魔導産業革命 ~エネルギーシフトと覇権通貨「エン」がもたらす軍事なき支配~ 作:Camel おさ
(も、もう……もうやめてくれ……。これ以上は、私の精神が耐えられない……っ)
執行を待つ死刑囚が、ついに刑場へと引きずり出される瞬間を待つように、バハルス帝国の使者、ロウネ・ヴァミリネンは、魔導国で与えられた自室の椅子で頭を抱え、深くうなだれていた。
極限の恐怖とストレスにより、彼の脳内は現実と妄想の境界を失いつつあった。すでに目は黒布で覆われ、口は猿ぐつわを嵌められ、体を頑丈に固定された状態で、絞首台の踏板の上に立たされている――そんな幻覚すら見えていた。
いつ、足元の板が開くのか。いつ、首にロープが食い込むのか。ただそれだけを待つような、心臓が破裂しそうな静寂。
――コン、コン。
正に今、足元の踏板が開いたかのように、脳内に「ビシっ!」という凄まじい衝撃音が響き渡った。
それがただの「ノックの音」であると理解する前に、ヴァミリネンの自己防衛本能は限界を迎え、彼の意識は深い闇の底へと急速に遠のいていった。
「ヴァミリネン様。お時間です。お迎えに上がりました」
部屋の中から応答はない。
――コン、コン。
「ヴァミリネン様?」
――コン、コン。
静まり返った部屋に、乾いたノックの音だけが、虚しく響き続けた。
◇ ◇ ◇
「……意識を失っている?」
魔導国宰相アルベドは、その完璧な美貌に、ほんの僅かだけ不愉快そうな陰りを見せ、美しい眉を片方だけ吊り上げた。
「はい。定刻になっても応答がございませんでしたので、解錠して部屋に入りましたところ、床に倒れていらっしゃいました。呼吸はございますが、極度の心労による一時的なショック状態かと」
ヴァミリネンを迎えに行ったメイドが、淡々とした口調で報告する。
「そう……。本当に人間というのは、脆くて不便な生き物ね」
アルベドは小さくため息をつくと、机の上に置いてあった一通の厚みのある封書を指先で叩いた。
「仕方ないわね。それじゃあ、彼の意識が戻ったら、この封書を渡しておいて」
「かしこまりました」
「それから、目覚めた彼はきっと、一刻も早く帝国へ戻りたいと泣き叫ぶでしょうから。すぐに発てるよう、最高速度のアンデッド馬車を用意して差し上げて」
「はっ。そのように」
メイドは深々と頭を下げ、封書を恭しく受け取った。
◇ ◇ ◇
「陛下にお目通りをーーっ! 火急っ、火急にございますーーっ!」
「……あの声はヴァミリネン……」
バハルス帝国皇帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスは、手にしていた書類を放り出し、勢いよく椅子を跳ね除けて立ち上がった。
「またか?! 次から次へと! 今度は一体何をしたと言うのだ、アインズ・ウール・ゴウンめ!」
「バァン!」と、宮廷の礼儀作法を完全に無視した音を立てて扉が開いた瞬間、ジルクニフの胃は、かつてないほどの激しい激痛を訴え始めていた。
滑り込んできたヴァミリネンが、震える手で差し出した封書。
その中には、数枚の書類と、見慣れぬ「4枚の紙」が入っていた。
「なんだ、これは……」
ジルクニフが最初に目を留めたのは、その4枚の紙だった。
そこには、極めて精密な――まるで本物がそこにいるかのような――アインズ・ウール・ゴウンをはじめとする、魔導国幹部たちの肖像が描かれていた。
「ひゅーっ」
横から覗き込んだ将軍バジウッドが、場違いな口笛を吹いた。
「こいつはまた、えらく綺麗な絵ですな。帝国の宮廷画家に描かせても、ここまで細かくは描けませんぜ」
「確かに美しいが……。こんなものを送りつけて、一体どうしようと言うのだ。まさか、ただの嫌がらせか? ……いや、待て」
ジルクニフは、もっとも高額な数字――『10,000』という数字と、アインズの禍々しい肖像が描かれた紙を指先でさすった。その瞬間、「ざらり」とした、奇妙な凹凸の感触が伝わる。
(ただ紙に描かれただけの絵ではない……? この独特の触感、何か仕掛けがあるのか?!)
