「私で童貞捨てたくせに」と学園美少女四天王から言われてるんですが、まったく記憶にございません。 作:会澤迅一
「……起きた?」
降る声で、俺の意識は浮上した。
視界がボヤけている。
まどろみの中で、温もりと、柔らかさだけを感じる。すう、と息を吸う。フユミの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
俺は、自分がフユミに抱きしめられているのだと理解するまでに、数秒を要した。
赤子のように頭を抱え込まれ、背中を一定のリズムでトントンと叩かれている。
「ご、ごめ」
反射的に謝罪が口をつきそうになって、
「は?」
フユミの声が低くなる。
俺は慌てて、さっきの教えを反芻する。
「……ありがとう」
「ん、よろしい」
フユミは満足気に呟いてから、体を離した。
俺たちはソファに並んで座り直した。
窓を見る。太陽は沈みきっている。外は少し暗い。かすかな残光が何もかもを薄紫色に染め上げている。ずっと響いていたヒグラシの鳴き声は、先ほどよりも少しだけ勢いを増していて、それがかえって静寂を引き立てている。
夢の中みたいにノスタルジックな情景だった。
俺が眠ってる間に、一時間ほど経ってしまったようだ。
フユミは何も言わない。
肩と肩が触れ合う距離。俺は膝の上で拳を握りしめる。
何か言わなきゃいけない。
フユミの優しさに甘えているだけじゃいられない。これは義務感や使命感なんかじゃない。
俺がフユミを好きだからこそ、今の気持ちを言葉にして伝えておきたい。
俺が口を開いた瞬間、
「まだ黙ってなさいよ」
フユミが先回りして釘を刺した。
「さっきの罰ゲームは有効だからね」
「う……………………うん」
俺は渋々頷くしかない。
フユミはソファに深く体を預ける。金髪が背もたれの上に広がる。砂金を散りばめたみたいだった。
フユミは髪を下ろしている。髪留めを外した姿を見るのは、いつぶりだろう。
フユミはふわりと天井を仰いだ。
「私はトーマとずっといっしょだけど、トーマの隣は私だけってわけじゃないのよね。コハルとナツキと、アキハ先輩がいる」
「……うん」
「私がトーマの全部を手に入れたと思ってたのに、まさか四分の一だったなんてね。驚いたわ。しかも、あの
フユミは口の端を片側だけ吊り上げて笑った。
冗談めかしてはいるが、その瞳の奥に見え隠れするものがあった。
俺は拳を握りしめる。手のひらに爪が突き刺さる。
フユミはふっと力を抜いた。
「でも、感謝してるの」
「えっ?」
俺は驚いて横を見る。
フユミはどこか遠くを見るような目をしていた。
「アキハ先輩がいなかったら……トーマはここにはいなくて。私と仲直りすることも無かったのかもしれない。そしたら私はきっとずっと独りぼっちで、コハルやナツキと友達になることもなかったでしょうね」
フユミの言葉が、俺の胸に突き刺さる。
アキハ先輩がいなければ、今の俺はない。それは本当だ。
俺の脳には爆弾があった。脳動静脈奇形という血管の異常だ。
破裂すれば命はない。いつ破裂するか分からない。手術をすれば治るが、術後に記憶を失うかもしれない。
俺は手術を拒んだ。
俺にとっては記憶がすべてだった。
親が家にいないせいで寂しかった俺と一緒にいてくれたフユミ。そんなフユミと疎遠になっても、どうにか近づく理由が欲しくて、必死に勉強して七曜学園に入った。そして、七曜学園で、アキハ先輩やナツキ、コハルと出会った。
その記憶が俺の全てだから、命よりも大事だと思っていたから、俺は手術を拒んだ。
アキハ先輩はそんな俺を無理やり手術台に乗せ、命を救ってくれた。
手術は成功。
しかし後遺症として、術後一週間ほど記憶障害が現れた。
前向性健忘。
眠ってしまうと、直近で起きていた間の記憶がリセットされるという障害だ。
それがゴールデンウィークの『空白の一週間』の正体だ。
俺は毎日目覚めるたびに記憶を失い、本能のままに四人と触れ合い、そして眠るたびに忘れていたのだ。
フユミは今、その全てを知っている。
知った上で、ここにいてくれている。
フユミは天井の模様を目で追いながら、アンニュイに呟く。
