魔導産業革命 ~エネルギーシフトと覇権通貨「エン」がもたらす軍事なき支配~ 作:Camel おさ
木々の間から差し込む朝の光が、白亜の巨塔を淡く染め上げていた。
重厚な鋼鉄の扉を押し開け、探検隊は塔の外へと足を踏み出す。安全で快適だった一夜の宿を背にすると、湿った腐葉土の濃厚な匂いと生ぬるい風が吹き抜け、再び過酷な南境の原生林が彼らを出迎えた。塔の足元では、門番を務めていた四頭のソウルイーターが、微動だにせず主たちの出発を待っている。
そこへ漆黒の空間の裂け目が広がり、一体のアンデッドが姿を現した。
昨晩、撮れたての特ダネ映像をノヴァリアのMHK本社へ届けるため、<ゲート>で一時帰還していたエルダー・リッチである。紫紺の豪奢なローブを翻し、大事そうに魔導カメラを抱え直した骸骨のカメラマンは、深々と一礼した。
「おはようございます。昨日の映像、ワーナベPは大層興奮しておられました。夜通し編集室で雄叫びを上げておりました」
「そ、そうですか……」
エリスは引きつった笑みを浮かべた。
敏腕にして奇行の塊であるプロデューサー、シン・ワーナベの狂喜乱舞する姿が目に浮かぶ。
「ふむ、私の雄姿が放映されるのですね」
エリスの腕の中で、蝶ネクタイを直したエクレアがふんぞり返る。
昨日、シズに『デコイ』として放り投げられた受難など完全に忘れたかのような態度だった。
「出発しよう」
アインザックの号令で、一行は再び移動を開始した。
四頭のソウルイーターが、驚異的な速さで鬱蒼とした樹海を踏破していく。
足元にはぬかるんだ泥水が広がり、行く手を阻むように太い蔦や巨大なシダ植物が垂れ下がっているが、死の騎乗獣たちは息ひとつ切らすことなく突き進む。
やがて――密集していた巨木の間隔が徐々に広がり始め、木々の切れ間から白く眩い光が差し込んできた。
「おい、前を見ろ」
先頭を行くアインザックが手綱を引き、声を張り上げた。
エリスたちがソウルイーターの歩みを緩め、木立を抜けた瞬間、思わず息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、視界を埋め尽くすほど広大で、鏡のように平らな水面だった。
しかし、その湖は普通ではなかった。水面全体を覆い尽くすように、濃厚で真っ白な霧が、まるで底知れぬ深淵から絶え間なく湧き出しているかのように立ち込めていたのだ。
「これは……すごい……」
エリスの口から、感嘆の息が漏れた。
太陽の光を浴びて乳白色に輝く霧の海。波紋ひとつ立たず、風もない。
生き物の気配すら感じられない完全な静寂が、湖畔一帯を支配していた。
「前人未踏の地ゆえ、竜王国の古文書にも記載のない湖だな」
アインザックが周囲の地形を見回し、髭を撫でる。
「まるで湖そのものが、白い霧を湧き出させているみたいですね……」
「うむ。では記録上、この湖を『白霧の湖』と仮称しよう」
探検隊は湖畔のわずかな砂利場にソウルイーターを止め、小休止を取ることにした。
エリスは膝の上にエクレアを乗せて腰を下ろした。エクレアは満足げに腹ばいになり、短い翼をパタパタと動かしてくつろいでいる。
少し離れた場所ではエルダー・リッチが、白霧に煙る神秘的な湖の全景を舐めるように撮影していた。
不気味なほどの静寂――。
ジャングルで常に鳴り響いていた虫の声も、鳥の羽ばたきも、ここには一切届かない。
ただ、冷たく湿った空気が、静まり返った湖面から静かに漂ってくる。
エリスは水筒を取り出し、喉を潤した。
ふと、微かな風が吹き抜け、湖面を覆っていた濃厚な霧のベールが一瞬だけ薄らいだ。
(ん……?)
エリスの視線が、無意識に湖の中央へと引き寄せられた。
霧の切れ間。遠く離れた水面の上に、何かが横切ったような気がしたのだ。
――目を凝らす。
白く濁った視界の奥に、ぼんやりと浮かび上がる影。
それは四角く、箱のような形をしており、水の上を滑るように移動していた。
(え……? 嘘でしょ? あれって……馬車……?)
