魔導産業革命 ~エネルギーシフトと覇権通貨「エン」がもたらす軍事なき支配~ 作:Camel おさ
シャルティア・ブラッドフォールンは、ある異変に気づいていた。
アルベドの様子がおかしい――。
この一か月、アルベドは目に見えて上機嫌だった。廊下ですれ違えば鼻歌でも歌い出しそうなほど足取りが軽く、白い頬は常にほんのりと薔薇色に上気し、口元には夢見るような微笑みが張りついている。
正妃の座を争うライバルとして、あの忌々しい余裕の笑みが何を意味するのか、気にならないはずがなかった。
◇ ◇ ◇
初夏のある日――。
シャルティアは新首都ノヴァリアの王宮を、軽やかな足取りで歩いていた。
その身に纏っているのは、自らがモデルを務める『ブラッド』新作の夏モデルだ。
初夏の陽射しに映える涼やかな白レースと薄絹を重ねつつ、ブランドの象徴である「鮮血の真紅」を胸元のリボンや薔薇のコサージュ、そして歩くたびに揺れるスカートの裏地に鮮やかにあしらった、可憐かつ高貴なサマードレス。
この一着を、誰よりもまずアインズ様にお見せしたい――そう胸を弾ませながら、シャルティアは執務室の扉をノックした。
しかし、返事はない。
「アインズ様、シャルティアでありんす。お入りしてもよろしいでありんしょうかぇ?」
首を傾げつつ、そっと扉を開けて中に足を踏み入れる。
広々とした執務室は、しんと静まり返っていた。執務机の向こうに主の姿はなく、傍らに控えているはずのアルベドの姿も見当たらない。
「おかしいでありんすね。今日は終日、王宮で政務をとられると聞いていたはずでありんすが……」
シャルティアは真紅の瞳をすっと細め、高い天井の隅へと視線を向けた。
そこには気配を殺した八肢刀の暗殺蟲――エイトエッジ・アサシンが張りついていた。
シャルティアは可憐な微笑みを浮かべて声をかけた。
「エイトエッジ・アサシン。アインズ様はどちらにおいででありんすか?」
天井から音もなく降りてきたエイトエッジ・アサシンが、体を低く伏せて頭を下げる。
「は、はっ……。その……アインズ様は、現在ご不在でして……」
「不在なことは見ればわかりんす。どこへ行かれたのかと訊いているのでありんす」
「そ、それは……その、なんと言いますか……」
普段なら即座に答えるはずの護衛が、明らかに口ごもり、視線を気まずそうに泳がせている。
――何かある。しかも、わたしに知られてはまずい何かが。
シャルティアの顔から、ふっと笑みが消えた。
次の瞬間、シャルティアの白い指が、エイトエッジ・アサシンの首根っこを鷲掴みにし、そのまま執務室の壁へと叩きつける。
「ぎゃっ……!?」
「隠し事は感心しないでありんすねぇ」
可憐なサマードレス姿のまま、圧倒的な怪力でミシミシと首を締め上げる。
紅い瞳が危険な光を帯び、廓言葉すら剥がれ落ちた冷ややかな声が響いた。
「アインズ様は、どこへ行かれたの? 言いなさい。さもないと、その八本の脚を一本ずつ引っこ抜くわよ」
「ぐ、ぐえっ……! も、申し上げます……っ!」
首を絞め上げられたエイトエッジ・アサシンは、八本の脚を必死にばたつかせながら、苦し紛れに白状した。
「アインズ様は……アルベド様とご一緒に、南境の深淵に完成した温泉リゾートへ、『一番風呂』に入りに行かれました……っ!」
ピシリ、と執務室の空気が凍りついた。
「……なんですって……」
アルベドと二人きりで、温泉リゾート。
点と点が、シャルティアの脳裏で一本の線に繋がった。
だからあの女、この一か月ずっとニヤニヤと気色悪い笑みを浮かべていたのだ。
「あの女ぁ……っ! わたしに内緒で抜け駆けなど、許せないでありんす……っ!!」
◇ ◇ ◇
南方未踏の密林、その最深部に築かれた温泉リゾート。
ドラウディロンの采配により、開業前の施設一帯は魔導王と宰相アルベドのためだけの完全貸切とされ、周囲には蟻一匹通さぬ厳重な警戒網が敷かれていた。
最上級スイートルームに備え付けられた、七色の専用露天風呂。
揺らめく湯煙の中、アインズ・ウール・ゴウンは広い岩風呂の湯船に肩まで浸かり、「ふう……」と安堵の息を漏らしていた。
(いやあ、やっぱり温泉は最高だな……。骨の髄まで染み渡る……)
元日本人のアインズが、本物の秘湯に心を緩めていたそのとき、岩場の向こうで、さらり、と衣擦れの音がした。
振り返ったアインズの眼窩の紅い光が、激しく揺らめく。
アルベドは、身に纏っていた湯浴み着を惜しげもなく脱ぎ捨てていた。
立ち上る湯気の向こうに、一糸まとわぬ白磁の肢体が浮かび上がる。薔薇色に染まった頬、小刻みに震える腰の黒い翼。そして黄金の瞳をとろりと潤ませながら、アルベドが一歩、また一歩と湯船へ迫ってきた。
「アインズ様……! お背中をお流しいたします……!」
「ま、待てアルベド! なんで湯浴み着まで全部脱いでるんだ!?」
アインズの体が緑色の光を放ち、内心の大パニックを強制的に抑え込む。
じりじりと湯船の奥へ後ずさりし、背中の岩壁に追い詰められた、そのとき――
ゴォォォォッ!!