「偶然の積み重ねの上に今があるの。気持ちとか考えとか……途中途中が矛盾してても、そこまで含めて全部大切なのよ。きっとね。いい悪いの前に、まずは生きてることを喜びましょ。後のことは後で考えればいいわ」
私たち、まだ大人じゃないんだし。
ハッとした。
その言葉は、いつかの俺の言葉だった。我ながら青臭い言葉選びだ。
フユミが発したその言葉は、俺への許しのようにも、フユミ自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。
理屈で割り切れるほど、俺もフユミも大人じゃない。それでもフユミは、現状を受け入れようとしてくれている。
きっと俺たちは子どもでもない。
境界線上でふらふらする俺の隣で、フユミは一緒にいてくれている。
フユミはこちらに振り向く。そして小首をかしげ、悪戯に微笑んだ。
「だから、あんたが私以外の誰かを選んでも、私と恋人にはなれないって言っても、それはあんたの自由なわけ。二人でしたことなんだから、あんただけの責任にしたくないし」
「フユミ、俺は──」
俺の唇に、人差し指が押し当てられる。
細くて少し冷たい指。
「まだ罰ゲーム中」
フユミの微笑が寂しげに移ろう。
その表情があまりにも美しく、そして儚げで。
見ているだけで崩れてしまいそうだから、俺はたまらず目を逸らしてしまった。
フユミは静かに指を離して、小さく肩をすくめてみせる。
「ま、上出来よね。このまま一生こじらせ続けるのかと思ってたら、トーマの方からやってきて、私は最初の女になれたんだから。アンタが誰に何しても、私が最初に
フユミの声に、熱が灯る。
「
フユミの大きな愛に包みこまれ、胸が詰まる。
こんなにも思われて、俺は、こんなに幸せでいいのか……
帰る場所がある。待ってくれる人がいる。それだけで、俺は生きていける。
うつむいた俺は、部屋の色合いが変わっていることに気づいた。
窓へ視線を移す。
世界が青に沈んでいた。
日は完全に落ちている。が、闇の色は、夜と呼ぶには、青みがかって透き通っている。
ブルーアワー。
空も、庭の木々も、部屋の中の空気さえも、すべてが深い群青色に沈んでいる。
昼と夜の境界線。
現実と幻想が混ざり合う、一瞬の静寂。
俺はその青さに吸い込まれ、我を忘れて見入っていた。
そのときだ。
ぐいっ、と顎をつかまれた。
「んっ!?」
強引に振り向かせられると同時、視界が金色の髪で埋め尽くされた。
柔らかい感触が唇を塞ぐ。
フユミが、キスをしてきた。
それだけじゃない。
ぬるりとした熱い塊が、俺の唇をこじ開けて侵入してくる。
舌だ。
フユミの舌が、俺の口内を這い回る。
俺は呆気にとられ、されるがままになった。
ブルーアワーの静寂の中で、水音だけが生々しく響く。
しばらくして、フユミは唇を離した。
「ふ、フユミ、いきなり、せめて先に……」
俺が酸素を求めながら抗議すると、フユミは勝ち誇って笑う。
「今からキスしますって予告する女がどこにいんのよ」
トン、と肩を押される。
抵抗する間もなく、俺はソファに押し倒された。
視界が反転する。
俺の上にフユミがまたがっている。
逆光で表情はよく見えない。けれど、その双眸だけが、薄闇の中で青白く光っているように見えた。
「『待ってる』とか『最後になれれば』とか、そんなの負けヒロインの考え方でしょ。そんな風に受け身のまま何年も待ちぼうけてたから、こんな面倒なことになったのよ」
フユミの手が、俺の胸元に伸びる。
「臆病者はもうやめた。優等生も、もうおしまい」
フユミの指が、俺のシャツのボタンにかかる。
「『してほしい』より『したい』なのよ」
プチ、と一つ外される。
「今からあんたのこと、めちゃくちゃにするから」
プチ、ともう一つ。プチ、プチ、と、音ならぬ音が響き続ける。
フユミの目は据わっている。碧眼は群青色に沈んでいる。
濃く深く、それでいて澄み渡った色。
「二番目の罰ゲーム。これも命令」
逃げられない。
逃がさない。
そんな意志を感じて、俺は身動きが取れなくなる。目を逸らすことすらできない。
「ぜんぶ私のせいにして」
フユミはそう囁き、最後のボタンを外した。