩は目を丸くしている。

 先ほどまでの妖艶さも、人並み外れた凄みも霧散した。

 そこにはただ、予期せぬ出来事に対する無垢な驚きがあった。

 

「悪いのは、俺です」

 

 俺は先輩の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。

 

「手術を嫌がった俺の気持ちは、本当です。うちは母子家庭で、母はワーカホリックで……俺が家に帰ってもいつも誰もいなくて、ずっと一人でした。そんな俺の話し相手は、隣に住んでいたフユミだけでした」

 

 ぽつり、ぽつりと、記憶の欠片を吐き出す。

 いつまでも鮮明に残っている、大切な過去の残滓。

 

「フユミとは中学入る前に疎遠になっちゃったんですが、どうしても同じ高校に行きたくて、必死で勉強して、なんとか七曜学園に滑り込みました。そのおかげで、先輩や、シミズや、火伏さんや、その他にもたくさんの人と知り合えたんです。……それが俺の全てだったんです」

 

 学園での日々。

 放課後の教室の匂い。中庭から見上げた空の色。下らない冗談で笑い合った時間。

 

 そういうのの全てが、孤独だった俺を救ってくれた。

 

「だから、そんな過去を失うくらいなら、未来なんて要らないと思っていました。……でも」

 

 俺は言葉を区切る。

 脳裏に、一つの「もしも」が過《よ》ぎる。

 

 もし手術を受けていなければ。

 あるいは、脳血管の奇形もなければ。

 俺はフユミと、一生仲直りできなかったかもしれない。

 

 途切れてしまった縁を、つなぎなおせないままだったのかもしれない。

 

 だから木南先輩に感謝している。

 

 けれど、それを口にすることは、何よりも深く木南先輩を傷つける。

 

 先輩のおかげでフユミと仲直りして結ばれることができました、なんて。

 俺を好きになってくれて、俺の命を救うために罪を被った木南先輩に対して、あまりにも残酷で不誠実だ。

 

 だから俺は、その言葉を口の中で噛み殺した。

 

「先輩が、俺の命を助けてくれたんです」

 

 先輩の瞳が揺れる。

 俺の言葉を拒むように、あるいは縋《すが》るように。

 

「俺は、今あるこの命が間違ってるだなんて思いません。先輩は俺の命の恩人です。だから、これは俺のせいです。俺が弱かったせいで、先輩に罪の意識を背負わせてしまった」

 

 木南先輩は何も言わなかった。

 ただ、その表情は万華鏡のように移ろう。

 苦しみと喜び。罪悪感と安堵。嫉妬と愛情。

 

 抑制された激情が見え隠れする。さざなみのように、寄せては返す。

 

 やがて、先輩の白魚のような手が持ち上がる。

 ひんやりとした掌が俺の頬を包み込み、細い親指が目尻をなぞった。

 

「……あなたは、本当に……」

 

 熱っぽい溜息と共に、その手が俺のうなじへと滑る。

 

 肌が粟立つ。

 先輩は俺の首に腕を絡ませ、抗いがたい力でゆっくりと引き寄せた。

 

 吐息が触れ合う距離。

 黄金色の朝日は俺の背中に遮られ、二人の間に濃密な影だけが落ちている。

 

「……二つ、お願いがあります」

 

 先輩の潤んだ瞳が、俺だけを映している。

 

「今だけで良いですから、名前で呼んでください。……私、自分の姓は好きではないので」

 

 俺に頷く隙も与えず、先輩は続ける。ゆっくりと、顔を近づける。

 

「そして、もし、すべての記憶を思い出したら。……そのときは、どうか私に────」

 

 視界が先輩でいっぱいになる。

 雑音が消え、背景が消え、ただ目の前にある薔薇色の唇だけが鮮烈に焼き付いた。

 

 言葉を紡ごうと震えるその形に、俺は魅入られていた。

 

「世界一嫌いだと言ってください」

 

 薔薇はすぐに見えなくなった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。