突如、大気を切り裂く凄まじい轟音が響き渡った。
ドラウディロンが敷いた完全貸切の警戒網を、空からぶち抜いて、猛スピードで急降下してくる真紅の流星。
ドォォォンッ!!
露天風呂の岩場を踏み砕かんばかりの勢いで降り立ったのは――伝説級の全身鎧(フル・プレート)に身を包み、手には神器級武器(スポイトランス)まで構えた、完全武装のシャルティアだった。
「そこまででありんす! この発情大口ゴリラァッ!!」
「なっ……!? シャルティア!?」
アルベドの潤んでいた瞳が、一瞬にして獰猛に吊り上がった。
「あなた、どうしてここが――って、なによその格好は! 神聖な湯浴みの場に!」
「一糸まとわぬ破廉恥な姿でアインズ様に迫る痴女に言われたくないわ! 抜け駆けは断じて許さないでありんす!」
完全武装のシャルティア vs. 全裸のアルベド
アルベドにまったく勝ち目はない。
ただ、さすがにシャルティアも、アインズの御前でアルベドにスポイトランスで斬りかかったりはしない。槍の穂先を地面に突き立て、湯煙の中で激しい罵り合いが始まった。
「そもそも正妃たる私が、アインズ様のお背中をお流しするのは当然の務めよ! ペタンコ吸血鬼は今すぐナザリックへお帰りなさい!」
「盛りのついた大口ゴリラが正妃を名乗るんじゃありんせん!」
「なんですって!? その全身鎧ごと温泉に沈めて、茹でヤツメウナギにしてあげましょうか!」
「やれるものならやってみなまし! その無防備な裸体を串刺しにしてやろうかぇ!」
二人の怒号が、七色の湯煙を揺らす。
普段のアインズなら、すぐに割って入って止めるところだ。
ただ、湯船の隅で二人の激しい応酬を眺めていたこのときのアインズは――
(あ……。これ、混浴を逃げられるかも……)
そんなことを考えていた。
◇ ◇ ◇
それから数日後の休日。
ナザリック地下大墳墓第六階層。広大な樹海の中央に広がる湖畔の草原には、アルベド、シャルティア、そしてアウラ――女性守護者たち三人の姿があった。
爽やかな風が草原を吹き抜けるなか、日傘を差したシャルティアは、あの日以来ずっと胸につかえていた疑問をアルベドへとぶつけた。
「それで、アルベド。……あの日、あの後どうなったんでありんすか?」
あの日、結局シャルティアは「せっかくの休養なのだ、騒がしくするな」とアインズに優しくも厳かに諭され、泣く泣く先に帰ることになった。アルベドとアインズがその後どうなったのか、気になって仕方がなかった。
アルベドは、忌々しげにシャルティアを睨みつけた。
「あなたが乱入してきたせいで、混浴はお預けになったわ。アインズ様は『騒がしくなったから、一人でゆっくり湯に浸かる』と仰って、結局お一人で温泉を満喫されたのよ」
「わたしの乱入がアルベドの抜け駆けを阻止したんでありんすね! 結果オーライでありんす!」
胸を撫で下ろして勝ち誇るシャルティアだったが、アルベドはすぐに余裕たっぷりの笑みを浮かべた。
「ええ、お風呂はね。……でも、その後のスイートルームでは……アインズ様と、それはもう素敵な夜を過ごさせていただいたわ」
うっとりと胸元に両手を添え、熱っぽい吐息を漏らすアルベド。
「なっ……!? す、素敵な夜、ですって……!?」
動揺するシャルティアの横で、アウラが「やれやれ、また始まったよ」と呆れたように肩をすくめた。
だが、シャルティアはすぐに真紅の瞳をぎらりと光らせ、アルベドの顔をじっと覗き込んだ。
「……ふうん。アインズ様と結ばれたというのでありんすね?」
「ええ、そうよ。悔しいかしら」