心臓が小さく跳ねた。
しかし、次の瞬間には、理性がその光景を強烈に否定した。
(そんなはずない。湖の上を馬車が走れるわけがないじゃない。ましてや、こんな人類未踏のジャングルの奥地で……)
そうだ。こんな場所に馬車がいるはずがないのだ。
(見間違いね……。絶対にそう)
そう自分に言い聞かせる。だが、一度意識してしまうと、視線がついつい霧の奥の同じ場所へと、チラチラと泳いでしまう。
「ばぁ」
不意に、すぐ隣から平坦な声がかけられた。
「ひゃいっ!?」
エリスは持っていた水筒を盛大に落っことした。エクレアが短い翼でとっさにしがみつく。
エリスの横に立っていたのは、シズ・デルタだった。ジト目でエリスの顔をじっと見つめている。
「……いい感じに驚いた」
「シズ先輩! びっくりするじゃないですか!」
「……エリス、さっきから挙動不審」
「えっ、いえ、その……! 何か、向こうの霧の中に大きな影が見えた気が……」
エリスは曖昧に笑って手を振った。
シズはジト目のままエリスの顔をじーっと覗き込み、抑揚のない声で言った。
「……エリス、また二日酔い。昨夜こっそりお酒飲んだ」
「飲んでません! そもそもお酒は持ってきてません!」
エクレアがエリスの膝の上で、やれやれとくちばしを鳴らした。
「いくら過酷な密林行とはいえ、幻覚を見るようでは困りますね。私を見習い、常に冷静沈着であるべきです」
「幻覚じゃありません! ……ただの見間違い、です……」
アインザックも豪快に肩を揺らして笑った。
「ははは! まあ無理もない。昨日の激戦の疲れが出たんだろう。エリス君、少し目を閉じて休むといい」
誰も信じてくれない。唇を尖らせたエリスが、抗議の言葉を続けようとした――その瞬間。
風が、ふわりと湖面を撫でた。
立ち込めていた霧が大きくうねり、再び視界の奥が開けた。
「あ……っ!」
エリスの喉から、短い息が漏れた。
先ほどの影が、再び姿を現したのだ。
見間違いなどではなかった。先ほどよりも明らかに輪郭が濃く、はっきりとその姿を捉えることができる。
「リッチ! 湖面を撮って! そこよ!」
エリスが真っ直ぐに指をさした。
「どうした、何かあるのか」
エリスの悲鳴に近い声に、アインザックが怪訝そうに眉を寄せながら立ち上がった。
「馬車のようなものが……こっちに向かってきてます!」
シズが首を巡らせ、エクレアが身を起こす。
全員の視線が、エリスが指さす霧の奥の一点へと吸い寄せられた。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
水音すらしない。波紋ひとつ立たない。
ただ不気味な静寂の中、濃厚な白霧の帳(とばり)を音もなく切り裂いて現れたのは――まぎれもない、一台の豪奢な馬車だった。
「な……っ!?」
アインザックの目が限界まで見開かれた。
その馬車は湖面の上を、まるで滑らかな氷の上を滑るかのように移動していた。
車輪は水しぶきを一切上げず、水面に触れるたびに燐光(りんこう)が灯り、薄氷のような冷気だけを後方へと残していく。
馬車を牽いているのは、蒼白い燐火(りんか)を全身にまとう二頭の馬。
車体は豪奢な貴族馬車そのものだが、各所が朽ち果てていた。
窓を覆うボロボロの帳(とばり)が、風もないのに物悲しくたなびいている。
「これはなんの冗談だ?! 湖の上を馬車が走っているだと?!」
人知を超えた光景に、探検隊は完全に言葉を失い、凍りついた。
馬車は進路を変えることなく、湖畔に佇む探検隊の目と鼻の先――数十メートルほどの湖面を、滑るように横切っていく。
そのとき――霧風に揺れたボロボロの帳(とばり)の隙間から、車内の様子が露わになった。
豪奢な革張りの座席に、物憂げに座る一人の女性。
陽光を浴びた麦畑のように艶やかな、波打つ金糸の髪。
晴れ渡る冬空のように澄み切った、気品ある碧眼。
白磁のように滑らかな陶器の肌と、息を呑むほどに儚く美しい横顔――。
女性は探検隊の存在に気づく様子もなく、ただじっと、遠い虚空を見つめていた。
その顔を目にした瞬間、エリスの脳内で何かが激しく破裂した。
「……え? ……エレナ皇女っ?!」
エリスの絶叫が湖畔の静寂を破った。
「なにぃっ!? エレナだとぉ!?」
アインザックも顎を外さんばかりに叫び返す。
