魔導産業革命 ~エネルギーシフトと覇権通貨「エン」がもたらす軍事なき支配~ 作:Camel おさ
アインズとアルベドの「一番風呂」から数日後。
グランドオープンを間近に控えた温泉リゾート『虹彩閣(こうさいかく)』の専用発着場に、ボーン・アルバトロスが牽引する皇帝専用機が静かに舞い降りた。
タラップが下り、機内から姿を現したのは、バハルス帝国皇帝ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスと、筆頭書記官ロウネ・ヴァミリネンである。
「よく来たわね、ジル。それにヴァミリネン殿も」
発着場の前で一行を出迎えたのは、艶やかな大人の美女、竜王国女王ドラウディロン・オーリウクルスだった。髪を緩やかに結い上げ、南国の風に合わせた涼やかな薄絹のドレスを纏っている。
その傍らには、竜王国の宰相が恭しく控えていた。
「招きに感謝する、ドラウディロン。……だが、開業前の宿で骨休めなど、本当に構わないのか?」
「いいのよ。一番風呂は魔導王陛下とアルベド様に差し上げたけれど、苦労人のあなたたちにもゆっくり羽を伸ばしてほしくてね。まだ正式開業前だから、他の客は誰もいないわ」
ドラウディロンは悪戯っぽく微笑むと、二人を『虹彩閣』の館内へと案内した。
一歩足を踏み入れた瞬間、ジルクニフとヴァミリネンは思わず息を呑んだ。
つい一か月前まで、人類未踏の密林だったはずの場所である。そこに今、白亜の石材と温かみのある銘木(めいぼく)を融合させた、壮麗にして近代的な大旅館がそびえ立っている。回廊の窓からは緑豊かな渓谷美が一望でき、館内の隅々にまで魔導ライトの柔らかな光が行き届いていた。
「……流石だな。あの三首脳会談から、まだ一か月ほどしか経っていないというのに」
「ええ。魔導国の魔法とアンデッドの労働力、それに建築技術。それらにかかれば密林の開拓も大旅館の建設もあっという間よ」
並び歩きながら、ドラウディロンの声には隠しきれない誇らしさと弾みが宿っていた。
その後ろで、竜王国の宰相も静かに言葉を添える。
「ジルクニフ皇帝陛下。我が竜王国は今、建国以来かつてないほどの活気に沸いております。これまで基幹産業を持たなかった我が国に、観光と繊維原料という二つの巨大な柱が同時に誕生したのですから」
「ふむ。あの魔導王のことだ。かつてのビーストマンの国も近代都市へと生まれ変わらせることを考えているだろう。そしてさらに――」
ジルクニフは足を止めて、呟くように言った。
「属国を増やすことを考えているか……。いや、魔導王にとって大地と空の支配はすでに見えたと言っていい。ならば次は……海か……?」
◇ ◇ ◇
やがてジルクニフたちは、館の最奥に位置する絶景の大露天風呂へと案内された。
中央にそびえる自然岩の仕切り壁によって男湯と女湯が隔てられており、広大な岩風呂には、湧き出たばかりの七色の霊泉がなみなみと湛えられている。立ち上る湯煙が夕暮れの光を受け、淡い虹彩を描いて揺らめいていた。
男湯にはジルクニフ、ヴァミリネン、そして竜王国宰相の三人が足を踏み入れ、岩壁の向こうの女湯にはドラウディロンが一人で入った。
かけ湯を済ませ、ジルクニフがゆっくりと湯船に身を沈める。
とろりとした滑らかな湯が肌を包み込み、肩まで浸かると、
「……ふはぁぁぁぁぁ……!」
鮮血帝と恐れられた若き覇王の口から、およそ皇帝らしからぬ、魂の抜けたような吐息が盛大に漏れた。
隣ではヴァミリネンも、顔を上に向け、「あ、ああぁぁ……生き返るようですぅ……」と情けない声を上げている。
七色に揺らめく霊泉の温もりが、凝り固まった肩の筋肉をほぐし、休む間もなく張り詰めていた神経をじんわりと解きほぐしていく。疲労のすべてが虹色の湯の中へと溶け出していくようだった。
「……どう、ジル? 悪くないでしょう?」
岩壁の仕切りの向こうから、ドラウディロンの極楽そうな、どこか艶めかしい声が響いてきた。
男湯の湯船の縁に後頭部を預けたまま、ジルクニフは目を閉じて応じた。
「ああ……。魔導王が一番風呂を望まれた理由が、よくわかる」
