「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
湯気で満ちた浴室。
お風呂に特有の清々しい匂いと、高そうなボディソープの香り。
そしてアキハ先輩の匂い。いつもの薔薇の香りではなく、アキハ先輩本人の仄甘い匂いがする。
「何ですか、鼻を鳴らして」
アキハ先輩は、とにかく上機嫌だった。声を少し弾ませ、後ろから俺に抱きつく。
「月澄さんの付けた歯型とキスマークは全て上書きできましたね」
「ええ、まあ、多分」
俺は曖昧に返事をした。
アキハ先輩は、フユミが俺の体に残した痕跡を一つ一つ数え上げ、『どのようにつけられたのか』と俺に確認し、一つ一つ上書きした。キスマークに吸いついて、歯型の上から噛みついた。
フユミのつけたものと全く同じところに、アキハ先輩がつけたものがある。
そのうえで、
「上書き分と新しくつけたものを合計すれば、私の方が六つ多いですよね?」
「ええ、まあ、自分からは見えないんでアレですが」
「ふふん。やりましたね」
アキハ先輩は得意げに鼻を鳴らし、泡立てた体を俺の背中に押し付けて滑らせる。滑らかで柔らかい。
「もう私の印ばかりですね」
「それ言われると、かなり恥ずかしいんですが」
自分の体が誰かの所有物であるかのように語られるのは、独特のこそばゆさがある。
「あら、この私にあんなことをさせておいてですか? もう私の体に、あなたの知らないところなんてないのに」
「……それを言われると、かなり誇らしいんですが」
「んなっ」
背後で先輩が絶句する気配がした。
鏡越しに見る彼女は、手の甲で口元を覆っている。恥じらい方すら上品な先輩だ。
「し、
「どの口で言ってんですか」
「言うのは上の口だけですよ」
「下品ですよ!」
きゃはは、と先輩は笑った。
無邪気な様子はとにかくあどけなく、妖艶さとのギャップに心が浮つく。
洗い流される泡が床の上で溶け消えていくのを見つめながら、俺はふと、真顔に戻る。
「……アキハ先輩、一つお願いが」
俺の声色が変わったのを察したのか、先輩の手が止まる。
鏡の中で、彼女の漆黒の瞳が俺を捉えた。
「俺が万が一、今日のことを忘れたら。……次に目覚めた俺が、先輩のことを何も覚えていなかったら」
それは、確実に訪れる未来だ。
眠れば消える。この熱も、肌の感触も、交わした言葉も。
「どうか俺を、浮気者のクズとして扱ってください。絶対に優しくしないでください。どうか甘やかさないでください」
うつむいたアキハ先輩の顔は、濡烏色の長髪に隠れ窺えない。
「……贖罪のつもりですか?」
声色はコールタールのようだった。
「違います。ただのエゴです」
俺の声は酷く白々しく響いた。
「アキハ先輩には、奔放で無邪気で、冷静で計算高い女王様でいてほしいんです。ただのエゴです」
先輩は数秒だけ逡巡を見せた。
痛ましげに眉を寄せ、しかしすぐに、冷徹で妖艶な仮面を被り直す。
「ええ。……しかし、あなたの提案を受け容れたのは私の選択です。エゴはお互い様です。今この瞬間のことを思い出しても、絶対にご自分を責めないでください」
俺は答えない。
アキハ先輩も何も言わない。
俺たちは無言のまま上がり、病室に戻った。
◆
バスローブを纏い、肩を並べてベッドに座る。
そろそろ夕食にでもしようか──ぼんやりとそんなことを考えていると、アキハ先輩の視線に気づいた。
じっとこちらを見ている。
黒曜の瞳が、鈍い光を放っている。
するり、小さな手が重ねられる。しっとりとした指先が絡め合わされる。
清められたはずの身体から、湿度と熱量が滲み出ている。
とっさに俺が口を開く。
「アキハ先輩、」
「興奮したので、もう一度お願いします」
「っ!? い、いま洗い終わったばかりなのにですか!?」
頓狂声を上げてしまった。
もう何度したか分からない──というか、数えるのが怖いくらいの回数なのだ。それに何より、今は清潔になった直後だ。
「……いけず。私が浅ましいみたいに」
先輩は脱力する。ぐらりと傾いた肢体は、俺の身体に押し付けられる。生まれ持った柔らかさと、日々の努力で引き締められた弾力が伝わる。
「あなたのせいですよ、トーマさん。私、
熱い吐息が首筋にかかる。
空気を染め上げるような色香が部屋に充満する。
逃げられない。
俺は改めてそう思った。
◆
もう終わりだ。
俺も先輩ももう動けない。
お互いに疲れきったので、一人ずつ風呂に入り直した。
アキハ先輩は俺の胸に頭を預け、すうすうと寝息を立てている。その様をぼんやり眺めている。俺も睡魔に襲われているが、ここで眠ったら、俺はまた忘れてしまう。
その恐怖が、俺をずっと醒ましていた。
魂が抜けたような虚脱感がある。自分の体が自分のもののようには感じられない。疲労を他人事のように感じる。
どれくらいの時間が経ったか。
アキハ先輩が目を覚ました。
動きがあったわけでもないし、角度の問題で顔は見えない。だが、気配というか、感覚で分かった。
「プルースト効果と言いまして」
アキハ先輩は唐突に言った。
「特定の香りを嗅いだとき、その香りにヒモづけられた記憶を、鮮やかに思い出すことがあるんです」
「……それで?」
意図が掴めないからこそ、俺は続きを促した。
「だから今、マーキングしているんです」
アキハ先輩は顔を上げ、濡れた瞳で上目遣いに微笑む。そして、自身の艶やかな髪を、俺の胸板にぐりぐり押し付けた。薔薇の香りが、俺の肌に染み込んでいく。
「ちょ、髪乱れちゃいますよ。せっかく風呂上がりにセットしたのに」
「いいんですよ。私、できることは全部したいので」
アキハ先輩は笑った。
そして、ふと寂しげに瞳を伏せる。
「多分、今日のことも、トーマさんは忘れてしまいますから。でも、私が覚えています。私は全部覚えています。できることも、全部します」
そう言って、そっと微笑んだ。
アキハ先輩は、いつも微笑んでいる。でも、表情豊かだ。いつもの完璧な微笑だけではなく、今みたいに寂しげに笑ったり、悪戯っぽくころころ笑ったり、妖艶に頬を緩めてみたり。
でも俺は、木南秋葉が泣いているところを想像できない。
あるいは、彼女は泣き方を知らないのかも知れなかった。
「……忘れませんよ」
慰めにも気休めにもならないと知っているのに、俺は我慢できなかった
「忘れますよ」
アキハ先輩は眉尻を下げて微笑む。
聞き分けのない子どもを諭すように。
「忘れたとしても、思い出します」
「まあ、頼もしい」
アキハ先輩は冗談めかして手を打った。
「では、もし思い出せたら……」
しなやかな両腕が俺の首を抱え、逃げ道を奪う。
「必ず私を、迎えに来てくださいね」
そう言って、唇を重ねた。