「ならば――今ここで『双角獣(バイコーン)』を召喚してみせてくんなまし!」
シャルティアの言葉に、アルベドの微笑みがピシリと凍りついた。
隣で聞いていたアウラも「あっ」と声を上げる。
かつてこの草原で三人が集まった際、ペロロンチーノの百科事典によって「不純を司る双角獣は、清らかな乙女を背に乗せることは決してありえない」という事実が判明していた。つまり、アルベドが本当にアインズと結ばれたかどうかは、双角獣が証明してくれる。
「な、なぜ今ここで双角獣を召喚する必要があるのよ。無意味だわ」
「あらあら、どうしたんでありんすか? まさか、素敵な夜を過ごしたというのがハッタリだから、召喚できないんではありんせんよねぇ?」
「だ、誰がハッタリよ! いいわ、召喚すればいいんでしょう! ――来なさい、私の騎獣!」
挑発に乗せられたアルベドが<騎獣召喚>を発動すると、何もない空間からゆらりと滲み出るように、馬用全身鎧を纏った双角獣が姿を現した。
シャルティアはニヤリと口角を吊り上げ、ビシッと指を突きつけた。
「さあ、乗ってみるでありんす! アインズ様と素敵な夜を過ごしたのなら、もう問題なく乗れるはずでありんしょう!?」
「ぐっ……!」
アルベドの額に、つうっと冷や汗が伝った。
もはや誤魔化しきれない。シャルティアの意地悪な視線と、アウラの興味津々な視線が突き刺さる。アルベドは覚悟を決めたように双角獣へと歩み寄り、鐙に足を掛けてその背へと跨った。
鞍に体重を預けた、次の瞬間――。
ブルルッ! と双角獣の全身が激しく震えた。
強大な魔獣であるはずの双角獣が、四肢をガクガクとよろめかせ、その場にどさりと体を伏せた。
「あーあ、また潰れちゃったよ。ほらアルベド、早く降りてあげなよ」
アウラに言われ、アルベドは耳まで真っ赤にして双角獣の背から降りた。
つまり、アルベドは処女のままだということが、白日の下に晒されたのである。
「ぷっ……くくく、あーっはっはっは! やっぱり嘘っぱちでありんしたね! 双角獣に乗れないということは、アインズ様には指一本触れてもらえなかったんでありんすね!」
腹を抱えて笑い転げるシャルティアに、アルベドは涙目で歯ぎしりしながら叫んだ。
「な、何もないわけじゃないわよ!」
「へえ、じゃあ何があったというんでありんすか?」
「あの夜、アインズ様は……『睡眠不要の私にベッドは要らん。日頃の疲れを癒やすため、今夜はこのベッドでお前が安らかに眠りなさい』って、ご自身のベッドを私に譲ってくださったの!」
「なんだ、ベッドを譲られただけでありんすか」
「最後まで聞きなさい! 私が眠りにつくまで、アインズ様がベッドの縁に腰掛けて……ずっと優しく私の頭を撫でて、寝かしつけてくださったのよ!」
草原に、すとんと沈黙が落ちた。
シャルティアの笑い声がピタリと止まり、真紅の瞳が零れ落ちそうなほど大きく見開かれる。
「……あ、アインズ様が、頭を撫でて……寝かしつけてくださった、ですってぇ……!?」
いつもなら二人のやり取りに呆れ返っているアウラまでもが、身を乗り出して声を張り上げた。
「なにそれ! あたしだってアインズ様に頭撫でて寝かしつけてもらいたいのに!」
「ふふふっ、羨ましいでしょう。あのお優しい御手の感触、一生忘れないわ……」
うっとりと自分の頭を押さえるアルベドに、
「抜け駆け反対でありんす!」
「ずるいよ、ずるいー!」
とシャルティアとアウラが噛みつく。
穏やかな第六階層に、女性守護者三人の賑やかな声がいつまでも響き渡っていた。