「ふふ、でしょう? ……つい数か月前まで、ビーストマンに国を滅ぼされかけて、毎日泣きながら酒をあおっていたのが嘘みたいだわ。夢を見てるのかと思うくらいよ」
ぽつりとこぼれた女王の本音に、ジルクニフは静かに目を開け、茜色から群青へと移りゆく空を見上げた。
「底知れぬ怪物の手のひらの上ではあるがな」
ジルクニフは湯面を見つめ、穏やかな声で続けた。
「それでも……この平穏と繁栄は、何ものにも代えがたい」
静かな共感が、湯煙と水音に乗って岩壁越しに流れる。
しばしの穏やかな沈黙が満ちたあと、
「そういえば……。ビーストマンとの戦争といえばね……」
ドラウディロンがふと思い出したように声をかけてきた。
「魔導国から『一番風呂』への礼状が届いたのよ。手紙の文面自体は、アルベド様が書かれたものだったわ。……ただね、その礼状の末尾に、魔導王陛下ご自身からの追伸が、一行だけ添えられていたの」
ジルクニフはわずかに眉をひそめ、湯の中で身を起こした。
ヴァミリネンも耳をそばだてる。
「魔導王からの追伸? なんと書かれていたのだ」
岩壁の向こうで、ちゃぷん、と湯が揺れる音がした。
そしてドラウディロンは、その一文を静かに口にした。
「もはや戦後ではない」
「……もはや、戦後では、ない……?」
ジルクニフがオウム返しに呟く。
「ええ。どういう謎かけなのかしら」
――むろん、その場にいた四人は知る由もない。
その言葉は、アインズ(鈴木悟)が、かつて日本の経済白書に記された有名な一節をふと思い出し、「復興した竜王国への礼状だし、なにか歴史に残るカッコいい名言でも添えておこう」くらいの軽い気持ちで書き添えたものに過ぎなかった。
だが、絶対者の何気ない一言は、受け取る者たちの現実と重なり合った瞬間、途方もない意味を帯びて輝き始める。
竜王国の宰相が、ゆっくりと口を開いた。
「ビーストマンとの戦争が終わってから、まだ数か月しか経っておりません。通常の国家であれば、今後何年も、あるいは何十年もの歳月をかけて瓦礫(がれき)を片付け、失われた田畑を耕し、戦争の傷跡を癒やす『戦後復興』に追われるはずです」
ドラウディロンが静かな熱を込めて言葉を継いだ。
「でも竜王国は……破壊された都市はわずか数か月で復興したばかりか、以前とは見違えるような近代都市へと生まれ変わった……」
「それだけではございません。都市と都市は魔導高架鉄道で結ばれ、空には定期便が就航し、さらには国家を支える二大基幹産業まで誕生しました。街には未来への希望が溢れております」
二人の言葉を聞いた瞬間――ジルクニフの紫の瞳が、大きく見開かれた。
「……そうか……そういうことか……」
ジルクニフの声は、抑えきれない戦慄と感嘆に震えていた。
「つまり、魔導王はその一行で、我々にこう宣(のたま)われたのだ」
ジルクニフは立ち上る七色の湯煙の向こうを見据えて言った。
「傷を癒やし、失われた過去を取り戻すための戦後復興の段階は、すでに終わった。これからは、未知なる繁栄を創り出す、まったく新しい時代に入ったのだ――と」
仕切り壁の向こうで、ドラウディロンが息を呑む気配が伝わってきた。
――もはや戦後ではない。
たった九文字の言葉。
しかし、その意味を紐解いていったとき、少しずつ、まるで乾いた大地に水が染み入るように、その言葉の持つ途方もない重みと慈悲が胸の奥深くへと広がっていった。
滅亡の淵から救い上げられただけではない。過去を振り返って嘆く時間すら飛び越えさせ、眩いばかりの未来へと力強く背中を押してくれる絶対支配者――魔導王アインズ・ウール・ゴウン。
湯煙に包まれた大露天風呂の中で、二国の首脳と重臣たちは、しばらくの間、魂の底から込み上げる静かな感動に震えていた。
◇ ◇ ◇
――同じ夜。
もはや戦後ではない新たな時代を生きる若者が、竜王国の地方都市オハスにいた。
見違えるように復興を遂げた街の中心にそびえる、白亜のドームスタジアム。
全体練習がとうに終わった夜のグラウンドには、まだ魔導ライトの明かりが灯っていた。
ブンッ! ブンッ!