皇帝の執務室の大きな窓からは、まばゆい朝の光が差し込んでいる。
ジルクニフは紙の正体を見極めるべく、光の方向へとその紙をかざした。
「こ、これはっ?!」
紙の中央にある、不自然な白い縦長の楕円。単なる「余白」かと思われたその場所に、朝の光を透過した瞬間、アインズ・ウール・ゴウンの恐るべき骸骨の貌(かお)が、くっきりと浮かび上がったのだ。
光によって浮かび上がる、魔導王の不敵な微笑。
そのあまりにも高度な「透かし」の技術に、ジルクニフは完全に声を失った。
横から覗き込んだバジウッドも、今度ばかりは目を見開いて驚愕の声を上げる。
「なんですかい、こりゃあ! 魔導国は、光を閉じ込める魔法の紙でも発明したんですかい?!」
「へ、陛下っ、危険です! 呪いの類かもしれません、お手を離して!」
道中、恐怖のあまり封書の中身をまともに確認していなかったヴァミリネンが、悲鳴のような声を上げる。
ジルクニフは慌てて、火傷でもしたかのようにその「紙」を机の上に放り出した。
「……書類を見せろっ!」
謎の紙の正体を探るべく、ジルクニフは飢えた獣のような形相で、同封されていた書類を凝視した。彼の目の表面には、急激な血圧の上昇によって毛細血管が浮き出し、内出血を起こしつつあった。
書類に書かれた内容を、一文字たりとも見落とさぬよう、目で食すがごとく読み進める。
しかし、読み終えたジルクニフは、ただ眉をひそめ、困惑に首を傾げるしかなかった。
「おい、バジウッド……。ゴウンの奴は、一体何を考えている? 『エン』だと? 金貨や銀貨による交易が絶対のこの世界で、ただの『紙きれ』を通貨として流通させるだと? 正気か……?」
(待て……。あの怪物が、意味のないことをするはずがない)
ジルクニフの天才的な頭脳が、急速に負のスパイラルへと突入していく。
(そうか……! そういうことか、アインズ・ウール・ゴウン! 奴は、周辺諸国が保有する本物の金貨を、この紙切れと引き換えにすべて魔導国へと巻き上げる気だ! そして代わりに、奴らがいくらでも刷り増しできる無価値な紙切れ――エン――を他国に握らせる。周辺国がエンの利便性に依存し、金貨を手放した瞬間……魔導国のさじ加減一つで、他国の経済を、国家の命脈を、完全に破壊できるようになる……!)
ただの紙切れに「価値」を認めさせ、それを他国に強制する。
それは武力による支配よりも遥かに強固な、「経済という名の目に見えぬ植民地化」であった。
ジルクニフがその恐るべき陰謀に戦慄し、沈黙している間に、バジウッドが封書の中から、二つに折りたたまれた数枚の大きな紙の束を取り出した。
「陛下、こっちにも何か入ってますぜ。これはなんですかい?」
「それは……魔導国が『新聞』と呼んでいるものにございます……」
ヴァミリネンが、消え入りそうな声で補足した。
「新聞?」
「はい。魔導国内で極めて安価に、かつ広く売られており、文字が読める民たちは、こぞってこれを買い求めているとか……」
ジルクニフがその「新聞」を奪い取るようにして広げる。
そこには、新通貨「エン」の発行を祝う記事や、魔導国が設立した「銀行」での金貨との交換レート、そしてエンがいかに便利で安全であるかを説く、扇動的な文章が並んでいた。
「こんなものまで、すでに実用化していたというのか?! しかも、なんだこの精密な絵はっ?! これが、民の間に大量に出回っていると言うのかっ?!」
「いったい、どうやってこんな絵を描いているんでしょうな。やっぱり、これも魔法ですか?」
バジウッドが不思議そうに首を傾げる。
「ヴァミリネン! これは、どれほどの頻度で発行されているのだ!?」
「ま、毎日……にございます、陛下」
「毎日……だと……?!」
ジルクニフの脳裏に、再び激しい衝撃が走った。
(毎日、これほど精密な印刷物を、何万枚、何十万枚と刷り上げて民に配っているというのか?! そんなこと、常識的に考えて不可能だ! だが、奴らはそれを平然とやってのけている……!)
(いや待て……。驚くべきは、その技術力だけではない)
ジルクニフの思考は、さらにその奥にある「真の地獄」を幻視した。
(新通貨『エン』の流通を、この『新聞』という圧倒的な情報媒体を使って、民草に直接刷り込んでいるのだ! 国家が情報を統制し、民の思想を誘導し、同時に経済をも掌握する。これらがすべて、アインズ・ウール・ゴウンという怪物の手のひらの上で、完璧な歯車として噛み合っている……!)
武力、エネルギー、そして今度は「通貨」と「情報」――。
魔導国は、世界を物理的に滅ぼすだけでなく、社会の仕組みそのものを書き換え、自分たちを「神」とする新たな秩序を構築しようとしているのだ。
「あは、はは……」乾いた笑いが喉から漏れる。
ジルクニフの顔から、完全に表情が抜け落ちた。
それと同時に、彼の美しい金髪が、またしても「はらり」と音を立てて、無情にも床へと抜け落ちていった。