「リッチ! 彼女を……! エレナを撮って!」
エルダー・リッチに指示を出しながらも、エリスの頭の中は、テレビ屋としての職業病と、目の前の超常現象との間で猛烈な大パニックを起こしていた。
「なんでっ? なんでアニメのキャラクターが、こんな南境の未踏の湖にいるの!? ま、まさか……ワーナベPが仕込みで呼んだ劇団員!? いや、こんな人跡未踏のジャングルにどうやって劇団員を連れてくるのよ!? それ以前にどうやって水の上を走ってるのぉ?!」
アインザックもまた大混乱に陥っていた。
「まさか、『蒼き皇女エレナ』は実話だったのか……。実在したエレナ皇女が、カイルへの未練を断ち切れず、怨霊となってこんな世界の最果ての湖を彷徨っているというのか……!?」
そんな困惑が渦巻く中――。
シズは微動だにせず、湖面を滑走する馬車の車窓を凝視していた。
そのエメラルドの瞳孔がミリ単位で伸縮し、ズーム機能がエレナへと固定されている。
シズは感情の起伏を感じさせない声で、ぽつりと呟いた。
「……エレナ、かわいい」
そしてポケットから1円シールを取り出すと、トタトタと無駄のない足取りで、湖面に向かって歩き出す。
「シズ先輩?! 何してるんですか?!」
エリスが我に返って叫んだ。
「……シール貼る」
「湖の上を歩いて行こうとしないでください! 落ちます! ていうか相手は幽霊ですから、シール貼れません!」
エリスは慌てて駆け寄り、湖水に足を踏み入れそうになったシズの胴体を、後ろから必死になって羽交い締めで引き止めた。
幽霊馬車は、騒乱に沸く探検隊を一瞥することすらなく、湖上を静かに滑走していった。
やがて、その半透明の車体は対岸の白霧の中へと吸い込まれ、青白い燐光とともに静かに消え去った。
完全に馬車の姿が見えなくなった、そのとき――。
――サァァァァッ……。
不思議な音が響いた。
まるで、幽霊馬車が湖面を覆っていた霧そのものを引き連れていったかのように、湖全体を包んでいた濃厚な白霧が、急速に晴れ渡り始めた。
陽光が遮るものなく水面に降り注ぎ、白濁していた湖が、吸い込まれそうなほど深い藍色の輝きを取り戻していく。
「霧が、晴れていく……」
シズを羽交い締めにしたまま、エリスが呆然と呟いた。
「……エリス、もう離していい」
「あ、すみません」
拘束を解かれたシズが服の裾を整える横で、アインザックが息を呑む音が聞こえた。
「おい……見ろ。あそこだ」
アインザックが指さした先――。
霧が完全に消え去った湖の対岸。天を突くような巨木と太い蔦に覆われた断崖の麓(ふもと)に、それは静かに佇んでいた。
苔(こけ)むした巨石が、幾重にも組み上げられた荘厳な建造物。
それは、この世ならざる威容を放つ古代文明の巨大なゲートだった。
巨石の表面には、風化しながらも青く鈍い光を放つ未知の幾何学模様が刻まれている。
「……古代の遺跡か」
アインザックが少年のように目を輝かせた。
「これは……見つけましたね」
エリスもまた、戦うAPとしての真剣な眼差しでその巨石を見据えた。
あの幽霊馬車は、探検隊をこの古代遺跡へと導くために現れたのではないか――そんな錯覚すら覚えるほどの、圧倒的な存在感だった。
「リッチ。対岸へ飛んで。あの建造物の調査を――」
エリスが命じかけたとき、エルダー・リッチが初めて自ら進言した。
「ワーナベPより、特ダネ映像は適宜持ち帰るよう、指示を受けております。いったん帰還し、映像を届けて参ります」
「ワーナベPがそんな指示を?」
エリスの脳裏に、葉巻を燻らせながらニヤリと笑うシン・ワーナベの顔が浮かんだ。
(ワーナベPなら、確かにやりかねない)
「わかったわ。まずは映像を届けて、それからすぐに戻ってきてちょうだい」
エルダー・リッチは無言で頷くと、スクロール<ゲート>を展開し、漆黒の門の向こうへと姿を消した。
見送ったアインザックが、腕を組んで湖の対岸を見やる。
「さて……。どうやって対岸へ渡るか、だが……」
「……問題ない。アインズ様から各種スクロールを託されてる。なんでもござれ」
シズが束になったスクロールを取り出して見せた。
「さすが魔導王陛下ね。それじゃリッチが戻り次第、すぐに対岸へ渡りましょう」
行く手を阻むものは何もない。
白霧の晴れ渡った湖の向こうで、未知なる古代遺跡が静かに一行を待ち受けていた。