誰もいなくなったグラウンドの片隅で、夜気を切り裂く鋭いスイングの音が響く。
白地に真紅のラインが入ったユニフォームを汗と泥にまみれさせ、一心不乱にヘビーウエイトバットを振り続けているのは、かつてミスリル級冒険者チーム『ドラゴ・カルテット』で強弓を引いていた青年――カイ・フェンリルだった。
「……ふぅ」
カイは一度スイングを止め、ドームの天窓の向こうに広がる北西の夜空――魔導国の新首都ノヴァリアの方角へ、静かに視線を向けた。
少し前、全世界に放映された南境探検隊の緊急特番。画面の中で泥だらけになりながら、それでも凛として現場の指揮を執っていた美しい金髪のリーダー――エリス・ヴァレンシアの姿が、瞼(まぶた)の裏に焼き付いている。
カイの胸には、ひとつの揺るぎない誓いがあった。
来たる翌年の春。竜王国で新設されるプロ野球リーグ。その歴史的な開幕の舞台に一軍選手として立ち、彼女に胸を張れる男になったその暁には、人生最大の言葉を携えて想いを告げに行く――と。
カイは再びバットを強く握り直し、熱く静かな決意を瞳に宿して、遥かな夜空へと呟いた。
「エリス……。必ずお前を迎えに行くからな」
◇ ◇ ◇
一方、南境温泉『虹彩閣』。
湯上がりの一行は、最上級スイートルームの広間へと場所を移し、祝宴を開いていた。
テーブルの上には、山海の珍味をふんだんに使った豪奢な料理と、魔導冷蔵庫でキンキンに冷やされた黄金色のビールが並んでいる。
湯浴みで芯まで温まった体に冷たいビールを流し込み、美味い肴(さかな)をつまみながら他愛のない歓談に花を咲かせる。
やがて心地よい酔いと満腹感が部屋を満たし、夜もすっかり更けた頃、祝宴はお開きとなった。
「――では、夜も更けてまいりましたので、私はこれにて失礼いたします。ジルクニフ皇帝陛下、ドラウディロン様、どうか良き夜を」
竜王国の宰相が、すっと立ち上がって一礼すると、極めて事務的な口調で就寝の挨拶を述べ、淡々とした足取りで部屋を出ていった。
「うむ、ご苦労だった」
ジルクニフが鷹揚に頷くと、続いて帝国の筆頭書記官ヴァミリネンが、弾かれたように席から立ち上がった。
「わ、私めも、これにて失礼いたします……っ!」
「ああ、ゆっくり休むとよ……ん?」
ジルクニフは眉をひそめた。
ヴァミリネンの声が、妙に裏返っている。それどころか、まるで生まれたての小鹿のように両足をガクガクと震わせていた。
「おい、ヴァミリネン。どうした、顔色が変だぞ。湯あたりでもしたのか?」
「い、いいえっ! で、では陛下、ご武運を……いえ、お休みなさいませぇっ!」
ヴァミリネンはジルクニフの視線から逃げるように、ほぼ駆け足で扉の向こうへと転がり出ていった。
「……なんだ、あいつは」
ヴァミリネンの奇妙な振る舞いに首を傾げつつも、ジルクニフはグラスを卓上に置いて立ち上がり、軽く背伸びをした。
温泉のおかげで、あれほど重かった肩が嘘のように軽い。今夜は久しぶりに、泥のように深く眠れそうだった。
「実に良い湯と酒だった。礼を言うぞ、ドラウディロン。では、私もそろそろ休ませてもらおう。私の部屋はどこかな?」
ソファで優雅にグラスを傾けていたドラウディロンは、ジルクニフを見上げ、艶やかに微笑んで答えた。
「ここよ」
ジルクニフは一瞬ポカンとしたが、すぐに合点がいったように頷いた。
なるほど、主賓である自分に敬意を表し、この広大な最上級スイートルームをそのまま使わせてくれるつもりか。
「そうか、気を使わせてすまないな。ではドラウディロン、君の部屋はどこだ。そこまで送らせてもらおう」
紳士的にエスコートすべく手を差し伸べたジルクニフの前で、ドラウディロンはゆっくりとソファから立ち上がった。
湯上がりの甘い香りと、大人の女性の色香をふわりと漂わせながら、ジルクニフへと歩み寄る。
そして、妖艶に潤んだ瞳でジルクニフを見つめ、紅い唇を綻ばせた。
「ここよ」
ジルクニフの思考が、ピタリと停止した。
え? と問い返す声すら出ない。
ジルクニフの視線が、ゆっくりと広間の奥――開け放たれた寝室の扉の向こうに鎮座する、やけに巨大な天蓋付きのダブルベッドへと吸い寄せられた。
そこでようやくジルクニフは理解した。
ドラウディロンは最初から、自分と「同室」に設定していたのだ。
そして、無表情で事務的に退室した竜王国の宰相も、足を震わせて逃げ出したヴァミリネンも、事前にそれを知っていたのだ。
知らなかったのは――ジルクニフただ一人だったのだ。
(ヴァミリネンの奴が『ご武運を』と口走ったのは、そういう意味かっ!)
七色の霊泉でせっかく綺麗に汗を流したというのに、背中から全く別の冷や汗がどっと噴き出してくる。
ジルクニフは必死に皇帝の仮面を貼り直し、一歩後ずさりながら努めて冷静な声で告げた。
「ドラウディロン、冗談はよせ。別の部屋を用意してくれ」
だが、黒鱗の竜王は、勝利を確信した美しい笑みを浮かべ、甘く言い放った。
「まだ正式な開業前なのよ。他の部屋の準備なんてできてないわ」
――チェックメイト。
魔導王の手のひらの上では安らぐことのできた鮮血帝が、女王の手のひらの上で絶体絶命の夜を迎えることとなった。
―― 【外伝2】南境の深淵に射す虹彩・完 ――
ここまでお読みくださった方々、ありがとうございました。
この『【外伝2】南境の深淵に射す虹彩』は、当初は用意していなかったプロットだったのですが、17巻の発売を待つ日々が苦しくなり、気持ちを紛らわせるためにもう一つ外伝を書こうと思い、追加で書いたものです。
少しでも楽しんでいただけたなら、大変嬉しく思います。
親愛なる『オーバーロード』ファンの皆さま、ともに17巻を待ちましょう。